生麦事件と薩英戦争

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 生麦事件 文久2年8月21日(陽暦1862年9月14日)

【生麦事件】 薩摩の島津久光が江戸からの帰国途中、相州生麦村(現横浜市鶴見区)を通過のさい、行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら4人を殺傷した事件。

【生麦村】 東海道の海沿いの地で、神奈川、川崎の二宿の間にある。神奈川へ一里、川崎へは一里半はなれていて、江戸日本橋から六里の距離にあります。

■島津久光は勅使大原重徳と供に江戸に東下(江戸着は6月7日)、幕政改革の朝命を伝え、京都へ戻る途中でした。
 幕政改革の朝命:島津久光は政界から退けられていた一橋慶喜と松平慶永を復帰させようとし、慶喜を将軍後見職に、松平慶永を大老に任命することを朝廷を通して幕府に要求しました。幕府はこの要求を入れ、慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職に任命しました

 江戸高輪の薩摩藩下屋敷を午前10時頃出発した久光の行列約700人が生麦村にさしかかったのは午後2時頃。チャールズ・レノックス・リチャードソン、マーガレット・ボロデール夫人、ウッドソープ・C・クラーク、ウィリアム・マーシャルの4人の英国人が街道を乗馬で散策中に久光の行列に出会いました。
 行列の先頭の家士が「馬から降りろ。わきへ寄れ!」と注意しましたが、日本語が通じないため、行列の中に乗り入れてしまいました。
 信憑性は薄いですが、この時、先頭の騒ぎを知った乗物(駕籠)の中の久光が引戸を開けて「斬れ!」と命じたという説があります。

 供頭の奈良原喜左衛門が駈けだし、大刀を抜いて「きぇーっ!」と気合い声を上げ、飛び上がってリチャードソンの左胴から腹を斬り下げました。リチャードソンははみ出した腸を押さえながら逃げようとしましたが、久木村利久という家士に同じ箇所を、さらに斬られて落馬。とどめを刺されました。
 クラークとマーシャルも斬られて肩や腕に傷を負いましたが、ボロデール夫人と共に逃走。クラークとマーシャルは神奈川宿のアメリカ領事館(本覚寺)に助けを求め、ボロデール夫人はそのまま横浜のイギリス公使館に向かいました。

 リチャードソンは上海から日本に来たばかりで、日本人は中国人同様に鞭を上げれば逃げ散ると思っていたようです。彼らより先に、バンリードというアメリカ人(米領事館の書記官)がこの行列に出会っています。彼はすぐに馬から降り、道端に馬を押さえて膝をつき、脱帽して礼を示しました。バンリードは後に事件を知って、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」と言ったそうです。
 私の推測ですが、薩摩藩士たちはバンリードの礼にかなった行為を見た後だったので、礼儀をわきまえないイギリス人によけいに腹が立ったのかもしれません。

 この事件は「薩摩の殿様が攘夷をした。さすがは武勇を誇る薩州様だ」と攘夷志士たちが快哉を叫んだそうです。しかし、この事件を攘夷の実行と見るのは誤りで、大名行列に乗馬で乗り入れたのが日本人だったとしても同じように無礼討ちになったと思います。

 事件を知った横浜在住のイギリス人達は激昂し、島津久光一行を追撃し報復すべきだと騒ぎましたが、イギリス代理公使ジョン・ニールが懸命に彼らを押さえました。

 神奈川奉行はただちに、島津久光一行に英国人殺害犯人の処罰を要求しますが、薩摩側は「浪人が英国人を殺害した」「足軽某(架空の人物)が殺害し、遁走した」と言い残して出立してしまいました。
 この無責任な態度に神奈川奉行は憤慨し、幕府に島津家を罰することを進言しました。幕閣の中にも「薩摩は幕府を困らせるために異人斬りをやったのだ。薩摩を討つべし」と言う者がいましたが、幕府は薩摩ともめることを恐れ、結局はイギリス代理公使ニールによる謝罪と賠償金の要求を受け入れることになりました。翌文久3年5月9日、幕府は賠償金11万ポンド(うち1万ポンドは東禅寺事件の賠償金)を支払いました。

 薩英戦争 文久3年7月2日(陽暦1863年8月15日)

■文久3年5月、幕府から生麦事件の賠償金を受け取ったイギリス代理行使ジョン・ニールは、さらに薩摩藩と直接交渉するために、同年6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊7隻(旗艦ユーリアラス号2371t)に同行して鹿児島湾に遠征しました。
 薩摩藩に犯人の逮捕処罰と被害者、遺族への賠償金2万5000ポンドを要求しましたが、薩摩側は拒否。交渉は不調に終わります。
 ニールは強硬手段を行使し、7月2日イギリスは薩摩の汽船3隻の拿捕を手始めとし、薩英の間で砲戦が開始されました。

 暴風雨の中、英国艦隊と薩摩の陸上砲台の間で激しい砲戦が展開されました。
 鹿児島城下北部が焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けました。イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷する損害を出しました。備砲の射程はイギリス軍艦の方が上回っていたのですが、薩摩藩は二週間ばかり前に射撃演習したばかりの標的近くに敵旗艦が進入してきたために、正確にねらい撃ちできたようです。
 イギリス艦隊は翌3日桜島を砲撃しながら撤収、損傷艦を応急修理し、鹿児島湾を去って横浜に戻りました。
 9月28日から、横浜のイギリス公使館でニールと講和談判がおこなわれ、薩摩藩は2万5000ポンド(6万300余両)を幕府から借用して支払うことで、10月5日和議が成立しました。

 この戦闘以後、薩英はお互いの評価を改め、親密感が生まれました。薩摩藩は、外国船をいたずらに攻撃したり、異人斬りなどの「小攘夷」の愚を知り、開国による富国強兵をおこない、外国に劣らない武力を備える必要性を悟ったのです。またイギリス公使パークスは、幕府にかわって薩摩などの雄藩が連合政権を作ることを期待し、薩摩や長州を密かに支援するようになります。