五箇山 羽馬家

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塩硝の道とは

 崎浦地区の土清水と涌波を繋ぐ急な坂道が「塩硝坂」。その近くの涌波堤公園の石碑に「南に火薬製造所、西に塩硝蔵があった。」との記載がある。そしてそれから50キロメートルの距離の五箇山にある「塩硝の館」や塩硝製造の遺物。その点と点を結ぶ線が塩硝の道である。

金沢市崎浦公民館
「塩硝の道」検証委員会


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加賀藩の塩硝
 加賀藩の塩硝作りは、何時ごろ始まったかについて二つの説があります。
1、元亀元年(1570)、石山の本願寺は織田信長に対抗するため、尾山御坊へ鉄砲を送り、その火薬を五箇山で作るよう塩硝技術者を五箇山へ派遣しています。
2、利賀の西勝寺は加賀の人、洲崎恒念を大阪・堺へ派遣して製造法を習わせています。(真宗五箇山史より)
 加賀藩は質、量ともに日本一の座にあった。百科事典に「加賀より産するものを最上品とし、筑前(福岡県)はこれにつぐ」。森重流の砲術書にも「加賀のものが第一級品、その硝石の山元は五箇山という深山」とあり。五箇山の塩硝は文字どおり全国一と記されています。
 加賀藩では徳川幕府との関係で秘密にされ、あまり記録に残っていません。その証として、煙硝の煙は「塩」の字を使っています。
 五箇山は豪雪地帯で冬期は他の地方と完全に隔絶され、塩硝製造の秘密を守るには絶好の地でした。農民たちは、それまで炭焼き、養蚕、和紙作りなどで細々と生活していました。この土地は塩硝製造に好都合な豊富な燃料、清冽で温度の低い豊かな水に恵まれていました。江戸時代の書「毛吹草」に「越中、飛騨、安芸、美作」と記され、加賀藩はここでもトップの座にありました。

塩硝の道
 昨年、塩硝の道検証委員会が編成されてから文献や地図など資料集め、さらに数回にわたる現地行を行ないました。
 五箇山から涌波の塩硝蔵への搬送路は、越中側のブナオ峠越え、小瀬峠越え、袴腰山越え。加賀路でも横谷峠越え、横根峠越え、倉谷川―犀川沿いなど幾筋もの径があったようです。
 現在、一般的に塩硝の道と言えば、横谷経由の刀利―中河内―ブナオ峠―西赤尾の飛騨街道(現富山県道54号)筋が代表格と思います。昨年、この街道を7月24日、9月8日、11月8日の3回踏査したので簡単にルポします。
飛騨街道をルポ
 横谷峠を富山県側に下り、刀利ダムを渡り小矢部川右岸を少し遡ると、刀利集落跡(昭和38年廃村)の山崎公園には「刀利の史話」なる碑があり「戦国時代の落武者が住みついた。金沢より刀利、西赤尾、白川を経て尾張への重要な街道で、武士、飛脚行商人の往来で賑わった」と記されています。水没地の東方山頂に刀利城跡があり、城主は宇野宗右衛門で佐々成政、前田利家に支えたと言う。現当主・宇野二郎さんは三口新町で健在です。
 さらに遡ると視界が開け、中河内(なかのこうち)に着きます。川辺りの平地、太美山分校の石柱があります。夏は小矢部川のせせらぎが耳に快い。宅地跡の石垣、地蔵が叢の中に見え隠れし、何となく「小矢部川の上高地」を思わせます。この地はかつて倉谷鉱山が栄えた頃は遊廓があり、「中河内で見たような女郎が、今朝は湯涌の町で見た」の小唄が「刀利谷史話」に残されています。

刀利〜横谷間
刀利から横谷への旧道(刀利ダムにより水没)は急勾配のため、前にそそり立つ坂で前坂、また、人が左右に斜に登るので下からは舞いをまっているように見えるため舞坂とも言われていた。このため荷物があると登るのに困難なため、川沿いに下って小院瀬見〜横谷峠経由で運ばれていた。
西赤尾〜刀利ダム間
行程は約22km、途中休憩をいれて約1時間要する。
道路は1車線で一応舗装されているが、ところどころ砂利道で、ダム湖尻付近のトンネルは大型車の通行はできない。 
下小屋〜中河内間
旧道は、小矢部川本流が深く切り立った峡谷のため越戸峠を利用。現在の車道は、長瀞沿い。
刀利ダム
昭和42年完成。これにより下刀利、刀利、滝谷の集落は水没。この前後に中河内、下小屋の集落は離村。
西赤尾
旧道は、行徳寺の裏から登り道。

 ここで道も川も二又に分かれ左折、いよいよ道が険しくなります。右側はコイト山、月ヶ原の麓だけに峻険なガケ、左手は深い谷の山道を登ると下小屋(昭和41年廃村)の集落跡に着きます。刀利ダムから約15キロ、長瀞峡(ながとろきょう)と称します。この地は月ヶ原山、多子津山への登山口であるとともに倉谷(金沢)への入り口でもあります。
 4キロ程でブナオ峠(標高1000メートル)に着く。頂上に広いキャンプ場があり、大門山(1571メートル)や猿ヶ山(1447メートル)への登山口です。後は西赤尾まで一気に駆け下りる道。
 この街道筋は春の新緑、夏は峡谷の爽やかさ、秋の紅葉が楽しめます。ドライブ、ハイキングコースとしては恰好のルートです。ただしドライブはかなりのテクニックが求められます。
 これが上平村役場や岩瀬家(塩硝屋敷として公開)で聞いた塩硝運びの街道です。しかし、小瀬の羽馬誠一さんに聞くと「袴腰山と三方山の間を通って臼中(昭和53年廃村)を経て小院瀬見―横谷へ出る道がある」と聞かされました。
 航空写真や国土地理院の明治42年測量図を見ると、飛騨街道よりかなり近道であることがはっきり解ります。このルートは現在、歩けるかどうかはっきりしませんが、今後さらに詳しく調査したいと思います。
 羽馬家は五箇山塩硝煮屋総代として加賀藩の十村役をしていた家柄で、古文書も多く残っているので協力を求め、先に述べた幾筋もの道を解明したいと考えています。
 五箇山には塩硝の史料は残っていますが、金沢には殆どないと言ってもよいくらいです。今後、現地調査、ルートの散策をして少しでも解明していきたいものです。
塩硝の作り方
 塩硝の作り方に二つの方法がありました。
 1、古土法。軒先とか縁の下などの、40〜50年以上も経った土を集めて硝酸塩を取り出す。
 2、培養法。動植物の残渣で堆肥を作る要領で塩硝土を作り、これから硝酸塩を取り出す方法。
 五箇山の塩硝は草と土と蚕糞をまぜた塩硝土を土桶に入れて灰汁塩硝を作り、中煮塩硝、上煮塩硝と精製されて出来上がります。培養法の技術が伝えられ、農民たちは長年の試行錯誤の努力の末、風土に合った技術を作り上げました。上質な塩硝が出来るまで7年間もかかりました。
羽馬家について
 羽馬家は、同家の過去帳によると、文明年間以来二十余代にわたって続いた家柄で、五箇山きっての旧家です。加賀藩時代は、塩硝役をつとめ、また五箇山における本陣の役も果たしたと伝えられています。
 更に、同家の合掌作りは江戸中期のものと推定され、五箇山合掌建築の代表にあげられています。
  …第2報へつづく

 『加賀藩五箇山羽馬家塩硝史料について』伊丹政太郎著から

          館報崎浦16号(平成10年3月31日発行)より抜粋

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