石川県の中央部に位置する金沢は、一向一揆の加賀国、のちに前田家百万石の城下として、
 明治後は北陸の中枢都市(現在は中核市に指定されている)として発展しました。
 四季の彩り美しい金沢は、伝統文化と古い城下町の趣を現代に伝えています。
金沢の歴史年表 前田利家について

金沢城と兼六園

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■「加州は天下の書府なり」というのは、江戸時代中期の儒学者・政治家の新井白石が、前田家に仕えていた同門の室鳩巣(むろ・きゅうそう)へ宛てた手紙の中で表現したことばです。

 金沢は、5代藩主前田綱紀(つなのり)の時代に絢爛な百万石の文化が華開き、それは現代にまで影響をのこしています。
 自然薯(じねんじょ)を掘って暮らした藤五郎の伝説。富樫氏と一向一揆など。金沢の歴史をまとめてみました。
 室鳩巣・・・加賀の前田綱紀に仕えていた儒学者。
 藩命で京都に遊学し木下順庵に師事する。のちに同門の新井白石の推薦で幕府に仕え、八代将軍徳川吉宗の信任を得る。
 
藤五郎伝説は「郷土の歴史よもやま」を参照してください。

■金沢の地形は平野に細長く突き出た三つの台地(卯辰山丘陵地、小立野台地、寺町台地)と、その間を流れる二つの川(浅野川、犀川)からなっています。
 浅野川と犀川を天然の外堀とし、その外側に寺院群が配置され、中央の小立野台地の先端に金沢城があります。金沢の町は、その城を中心にして四方に拡がりました。

■加賀国は長享2年(1488)に、一向一揆の国人衆や地侍、百姓衆が守護富樫政親(とがし・まさちか)を倒したのち「百姓の持ちたる国のようになりて」といわれ、約100年間一向宗(浄土真宗本願寺)門徒が支配しました。
 
国人(こくじん)・・・在地に経営基盤を持ち、村落を支配した領主。

【史料】
「(文明6年11月)加賀国の一向宗土民、侍分と確執す。侍分ことごとく以て土民方より国中を払はる。守護代、侍方に合力するの間、守護代こすき
(小杉氏)打たれ了んぬ。一向宗方二千人計打たれ了んぬ。国中焼け失せ了んぬ。東方の鶴堂は国中へ打ち入ると雖も、持ち得ずと云々。土民蜂起は希有の事なり。−大乗院寺社雑事記−
 
読み:「了んぬ→おわんぬ」「雖も→いえども」

「(長享2年6月)一揆勢二十万、富樫の城を取り回く。故に以て、同九日、城を攻め落とさる。皆生害す。而るに富樫一家の者一人之を取り立つ。−蔭凉軒日録−

「次郎政親を討取りて、康高を守護としてより、百姓取り立て富樫にて候あひだ、百姓等のうちつよく成て、近年は百姓の持ちたる国のやうになりて行き候ことにて候。
−実悟記拾遺−」

■富樫政親が倒されて、守護不在の門徒による国になったというのではなく、門徒たちは富樫康高(政親の祖父の弟)を擁立して新守護としました。形だけの存在としても、守護職は政親が倒された後も続いています。歴史教科書などで、「一向一揆に守護が滅ぼされた」と書かれているのは表現が不正確です。

 また「百姓の持ちたる国のように」といっても、百姓イコール農民ではありませんし、門徒たちによる平等で民主的な自治が行われたのではないようです。
「何トモ不知上方ノ衆ガ下リテ、国ヲホシイママニイタス事、所存ノ外ナリ。
−越州軍記−」と嘆く越前の一揆衆の記録が残っているそうで、加賀の国でも同様に本願寺から派遣された坊主衆や有力国人衆に支配される社会だったようです。
 
この頃の本願寺は京都山科で、大坂石山に移ったのは天文元年(1532)。

■天文15年(1546)石山本願寺から本尊が下され、現在の金沢城址の地に、金沢御堂(尾山御坊)といわれる寺院が完成し、一向一揆の拠点となりました。
 阿弥陀如来が安置された本堂は、金沢城本丸の地にあったといわれます。金沢御堂のまわりには真宗門徒や商工民が居住し、交通・商業の中心、寺内町としてにぎわいました

 金沢御堂の後背地である小立野台地は、芋掘り藤五郎伝説にもあるように、古くは豊富な砂金が採れる地域だったそうです。御堂が建てられる以前には、金の採掘を生業とする金屋衆と呼ばれる人たちが集落をつくっていたといわれます。
 金沢御堂は本願寺八世蓮如上人が越前吉崎に道場を設けた文明3年(1471)頃に、加賀における布教の中心として開いたという説もあります。

 一向一揆の拠点・・・金沢御堂が拠点となる以前は、河北郡二俣(のち若松に移転)の本泉寺、能美郡波佐谷の松岡寺、江沼郡山田の光教寺が「加州三ケ寺」といわれ、加賀一向一揆の中心でした。

■天正8年(1580)織田信長の加賀侵攻により、部将柴田勝家と佐久間盛政が金沢御堂を攻略。佐久間盛政が、その跡地を改修して尾山城を築きました。
 天正11年(1583)柴田勝家と羽柴秀吉が信長の後継をめぐって争った賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れました。この戦いで、与力として勝家に付いていた前田利家は戦線を離脱。秀吉に降って、秀吉軍の先鋒となり尾山城を開城させました。
 利家はこの協力によって、秀吉から北加賀を与えられ、七尾小丸山から尾山城に移り、金沢城と改名しました。敗者の側にいた利家がこれほどの厚遇をうけたのは、戦線離脱の効果がよほど大きかったのだ、といわれます。

■浄土真宗の御堂を中心に寺内町として形成された金沢は、利家入城後は城下町となり、前田家は明治の廃藩までここを居城に、百万石の加賀・越中・能登三国を統治しました。
 この前田家の280年にわたる統治は金沢だけでなく、石川県人全体の県民性に大きな影響を与えたといわれます。
 
「県民性に与えた前田家の影響」参照→

■5代藩主前田綱紀(つなのり)は、木下順庵、室鳩巣(儒学)や稲生若水(本草学)など各地から著名な学者を招き、家中に学問を奨励しました。古今の貴重な書物を収集・筆写。綱紀自身も学問好きで、百を超える著作があるそうです。
 また工芸技術の育成と伝承に努め、城内に設けられていた細工所を整備拡大するなど、綱紀は「美術工芸と文化の国」を築きあげました。その蔵書と工芸品のコレクションは「尊経閣文庫」とよばれ、国宝や重要文化財の宝庫として、現代まで伝えられています。

■慶応4年(1868)1月3日、京都方面で幕府と薩摩・長州の間に戦いがおこり、11日に前田家は徳川方に味方するために出兵しました。翌日、鳥羽伏見で幕府軍が敗退し朝敵となったという知らせを受けて、方針を変更。送り出した兵を呼び戻し、朝廷側につくことになります。
 けっして日和見というのでなく、藩主前田慶寧(よしやす)は徳川に頼らず、薩長にもつかず、北陸で自立割拠するつもりだったようですが、時代がそれを許さなくなっていたのですね。その後、官軍の北陸鎮撫軍に加わり、越後の戦いに参戦しました。

■明治2年(1869)版籍奉還。加賀は金沢藩となります(大聖寺は大聖寺藩に)。
 14代藩主前田慶寧(よしやす)は金沢藩の藩知事に任命され、政庁を重臣の長(ちょう)家の屋敷に移しました。翌々年、廃藩置県が実施され、官選知事(金沢県大参事)内田政風(薩摩出身)の赴任によって、前田家は東京に移住することになりました。

 
金沢城石川門と二重櫓。 天明7年(1787)建立。
 石川門は城の搦手(からめて)門です。


 金沢の地形は平野に細長く突き出た三つの台地と、
その間を流れる二つの川(浅野川、犀川)からなって
います。
卯辰山の標高は141m。小立野台地が約50〜80m、
寺町台地は約20m〜50mです。

 卯辰山麓と寺町の二箇所の寺院群は有事のさいには
防衛拠点となるように配置されているそうです。
 金沢の歴史Contents

■ 富樫氏と蓮如について
 

■ 加賀前田家歴代城主一覧

■ 前田家の参勤交代路

■ 前田家の領地

■ 加賀藩の職制

■ 県民性に与えた前田家影響

■ 金城霊沢(芋掘り藤五郎)

■ 金沢城と兼六園

 金沢御堂があった金沢城本丸に至る極楽橋。
 前田利家が入城して居館とした時、天井の梁から菰に
包まれた阿弥陀仏像が発見され、利家夫人のまつが
自分の念持仏にしたそうです。


 本丸付段(本丸下の小曲輪)三十間長屋の前にある
金沢御堂の基礎石だとされる手水石。

■金沢の明治初年の人口は約12万で、江戸期には江戸・京都・大坂に次ぐ大都市でした。
 しかし版籍奉還により、武士に依存していた加賀百万石の経済力は急激に衰退し、人口が激減することになります。
 明治5年の一時期には県庁が石川郡の美川町に移されるなど、そのような景気沈滞に対して、殖産興業がさかんに行われました。旧士族の長谷川準也、大塚志郎らにより「金沢製糸場」(明治7年3月)がつくられ、撚糸会社や銅器会社も設立されました。
 明治初年の人口は12万・・・江戸時代の金沢の人口は、推定約11〜12万人。武家と町民が半々の割合。ちなみに現在(平成16年)の人口は約456,000人。

 市制施行は明治22年(1889)4月1日。明治政府は全国に31の市をつくり、石川県には金沢市ができたのですが、その二代市長に近代産業の発展に貢献した長谷川準也が就きました。(初代市長は稲垣義方)

【石川県の県名は、県庁が明治5年の一時期、石川郡の美川町に置かれたからですが、なぜ加賀県や金沢県ではないのでしょうか?。それは加賀前田家が幕末維新時の朝廷への忠勤藩ではなかったからだそうです。つまり小さな郡の名を県名にすることでの差別待遇だったようです】

■明治8年(1875)金沢城址に名古屋鎮台の分営として陸軍歩兵第七連隊が、明治31年(1898)には陸軍第九師団司令部が設置されました(初代師団長は大島久直中将)。
 第九師団司令部と第六旅団司令部、歩兵第七連隊が金沢城址に、郊外の野村(現在の野田町、平和町付近)に歩兵第三十五連隊が置かれ、金沢は第九師団の将兵とその家族2万人以上が住むことになりました。
 藩政期に12万人だった人口が、明治30年には8万人にまで減っていた金沢の町は「軍都」となって活力を取り戻したのです。
 第九師団は明治37年(1904)日露戦争に動員され、旅順、奉天の戦いに参加しました。旅順の激戦では、第九師団の戦死者約5000人を数え、旅順陥落後の奉天の戦闘でも甚大な損害を受けました。

*第九師団は歩兵第六旅団(金沢)と歩兵第十八旅団(敦賀)から成り、第六旅団は歩兵第七連隊(石川県出身者で編制)と歩兵第三十五連隊(富山県出身者で編制)から成ります。

 明治20年(1887)第四高等中学校が開校(明治27年、第四高等学校と改称)。
 前後して、石川県師範学校や女子師範学校、石川県尋常中学校、金沢市高等女学校など各種の高等専門学校が設立されました。また北陸女学校や金沢女学校、金城遊学館など私立の女学校が創立。学都にもなりました。

 明治31年(1898)北陸本線が金沢まで開通しました。金沢→米原を、一日5本の汽車が7時間かけて走ったそうです。運賃は米原まで1円30銭(そば一杯が1銭の物価)だったそうです。
 大正8年(1919)には市内電車が金沢停車場(駅)〜兼六園下間に開通しました。市内電車はその後、市内大通りを各方面に敷設され、市民の足となりました(昭和42年に廃止)。


 尾山神社(前田利家を祀る)の神門。(明治8年建立)


 長町武家屋敷跡の土塀。
 長町(ながまち)には平士(中級家臣)たちの屋敷。
隣の玉川町には、前田家重臣の長(ちょう)家と
村井家の屋敷、その家臣たちが居住していました。
 長町の町名は長家の名が由来と言われます。
 明治初頭には長家屋敷が藩庁にあてられました。
 旧士族の長谷川準也らによって製糸場や撚糸会社、
銅器会社が長町に建てられました。



 西外惣構堀(そうかまえぼり・外堀)の跡。
 慶長15年(1610)三代藩主利常が城の東西に
惣構堀を造らせました。二代利長が築いた内惣構堀と
ともに城を二重に囲んでいます。堀の内側には土居が
高く掻き上げられていました。
住民の生活用水として使用されたそうです。



 金沢百万石まつり。
 毎年6月第一土曜日の百万石行列を中心に、金土日の
 3日間、おこなわれる市祭です。
 写真は消防分団員による加賀鳶(とび)のはしご登りの妙技。

■大正2年(1913)香林坊に常設の映画館「菊水倶楽部」ができ、大正12年(1923)には金沢初のデパート「宮市百貨店」(大和の前身)が開店しました。
 宮市百貨店は木造洋館3階建て(一部4階)で、店内はゴザが敷かれ、客は履き物を脱いで上がったそうです。香林坊には最盛期に80軒を数えたといわれるカフェがあり、ネオン輝くモダンな繁華街としてサラリーマンたちの人気を集めました。
 大正14年(1925)日本海に面した金沢近郊粟崎に「粟崎遊園」が開園。大劇場や遊園地など、北陸の宝塚といわれる一大レジャー施設で、少女歌劇団のレビューが大人気だったそうです。

 大正末期から昭和初期のいわゆる戦前は、私たちは学校の歴史授業で、軍国主義で自由がなく暗い時代だったとして、すべてを否定的に教えられました。
 でも考えてみれば、庶民の生活や文化は現在とそれほど大きな違いはなかったのではないでしょうか。
「青い背広で心も軽く♪(青い背広。昭和12年)」と歌われるような流行歌や、探偵小説や時代小説などの大衆小説、「少年倶楽部」など健全な子供雑誌の存在。
 映画だけをみても、昭和13年(1938)の「愛染かつら」の大ヒット。外国映画の「モロッコ」(昭和6年)「キング・コング」(昭和8年)や「望郷」「駅馬車」(昭和14年)、チャップリンやキートンの喜劇、フレッド・アステアの華麗なミュージカルなどが懐かしい思い出になっている年配の人たちがおられるはずです。そのような時代が暗黒だったはずがありません。中国大陸で戦火が広がる一方で、人びとはモダンで明るい娯楽文化を楽しんでいたようです。

■太平洋戦争(昭和16年〜20年)では、隣県の福井・富山はアメリカ軍の空襲にあいましたが、金沢は戦災をまぬがれました。上空をB29爆撃機の編隊が通り過ぎてゆくのを、市民は「次は石川県か」と思いながら見上げたそうです。富山空襲の時は、富山方向の夜空が燃えて、赤く染まっていたと祖母に聞いた記憶があります。

■戦後は、野田町に陸上自衛隊の駐屯地(第14普通科連隊)がありますが、軍都の性格は消えました。
 戦災を受けなかったおかげで城下町の旧態を残すことができ、金沢は北陸の中枢都市として発展しました。
 加賀前田家は京都の文化を取り入れましたが、それは模倣ではなく独自の「武家と町人の文化」として育まれました。現在もその技は受け継がれ、伝統産業として、九谷焼、加賀漆器、金箔の製造や加賀友禅、加賀象眼、水引細工など、繊細で優雅な美術工芸品を産出しています。

 また「繊維王国石川」と呼ばれる繊維工業では、明治40年代前半、石川県産の輸出羽二重(白生地絹織物)が全国生産の三分の一を占めるまでになり、その技術は高い水準を誇りました。明治後半から大正にかけて、石川・福井県の輸出羽二重生産は全国の約7〜8割を占めたそうです。
 現在では、OLのユニフォームで国内最大シェアを持つ企業や、超高速織機で知られる織機メーカーがあり、その他にも金属加工・工作機械など各種の機械工業が発達しています。

■金沢は城下町として観光資源に富んでいます。金沢城址には重要文化財の石川門・三十間長屋があり、平成13年には橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓が厳密な考証により復元完成しました。この復元工事は総工費46億円。明治以降に建築された城郭では最大規模といわれます。
 御城に隣接して日本三大名園の一つ兼六園があります。兼六園横にある「金城霊沢」という泉には「金洗い沢」として「金沢」の地名の由来が伝えられています。
 尾山・尾崎神社、天徳院、成巽閣と土塀に囲まれた武家屋敷などに大城下町の面影がしのばれます。

■毎年、百万石まつりが6月第一土曜日を挟んで3日間、金沢市街中心部において盛大におこなわれます。
 前田利家の金沢入城を記念した市祭で、昭和27(1952)年に金沢市と金沢商工会議所が中心となって開催した商工まつりが第1回でした。
 その後、華やかな百万石行列を中心に、金沢ならではの伝統のある行事が繰り広げられる現在の姿に発展しました。
 以前は利家入城の天正11年6月14日(旧暦)にちなんで毎年6月14日に行われていましたが、梅雨時による天候と観客の便宜を考慮し、6月の第一土曜を中心にした金土日の3日間に変更されました。
 1日目(金)は、お水とりの儀式・茶筅供養(金沢神社・成巽閣)、祈願祭、献茶式(尾山神社)
           加賀友禅灯籠流し(浅野川)、子供提灯太鼓行列(中央公園を出発)。
 2日目(土)は、百万石茶会(兼六園)、百万石行列(金沢駅を出発、金沢城まで)、百万石踊り流し(南町〜片町。国道157号線)。
 3日目(日)は、百万石茶会(兼六園)、百万石薪能(金沢城)。

■前田家には本多家(5万石)と長(ちょう)家(3万3千石)、横山家(3万石)という大名クラスの上級家臣がありました。
 本多家は徳川家重臣の本多正信の二男政重が前田利長に仕えたものです。長家は能登鹿島郡の国人だった長連龍が、前田利家が能登一国を与えられた時に与力となったもの。横山家は横山長知が父長隆と共に、越前府中で前田利長に仕えたものです。

 現在の本多町のあたりに本多家の上屋敷と、その家臣たちが住む下屋敷地(家中町・かっちゅうまち)がありました。玉川町のあたりに長家の屋敷とその家臣たち。横山町のあたりには横山家屋敷と家臣たちが住んでいました。
 つまり前田家の城下町金沢の中に、本多家、長家、横山家のミニ城下町が存在しました。城下町の中にある城下町。これも金沢の特徴となっています。
   (町名は上に掲載の地図を参照してください)

 他に、奥村家(宗家1万7千石、支家1万2千石)、村井家(1万6千石)、前田家(直之系1万1千石、長種系1万8千石)の、1万石以上の上級家臣が8家(人持組を含めると12家)あります。彼ら八家は「年寄」と呼ばれ、藩政を合議制で担当しました。
 八家重臣たちの家臣と人持組68家の家臣(陪臣)総数は前田家の直臣よりも多かったといわれます。
 人持組・・・ひともちぐみ。加賀藩の上士身分で最低千石〜1万4千石で68家ある。
          人持組から家老と若年寄が選ばれる。

 奥村河内守(奥村宗家1万7千石)上屋敷の塀。
小立野の辰巳用水沿い。
明治になって金沢衛戍(えいじゅ)病院、国立病院、
現在は金沢医療センターの敷地となっています。
■余談ですが、近年、「小京都」という言葉を耳にします。金沢は大名家の「城下町」であり、金沢を「小京都」と呼ぶのは間違っています。
 どの地方都市でも、その独自の歴史や文化、特色を持っていて、それを「小京都」と呼ぶのは失礼です。
「小京都」などと、地方を馬鹿にしたような言い方はやめてほしいですね。


■「藩」という用語について。
 「藩」という語は、江戸時代の初期には存在せず、中期になって新井白石の「藩翰譜」など、儒学者の間で用いられたそうですが、幕府の制度上の用語としては最後まで使われることがありませんでした。
 普通は「各大名家」と言い、例えば「前田家」「前田家中」で、「加賀藩」とは言いません。自分の国を言う場合は「家中、お国」と言います。
 家士が身元を名乗る場合、例えば「前田加賀守家来なに某」と言います。あくまで前田家の家臣ですから、「加賀藩士なに某」とは言いません。また他家を言う場合は「なになに様(殿)」。「加賀様」「加州様」「前田様」など。
 「忠臣蔵」で、「浅野内匠頭家来大石内蔵助」と言うのと同じです。この場合も「赤穂藩士大石内蔵助」と言うことはあり得ません。
 制度上の名称として「藩」が正式に使用されたのは、明治になって旧大名領を藩と呼んだ版籍奉還の時で、それも廃藩置県までの短期間だけです。
 現在、歴史学用語上「藩」が使われるのは、大名領を大名家とは別の行政単位として表現する場合に適当な語がないからです。「加賀藩」という名称は江戸時代には存在しなかったということです。

■またまた余談ですが、例えば、前田又左衛門利家という名前では、前田が名字(苗字)。又左衛門が通称。利家を実名、または諱(いみな)といいます。実名は文書の署名では使用されますが、口にしない名前です。
 なので、「利家様」とか「利家殿」と呼びかけることはひじょうに無礼なことなのです。日常生活で使うのは又左衛門という通称の方で、相手を実名で呼ぶことはあり得ないことです。「ここが変だよ時代劇」ですね。


■参考文献

 「石川県の歴史」(山川出版社)
 「石川県の歴史散歩」(山川出版社)
 「こども金沢市史」(金沢市)
 「おもしろ金沢学」(北國新聞社)
 「北國文化 2005年夏号 軍都金沢の記憶」

 「奮闘前田利家」(学習研究社)
 「前田利家 岩沢愿彦」(吉川弘文館)
 「街道の日本史 加賀・越前と美濃街道」(吉川弘文館)
 「大系日本の歴史 戦国大名 脇田晴子」(小学館)
 「新選日本史史料集」(東京書籍) 

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