藤澤清造 略歴


明治22年10月28日、石川県鹿島郡藤橋村(現在の七尾市馬出町)の貧農の家に生まれる。尋常小学校の尋常科を卒業後、活版印刷所に勤めるが、その頃右足の骨髄炎にかかり後遺症が残る。その後、足袋屋や代書屋などで働き、明治39年18才の時、上京。
製綿所に勤めたり、沖仲士、弁護士の玄関番などをしながら役者を目ざすが、足の後遺症もあり断念し、文学を志す。
やがて、室生犀星や徳田秋声の知遇を得、その縁で『演芸画報』の三島霜川に紹介され、演芸画報社に入社。同誌に劇評などを発表する。
大正10年、同社を退社後は、小山内薫の紹介で松竹キネマに入るが、三ヶ月足らずでクビとなり、当時大阪で巡査をしていた兄のもとで「根津権現裏」を書き上げる。翌大正11年4月、日本図書出版株式会社より刊行。清造唯一の刊本となった同作は、田山花袋や島崎藤村からも高い評価を得た。この年、初めて商業誌に創作が載る。9月に関東大震災が起きると、ルポルタージュを各誌に発表。
大正13年、14年と様々な商業誌に小説、戯曲、随筆などを精力的に発表するが、創作の不評が目立つようになる。また、恋人だった元娼婦の早瀬彩子と同居をはじめる。創作の発表も少なくなり、雑文を書いてどうにか糊口をしのぐが、生活は破滅的な状況に落ちる。この時期以降下宿を転々とするうち、慢性化した性病がもとで精神に変調をきたし、昭和7年1月29日早朝、芝公園の六角堂で凍死体となって発見される。


東京千駄木2-10界隈。昭和5年、清造はこの辺りの下宿「愛晟館」にいた。(写真は本文より転載。撮影:小幡英典)