ひとりごと
よい話をみつけました
「杉原ちうね」の話です。ユダヤ人にビザを発給したリトアニアの領事の話です。
 私の夫、杉原チウネはリトアニアの日本領事として、第二次世界大戦が始まった次の年である1940年にカウナスという都市で働いていました。3人の子供達と、私の妹と私は、彼と一緒にその前の年に彼の新しい赴任先であるその町にやってきていました。私たち皆は領事の事務所の二階に住んでいました。

私はその年の7月27日の朝のことを決して忘れることが出来ません。朝食の後、仕事のために1階におりていた夫が、私に何事かを告げるために二階に上がってきました。私は少し戸惑いました。というのは、彼はめったに仕事時間中は二階にこなかったからです。

彼は窓際に行ってこう言いました。「ゆき子、こちらに来て窓の外を見てごらん。」私は本当に自分の目を疑いました。何百人もの人たちが、私たちのいる建物の周りを取り囲んでいたのです。その人たちの大部分は、充血した目をして、とても疲労しているように見えました。でも、立ちつくして領事事務所をのぞき込んでいるその人たちの顔に、私は何か絶望的なものを見出すことが出来ました。その人たちの中には何人かの子供達もいて、不安を隠すことも出来ずに、お母さんにしっかりとしがみついていました。

夫は言いました、「彼たちはポーランドから来た、ユダヤ人たちなんだ。ナチスの迫害から逃れる為に、北へ逃げてこの町にやってきたのだよ。彼らは、日本を通過して他の国へ移民する事ができるように、(日本の)通過ビザを私に発行してもらいたいのだ。」

私の夫はその群集の中の代表者5人と面会しました。夫は彼らに、そんなに沢山のビザを発行するには日本政府からの許可をとる必要があるということを伝えました。彼らに出来るだけ早く、その解答を知らせる、という約束をしてその面会は終わりました。

次の朝、私の夫は日本の外務省に電報を送り、ユダヤの人たちに通過ビザを発行する許可を与えてくれる様に頼みました。私たちは心配しながらその返事を待っていました。外にいるユダヤ人の人々は不安な様子に見えました。ついに日本から解答が届きました。「許可しない」

私の夫はもう一度電報を送り、ヨーロッパにおける緊迫した状況について説明しました。しかし、解答はやはり同じでした。日本政府は、通過ビザを発行する考えが無いことをはっきりと決めていました。その時は、日本はドイツと同盟を結んでいましたから、ナチスから逃げるユダヤ人たちを助けることは、その同盟にたいする日本の裏切りを意味することになるのです。

その時までに、カウナスの他の領事は全て既にリトアニアから脱出していました、というのはソビエト連邦がこの国を占領しようとしていたからです。(リトアニアは1940年の8月3日にソビエト連邦の一部になりました。)日本領事館も、ソビエト連邦から、この国から退去するように、という命令を受け取っていました。私の夫にとっても、カウナスにこれ以上留まることは危険でした。「私がしなければならないことは、たった今ここをはなれることだ。」と彼は、二日、二晩のあいだ何度も何度も言っていました、まるで自分自身と議論をしているように。しかし、私には、彼が助けを求めて彼のもとにやってきた、きのどくな人々を見捨てて去ってしまえるような種類の人間でないことはよく判っていました。

日本の外務省からの3度目の「no」が帰ってきた後、私の夫は彼の心を決めました。彼は言いました、「ゆき子、私は政府の命令にそむいて、この人たちにビザを発行することにした。おまえはどう思う?」 私は答えました、「後で私たちに何が起ころうとかまいません、どうぞそうしてください。」 この人たちの命が、彼にかかっていることが私にはわかっていました。もちろん、その結果、外務省から解雇されることを私の夫は覚悟していました。

次の朝早く、私の夫はソビエト領事館にでかけ、その人たちがソビエト連邦を通過して、日本に行くことが出来る様に、(ソ連の)通過ビザを発行してあげるように頼みました。もし彼らがソ連の領事館からそのビザがもらえなければ、私の夫の努力は無駄になってしまうでしょう。私は彼のソビエト領事館訪問をとても心配していました。というのは、彼がロシアのことをとても詳しく知っているので、彼はソビエト政府から危険人物と見なされていたからです。私は心配しながら彼の帰りを待ちました。窓から彼の姿を見たとき、私はまるで私の身体全体がぐにゃぐにゃとくずれてしまう様に感じました。

私を見つけるとすぐに彼は言いました、「領事は、私がまるで母国語の様にロシア語を話す、と言ってくれたよ。」 私は彼の幸せそうな表情から、全てがうまくいったということがすぐにわかりました。彼は領事とこの全ての出来事に関して、心を開いて話すことが出来たのです。実際、もし二人の人間が同じ言語を共有することが出来れば、二人はその感情もまた通じ合うことが出来るのです。

ついに、私の夫は群集に対して、彼が彼らにビザを発給するつもりであることを告げました。それはまるで、突然の雷が彼らを襲ったかのようでした。一瞬の沈黙がありました、そして次に大きな感激が群集の中に起こりました。何人かの人々は、お互いに抱きあったり、キスをし合いました、また何人かの人々はその腕を空に向かって大きく広げ、感謝の祈りの言葉を唱えました、また何人かの母親たちは、その子供を高く抱き上げました。それは大きな歓びの瞬間でした。

すぐに私の夫はそれぞれの人と面接を始め、ビザを書き始めました。かれはビザを書くことを朝から晩まで、食事の休憩も取らずに続けました。丸一日の仕事の後、彼は疲れ果ててベッドに直行しました。

この状況がほとんど20日間続きました。この時の間にも私の夫は何度も、ソビエト政府からこの国を離れる様にという命令を受けました。しかし彼はそうした命令を無視して、ビザを書きつづけました。

彼は強い人間でしたけれど、彼は、ユダヤ人の人々を救うのだという彼の強い意思ゆえに、自分の限界を超えて自分自身を励ましつづけていたのだということが私にはわかりました。

最後には、その国を離れてただちにベルリンに行けという日本からの最終命令のために、彼はビザを書くことをやめざるを得ませんでした。

私たちは、ベルリンに向かって出発する前に何日間かホテルに滞在することにしました。というのも、私の夫はそのときとてもベルリンまでの列車の旅が出来るような状態ではなかったからです。私の夫が、私たちがどこに滞在しているかを説明する掲示(notice)を貼り出していたので、いっそう多くのユダヤ人の人々が私たちのいるホテルにビザを求めてやってきました。既に、ビザ発給に必要な品、例えば公的な印鑑のようなものを本国に送ってしまっていましたから、彼は、ビザの代わりになる特別の許可証を発行しました。私たちはそのホテルに、8月の最後の日まで滞在しました。

9月1日の早朝、私たちがベルリン行きの列車を待っている間にも、何人かの人たちがまだビザを求めてやってきました。列車が本当に動き始めるそのときまで、私の夫は、窓から身体を乗り出して、その許可証を書きつづけていました。列車が動き始めたとき、彼は辛そうに言いました。「どうか私を許して欲しい。私はもうこれ以上書けない。私はあなたがたのために祈りつづけます。」そして彼は、深深と礼をしました。私は今でも、絶望した様子で、ホームに立ちつづけていた何人かの人々の顔を忘れることが出来ません。「どうか私たちを許してください。私たちは出来る限りのことをしました。」私は目に涙があふれながら、心の中でそう言って彼らに謝りました。

私たちは、誰かが「ばんざい、ニッポン!」と叫ぶのを聞きました。

私の夫はその人々の一人一人にビザを手渡すときいつも、彼らに「ばんざい、ニッポン!」と言ってくれるように頼んでいたのです。私の夫は、外交官として、彼の母国日本を愛していました。

多分彼は、彼らの彼に対する感謝の気持ちが、やがて日本に対する深い真の評価に変わるであろう事を期待していたのでしょう。

「杉原! 私は決してあなたのことを忘れない。いつかまたお会いしましょう!」だれかが、列車を追いかけて走っていました。泣きながらこの言葉を繰り返していました。私たちにその人がもう見えなくなってしまうまでずっと。

(訳:垂井 洋蔵)