池田屋事件
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 池田屋事件について
■以前には、新選組の池田屋襲撃は、逮捕した古高俊太郎から得た情報や、山崎烝など監察部の探索の結果だといわれていました。
 山崎烝が薬屋に変装して池田屋に泊まり、内偵していたなど、テレビや映画でもつねにそう描かれていました。
 隊を二つに分け、近藤勇がわずか5人で池田屋に、副長土方歳三が残りを率いて四国屋(三条木屋町。池田屋のすぐ近くです)へ向かったともいわれていました。
 この説は子母澤寛さんの「新選組始末記」の影響と思われますが、それ以前の、明治27年に発表された西村兼文(西本願寺侍臣だった人物)の「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」に山崎烝の薬屋変装説が書かれていて、子母澤寛さんは同書を参考資料にしたようです。

■近年では、新選組は尊攘激派浪士の京都市中焼討ちというテロ計画の情報を得て、急いでパトロールを始めたら浪士たちの池田屋における集会を発見し、闘争におよんだというのが定説になっています。
 浪士たちが池田屋に集ったのは、古高俊太郎が逮捕されたのを知って、その善後策を練るためで、古高俊太郎がそれを知るはずがなかった、といわれます。

■それと当日の出動隊士が近藤・土方を含めて、わずか34人だったのは、夏の暑い季節のため病人が多かったからとされていましたが、実際は脱走があいついで、隊士が減少していたのが本当の理由だそうです。

 ↑現代の三条大橋

 ↑池田屋(東映太秦映画村のセット)。
池田屋は現存せず、跡地に碑が建っているだけです。

■新選組パトロール隊は、午後8時頃に祇園会所を出発。近藤隊10名は河原町通を北上(木屋町通を北上という説もあります)。
 土方隊24名は縄手通を北上。周辺の旅籠や料亭の御用改めを開始しました。六ツ半時(夏なので8時半頃)に祇園界隈を調べる土方隊の目撃が記録されているそうです。(土方隊の人数が多いのは、捜索範囲が近藤隊より広いため)
 近藤隊が三条小橋詰の池田屋に注目したのは夜四ツ時(10時半すぎ)だといわれます。
近藤勇の書簡では
■事件の三日後6月8日の日付で近藤勇が、江戸の養父近藤周斎ほか五名(末尾に勇の長兄宮川音五郎の名があります)に宛てて出した手紙には、
「三条小橋、縄手二箇所屯致居候処へ、二手に分れ、夜四ツ時頃打入候処、一箇所には一人も居不申、一箇所には多勢潜伏致居り。兼て覚悟の徒党の族故、手向戦闘、一時余の間に御座候。打取七人、手疵為負候者四人、召捕二十三人、右は局中の手にて働に候」(新選組史料集 近藤勇の手紙)とあります。
 これをみると、新選組は一軒一軒調べて行って池田屋にたどりついたというより、浪士の潜伏先に、ある程度の目星がついていたようにも思われます。
 潜伏先がまったく不明で、三条・四条通間の、鴨川両岸のみという範囲を少人数でしらみつぶしの捜索の結果、池田屋の集会を発見したというのでは、ご都合主義な感じがしないでもありません。
 池田屋は長州藩士の定宿でもあり、前もっての情報として、潜伏先の候補地が何箇所か上がっていたのではないかなと思います。
 池田屋襲撃  元治元年6月5日夜  陽暦では1864年7月8日夜
 元治元年(1864)4月以来、多数の長州人が京都に潜入しているとの情報を得た新選組は、監察部を動員して、さらなる探索を強化していた。
 6月5日早朝、新選組は四条小橋西入ルの薪炭商・桝屋喜右衛門を逮捕連行した。屋内を捜索した結果、多数の武器弾薬の他に「烈風を期とすべし」などと書かれた密書を発見。
 桝屋喜右衛門の正体は輪王寺宮家臣・古高俊太郎と判明した。厳しい拷問により、「御所への放火と反長州派の大名襲撃後、長州勢を京都に引き入れる」という計画実行のために、四条・三条あたりの町家や旅籠に多数の長州人が潜伏していることをつきとめた。
 報告を聞いた局長近藤勇は黒谷の会津本陣に急報し、出動を要請した。京都守護職松平容保は藩兵の出動を決断し、一橋(禁裏守護総督)、桑名(所司代)、町奉行所とも打ち合わせ、新選組には、この日夜五ツ(不定時法だから夜9時頃)をもって祇園町会所に集結する事を約した。
 一方、古高俊太郎が逮捕されたことを知った尊攘激派浪士たちは、三条小橋西の旅籠・池田屋で集会を開き、善後策を協議することとなった。
 同日午後、祇園町会所に集合した新選組は武装を整え、所司代や奉行所の出動をじりじりして待つが、ついに単独で1時間早く捜索を開始することを決断した。
 32名の隊士を二手に分け、近藤勇が9名、副長土方歳三が23名を率いる。
 新選組は夜8時頃から、三条あたりの茶屋・旅籠など、しらみつぶしの捜索を開始した。
 近藤隊は河原町通を北上。三条小橋まで出て池田屋に注目したのは四ツ(夜10時半頃)ごろだといわれる。
 近藤は隊士たちに裏表を固めさせると、沖田総司、永倉新八、藤堂平助のわずか3人を率いて表口から進入し、御用改めである旨を告げる。亭主は驚き、2階に知らせようとするが、階段を駆け上がった近藤は、そこに抜刀して待ち受ける20人あまりの浪士たちを発見した。

「新選組の御用改めである。無礼すまいぞっ!」と大声で一喝。斬りかかる浪士を一刀のもとに斬り捨てる。
 こうして「池田屋事件」として有名な2時間余の激闘が始まった。鎖を着て、籠手脛当てで完全武装の新選組だが、多勢に無勢。近藤隊は苦戦を強いられるが、四条縄手通を捜索していた土方隊が駆けつけることにより、攻勢に出た。

 近藤勇は表口と裏手を固めさせると、炊事場に永倉新八、中庭に藤堂平助を配置し、沖田総司と二人で奥の階段を上がりました。
 この事件で新選組は激派浪士を7人(宮部鼎蔵、吉田稔麿、広岡波秀、福岡祐次郎、大高又次郎、望月亀弥太、石川潤次郎)討取り、23人を捕縛(松田重助、山田虎之助など)するという大手柄をたて、浪士たちの陰謀を阻止したのである。(総勢32人で上げた戦果にしては大きすぎて、応援の会津・桑名藩兵たちが池田屋周辺で討取った人数も含まれていると思われる。
 近年、会津・桑名・彦根や町奉行所も探索に加わっていたとされ、池田屋襲撃も新選組の単独行動だったのか疑問が出されています)
 その後も、会津や桑名の藩兵とともに残党狩りを行い、翌日正午ごろ屯所に帰営した。隊士たちは皆、返り血を浴び凄惨な姿だったといわれる。
 新選組の死者は奥沢栄助ただ一人。重傷者は安藤早太郎、新田革左衛門(2人とも後死亡)、藤堂平助(額を割られた)の3人だった。会津、桑名、彦根藩兵にも死傷者が出ている。
■長州藩士桂小五郎は当夜8時頃に、いったん池田屋を訪れましたが、まだ同志が集まっていなくて、出直すつもりで近くの対馬藩邸に行っていたので、難をまぬがれたといわれます。
 新選組の襲撃が10時半頃ですから、幸運というより、桂は集会に参加する気持ちがなかったのかもしれません。血気にはやる同志の行動には「ついて行けないなー」と批判的に思っていたのではないでしょうか。
■池田屋は長州藩士の定宿として知られていた旅籠です。古高俊太郎が新選組に逮捕された時点で計画が漏れたと判断すべきなのに、そのような場所で浪士たちが会合を開いたというのが不思議です。ましてや、酒を飲んでいたとすれば、その無神経ぶりは話になりません。桂小五郎が敬遠したとしても納得できますね。

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