安政の大獄と井伊直弼

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 安政の大獄  安政5年(1858)〜6年

【安政の大獄】 大老井伊直弼が将軍継嗣問題の反対派と幕政批判志士に加えた弾圧。
 井伊直弼は13代将軍家定の継嗣をめぐって一橋派と対立。南紀派に推挙されて大老に就任し、強権をもって一橋派を左遷処罰しました。また日米修好通商条約を勅許を得ないまま調印締結。この強権政治に反発した反幕的な公卿や志士たちに弾圧を加えました。

【将軍継嗣問題】 13代将軍家定が病弱であり、その補佐をするためと、実子がなく早々に後継者を決める必要があったのです。最有力候補は二人。水戸徳川斉昭の七男で、御三卿一橋家に養子に入った慶喜と紀州藩主の徳川慶福(よしとみ、後に家茂と改名)です。

 一橋派・・・一橋慶喜(18歳)を推すグループ。水戸徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永ら雄藩大名。岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志、大久保忠寛ら開明派官僚。「難局に指導性を発揮できる英明さ」を主張する。現代の企業に例えると「会社が危ない時に8歳の子供を次期社長にしてどうするんだ!」と主張するようなものです。

 南紀派・・・紀州藩主徳川慶福(8歳)を推すグループ。水戸斉昭を嫌う大奥、松平忠固(まつだいら・ただかた、老中)、水野忠央(みずの・ただなか、紀州家付家老)、平岡道弘(御側御用取次)ら保守派。「血筋の近さを尊重する」「年齢や英明さを基準に選ぶのは誤りである」とする。

■安政5年(1858)4月23日、井伊直弼が大老に就任し、その強権をもって「将軍継嗣問題」「条約調印問題」の懸案事項を強引に解決することになります。6月19日、日米修好通商条約に勅許を得ないまま調印。6月25日、徳川慶福を将軍世嗣とすることを発表しました。

 この強引な決定が大老井伊直弼に対する攻撃材料にされますが、それは誤りだと思います。
 日米修好通商条約に勅許(天皇の許可)を得ないで調印したことを責めるのは、まったく論外です。もともと外交権は完全に幕府が持っていて、天皇や朝廷が口出しすることではありません。鎖国は幕府の政策であり、開国するのも幕府の自由で、条約の調印に勅許など必要ないのです。
 井伊大老が就任以前の老中阿部正弘・堀田正睦が、開国通商に反対する者たちを押さえ込むために天皇の許可を得ようとした(天皇に責任を負わせようとした?)ことが間違いの元。目算が狂って勅許を得ることができず、政治に発言権がなかった朝廷を政治の舞台に引っ張り出してしまったのです。
 外交権:諸外国との外交権は幕府が持ち、和蘭(オランダ)風説書を通しての海外情報を独占しています。

 将軍継嗣を強引に幼い徳川慶福に決めたのも、血統という常識面からは当然ですし、結果的にも影響があったとは思えません。一橋慶喜は慶福より年長というだけで、英明だったかは疑問ですし、慶喜が将軍になったら、攘夷論者である水戸斉昭が将軍の実父として幕政に関与するでしょう。ただ、難局にあたって、指導力のある将軍の下に雄藩大名と優秀な実務官僚を配して、強固な体制にしようとした開明派たちの幕府改革の機会は潰えてしまいました。
 攘夷論者である水戸斉昭・・・攘夷論者ですが、本心では攘夷が無謀なことは理解していたそうです。

■井伊直弼に罪があるとすれば、将軍継嗣問題や条約無勅許調印ではなく、この後の弾圧をおこなったことだと思います。

【大獄断行の趣旨】
1.諸外国との通商条約締結において、妨害となる思想、行動への処罰。
2.将軍継嗣決定に対して、幕府の秩序を乱す行動への処罰。
3.京都朝廷の反幕派の一掃と、親幕派(関白九条尚忠など)の擁護。
4.水戸密勅事件(天皇が水戸へ直接に勅諚を下した)の水戸側関係者の処罰。

 大老就任直後に勘定奉行川路聖謨や老中堀田正睦を罷免し、「将軍継嗣問題」で反対派だった徳川斉昭や松平慶永を処罰しました。
 その後、幕府高級官僚の岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志、大久保忠寛らを追放し、幕政批判する者を次々と逮捕、処刑してゆきます。死刑8人、遠島や追放、所払い、押込めなど処罰者が合計75人。公家や大名、その家臣など、代表的な人物は「幕臣では岩瀬忠震、諸藩士では橋本左内と吉田松陰」といわれます。中でも橋本左内を処刑したことが、徳川幕府を滅ぼす遠因になったといわれています。

 弾圧の対象となったのが、幕府の秩序を乱したり、社会不安を起こす過激な攘夷論者だけなら納得できるのですが、「継嗣問題」で反対派だった大名・開明派官僚たちを処罰したのは、明らかな報復人事です。幕府が消滅するまでに10年、この時期に派閥争いをやっていたのです。
 安政の大獄 処罰者 (代表的人物です)
一橋慶喜 隠居・慎 徳川斉昭  水戸に永蟄居 徳川慶篤(水戸藩主) 隠居・慎
松平慶永 越前 隠居・慎 伊達宗城 宇和島 隠居・慎 山内豊信 土佐 隠居・慎
岩瀬忠震 永蟄居 川路聖謨 隠居・慎 永井尚志 永蟄居
安島帯刀 水戸殿家来 切腹 橋本左内 松平慶永家来 死罪 鵜飼吉左衛門 水戸殿家来 死罪
頼三樹三郎 京都町儒者 死罪 吉田松陰 松平大膳(長州)家来 死罪 梅田雲浜 尊攘志士 捕縛後獄死
 阿部正弘の幕政改革

■江戸時代を通して、最大の国家的危機は嘉永6年(1853)6月の「ペリー艦隊の来航」だと思います。この時の幕府政治を担当していたのが、老中首座阿部正弘です。当時35歳。彼は備後福山十万石藩主で、天保14年(1843)25歳の時に抜擢され、老中に就任しました。
 阿部正弘は幕閣にはかり、「戦争だけは回避しなければならない」として、ペリーの要求を受け入れることにしました。積極的な開国ではないにしても、この決断は外交の現実を知る者にとって当然だと思います。彼はペリーから受け取った「フィルモア大統領の国書」を諸大名に回覧し、幕臣や庶民からも「開国と通商」に関する意見を求めました。
 この時の答えは、多くの幕臣は現状を理解していたので消極的な開国論でした。他は現状維持論(とにかく開国反対)や徹底攘夷論(無責任な攘夷)。また少数ながら、幕臣勝麟太郎や下総佐倉藩主堀田正睦の積極的開国論がありました。

 阿部正弘は幕政改革を実施。まず有為な人材の抜擢を行いました。蘭学に明るい堀田正睦を自分より上位の老中首座に据え、海防掛目付に永井尚志、翌年に岩瀬忠震と大久保忠寛を任じました。大久保の推薦で勝麟太郎を蕃書翻訳に登用しました。
 オランダに蒸気軍艦を発注し、安政2年(1855)オランダから軍艦や教官の援助を受け長崎海軍伝習所を開設。安政6年(1859)2月に閉鎖される間に幕臣、諸藩士を問わず多くの人物(榎本武揚、川村純義、中牟田倉之助、五代友厚など)を育てました。
 安政3年(1856)4月、剣術、洋式砲術など武術教育機関である講武所を設立。翌安政4年1月には蕃書調所を設立、洋書の翻訳や幕臣の洋学教育などが行われました。

■阿部正弘と堀田正睦の政策で、大きな失敗がひとつ有ると思います。
 それは外交での対策や、和戦の意見を諸大名に問うたこと、通商条約で勅許を得ようとしたことです。上でも触れましたが、徳川幕府の政策において、諸大名や朝廷には発言権がなく、内政・外交とも独裁していました。それが広く意見を求めたことで、諸大名、朝廷、世間一般が政治に目覚めてしまいました。幕府にとって自信の無さを露呈し、天皇の意向が幕府の政策を左右することになり、自ら権威を下げることになりました。

 阿部正弘は安政4年(1857)6月17日に39歳の若さで亡くなってしまいます。その10ケ月後の翌安政5年4月、井伊直弼が大老に就任し、その強権政治の下に、阿部正弘が骨身を削って育て上げた改革や抜擢した人材は一掃されてしまうことになります。
 阿部正弘がもっと長生きしたら、井伊直弼の政権はなかったでしょうし、安政の大獄も起こらなかった・・・。こう考えると、彼の死が歴史を大きく変えたといっても良いのではないか、と思います。難局に対して心労に耐えず、早世してしまったのでしょうね。残念です。