義経の戦法はルール違反?
 義経の戦い方は卑怯だと言われます。ルール無視をすれば勝つのが当然だとも言われます。
 正々堂々と戦うのが武士道?。戦争はスポーツではありません。生きるか死ぬかの戦争に
 フェアプレイ精神だとか、悠長なことを言ってられるでしょうか?

源平争乱のコーナーTOPへ

新選組のコーナー 幕末動乱のコーナー 戦国乱世のコーナー
金沢の歴史 金沢の歴史よもやま

 当時の合戦とは?
■「この当時、合戦は正々堂々とおこなわれるもので、互いに集めうる戦力を一定戦域に集めて、ではこれから開戦だと大将同士が挨拶して、作法にのっとって弓矢、薙刀、刀剣を使って殺し合った」
「この当時の合戦は一騎討ちが主流だった。両軍が対峙して大将が挨拶する。互いに矢を交わし、剛勇の武者が進み出て一騎討ちをおこなう」・・・・このような説は信じることができるのでしょうか?
「武士道は正々堂々、フェアプレイ精神である」「合戦は一騎討ちが主流」という、俗説(迷信)が疑うことなく信じられているのではないかと思います。
 合戦が一騎討ちだとしたら、一騎討ち打ちの勝者が多い方が合戦で勝ったことになるのでしょうか?。一騎討ちの相手を求めて、武将たちは戦場を右往左往するのでしょうか?。そんなバカな戦争があるとは信じられません。

「合戦は一騎討ちが主流」という説はどこから出たのでしょう?。
「今昔物語集巻二十五 源充と平良文と合戦せる語 第三」が出所だとされています。
『今昔(いまはむかし)、東国に源充(みなもとのみつる)、平良文(たいらのよしふみ)と云二人の兵(つわもの)有けり・・・』で始まります。
 源充と平良文は、二人の間でお互いを悪く告げ口する者があって、合戦におよぶことになります。二人は口で争っていても仕方がない、と言って一騎討ちをすることになり、互いに騎馬で弓を射合うのですが、勝負がつかず、引き分けになります。お互いの力量を認め合った二人は、その後仲良くなったという、さわやかな話です。
 この話は数多くの歴史書籍に引用されています。そのために、武士の戦いは一騎討ち、と言われ、すべての武士は二人のように正々堂々とフェアに戦ったのだと思われるようになったのでしょう。
 しかし、文中に『各五六百人許の軍有り。一町計を隔て、楯を突き渡したり』とあって、楯突戦(たてつくいくさ)であり、楯を並べて弓を射合う弓射戦で、その中で一騎討ちがおこなわれたことになっています。
 当時の合戦は馬上で弓を射る武者と、それを補佐する薙刀や弓を持った徒歩の従者たちを最小単位とした戦力構成でした。楯突戦と騎射戦という弓射戦が主流であり、一騎討ちは成り行きでおこなわれたにすぎないのです。
 「今昔物語集」 岩波文庫 本朝部(中)361ページ参照。
  角川文庫版は本朝世俗部上巻184ページ。こちらは源苑(みなもとのあたる)になっています。

■合戦はスポーツではありません。どちらが生き残るか生死を賭けたものです。夜討ち、放火、奇襲は一般的におこなわれた行為であり、ルールがどうとか言う悠長なものではないでしょう。
「我れ弓箭の道に足れり。今の世には討勝を以て君とす。何を憚らむや」と、平将門が豪語しているように、「力で打ち勝つ者が君主なのだ。何をはばかることがあるか」というのが本当だと思います。
「勝って生きるか、負けて死ぬか」であり、「武士の情」や「名を惜しむ」のは武士としては当然の倫理であり、「ルール」や「フェアプレイ」とは関係がありません。
 「今昔物語集」 岩波文庫 本朝部(中)344ページ 巻第二十五 第一「平将門、謀反を発し誅せられたる語」 参照。
   「将門記」には「今の世の人、必ず撃ちて勝てるを以て君と為す」とあります。
 義経の戦法は汚いのでしょうか?
■義経の戦いで、まず上げられるのは「一の谷合戦」「屋島の合戦」「壇ノ浦の海戦」でしょう。
一の谷合戦
元暦元年(1184)
2月7日
 摂津と播磨の国境一の谷(現在の神戸市)において、源範頼・源義経の軍と平宗盛を主将とする平家軍との間で戦われました。
 前年の寿永2年(1183)7月に木曾義仲によって都を追われた平家は、勢力を回復し、一の谷に陣を張りました。平家追討の院宣を得た範頼と義経は京都を発し、範頼が大手を攻め、義経は背後を迂回して軍を二手に分け、一の谷の平家軍を奇襲しました。平家の主将平宗盛は海路屋島へ逃れましたが、重衡が生け捕られ、通盛・忠度が戦死しました。
 この合戦で超有名なのが義経の「鵯越の逆落とし」です。一の谷背後の崖上に現れた義経軍は、断崖を駆け下りて平家軍を奇襲。混乱に陥った平家軍は潰走しました。
屋島の合戦
文治元年(1185)
2月18、19日
 讃岐国屋島(香川県高松市。現在は陸続きですが当時は島でした)で源義経と平家との間で戦われました。
 前年に一の谷で敗れた平家ですが、対岸の屋島に本拠を構え、依然として制海権を保持していました。
 義経は2月17日未明、摂津の渡辺津から、わずか150騎を従えて、強風で荒れる海を強引に五艘の舟を出して、阿波の勝浦(現在の徳島県小松島市)に渡海。勝浦から屋島までは約60キロ。夜を徹する強行軍で19日の朝、屋島の内裏の対岸に到着。平家軍を急襲しました。不意を突かれた平家は海上へ逃れ、戦闘の末、長門へ向かいました。
 梶原景時以下の本軍二百余艘が屋島に着いたときには、すでに合戦は終わっていて、そのために梶原は「六日の菖蒲(端午の節句に遅れた菖蒲)」と嘲笑されました。戦いに遅れた武士たちは面目を失ったのです。
 義経の弓流しや梶原景時との逆櫓論争、那須与一が扇の的を射て喝采を浴びた有名なエピソードは、この合戦の時です。
壇ノ浦の海戦
文治元年(1185)
3月24日
 長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で戦われた海戦。
 屋島から逃れた平家は長門国の彦島にありました。源義経は伊予の河野氏、熊野別当湛増らの水軍を味方に加えて瀬戸内海を西進。山陽道を進む範頼の軍と合流し、3月24日源平両軍は壇ノ浦の海上で戦いました。源氏方は840余艘、平家軍は500余艘(吾妻鏡)。
 海戦に不慣れな東国武士、新たに加わった水軍など、寄せ集め編成の源氏方は押され気味で、苦戦しました。この不利な戦況を見て義経がとった、平家方の水手や梶取を射る作戦が有効打となり、そのために平家軍は押し切れずに立ち往生。そして、開戦時には潮の流れに乗って優勢だった平家軍にとって、海流が逆方向に流れる時刻(午後3時頃)が来たのです。
 潮流に乗る源氏方と、潮流で舟のコントロールを失う平家軍。さらに平家方からは裏切りが出て、形勢が逆転。平家軍は敗北してしまいます。
 平家は平知盛、平教経以下、多くの一門が戦死・入水しました。安徳天皇も二位の尼(平清盛の妻時子)とともに入水。平宗盛・清宗父子、平時忠らは捕らえられて京都に送られました。この戦いで平家一門は滅びました。
 文治元年3月24日は西暦で5月13日。その日の満潮は午前4時半と午後3時半頃。午前10時が干潮。関門海峡は満潮時に西流、静水をはさんで、干潮時には東流になるそうです。合戦は正午頃から午後4時頃までとされています。
■義経の戦いで「ルール違反」「汚いやり方」と非難されるのが、「一の谷の鵯越」の奇襲と、壇ノ浦海戦で義経が平家軍の舟の水手・梶取(かんどり・船頭)を射させたことです。
 つまり正々堂々と戦うべきなのに背後を奇襲するのがフェアではない、そして舟の水夫・梶取は非戦闘員であり、それを射るのは違反行為で、汚いと言われています。
「武士の世界では馬を射てはいけない。馬は非戦闘員であるという意識があった。だから非戦闘員である水手・梶取りを射るのは卑怯である」。合戦には紳士協定があって、義経がそれを一方的に破ったというのです。
 フェアプレイの合戦ルールを当時の武士たち全員が厳守していて、義経だけがそれを破ったのなら、非難されても仕方ないでしょうが、そのようなことは絶対にあり得ません。
 馬が非戦闘員だというのは馬鹿げていますし、非戦闘員を殺害するのが汚いと言われるなら、軍勢が侵攻先で非戦闘員に対しておこなう乱暴狼藉、掠奪暴行はどうなのでしょう?。一騎駆けがあたりまえで、仲間はライバル。手柄のために抜け駆けし、他人の手柄を横取りする。そのような武士たちに、義経を非難する資格があるでしょうか?。義経が水手・梶取りを射れば、平家側も同様に射返せばよいのです。
 馬を射てはいけない・・・「昔様ニハ馬ヲ射事ハセザリケレドモ、中比ヨリハ、先シヤ馬ノ太腹ヲ射ツレバ、ハネオトサレテカチ立ニナリ候、近代ハ、ヤウモナク押並テ組テ、中ニ落ヌレバ、太刀、腰刀ニテ勝負ハ候也」 という和田義盛の郎党藤平真光の言葉があります。「昔は馬をわざと射ることはなかったが、最近は馬を射て、跳ね落とされて徒歩立ちになったところを太刀や腰刀で討取るようになった」と言うのです。
 また、わざと馬ごと体当たりさせて、相手の騎馬を転倒させるという技もあるそうです。馬を射ないのは非戦闘員だからでなく、馬が貴重で大切だったからでしょう。わざと射ないでも、狙いがそれて馬に当たることも多かったはずです。


 そして問題は、文献(「平家物語」「源平盛衰記」など軍記物語や天台宗座主慈円が著した「愚管抄」、鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」など)には義経の戦いが汚いと非難した形跡が見られないことです(私もできうる範囲で確認しました)。当時の人たちには、義経の戦い方が違反だという意識はなかったと思われます。
 義経を非難するのは当時の武士たちではなく、武士を美化する現代人です。特に歴史学者や研究家からの評価は低いようです。
 ある日本史の書籍には「名乗りを上げて、一騎打ちをするのが合戦のルールである。それを平然と破るような、恥を知らぬ奴がなぜ人気者なのか」などと酷評されています。
 武士道はフェアプレイ精神、武士の戦いは正々堂々の一騎討ちである、という誤解・俗説が疑うことなく信じられています。
「将門記」「「陸奥話記」には凄惨な戦闘が描かれています。敗軍側の女性たちは捕らえられ、戦利品として兵士に分配されます。
 時代がさかのぼって「古事記」では、倭建命(ヤマトタケル)の戦い方は現代人から見れば卑怯以外の何でもないですが、勇者と讃えられています。
 敗れば殺されるか奴隷にされ、これまで築いた努力の成果がすべて無に帰すのです。だまし討ちもりっぱな戦術でしょう。
 戦争に美を求め、武士を美化し、ロマンを要求するのは平和ボケした現代人の甘い考えで、間違っています。
 源平合戦は、常識で戦った平家と、常識にとらわれない戦いをした義経との違いが勝敗を決したということでしょう。


■参考文献 「戦場の精神史 武士道という幻影」佐伯真一 NHKブックス
        「弓矢と刀剣 中世合戦の実像」近藤好和 吉川弘文館
        「騎兵と歩兵の中世史」近藤好和 吉川弘文館
        「源平合戦の虚像を剥ぐ」川合康 講談社選書メチエ
        「謎とき日本合戦史」鈴木眞哉 講談社現代新書
        「武士道の逆襲」菅野覚明 講談社現代新書
        「今昔物語集 本朝部 中巻 池上洵一編」 岩波文庫
        「将門記 陸奥話記 保元物語 平治物語」新編日本古典文学全集41 小学館
        「平家物語 第三巻 梶原正昭・山下宏明校注」 岩波文庫