[6話]  大久保利通暗殺事件
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■明治11年(1878)5月14日朝、東京の紀尾井坂から赤坂御門に至る北白川宮邸と壬生邸にはさまれた、通行人のない閑静な路上で事件は起きました。

 薩摩出身の参議兼内務卿大久保利通は、午前8時10分、二頭立て馬車に乗り護衛もつけず、登庁のため、裏霞ヶ関の屋敷を出ました。馬車が紀尾井町1番地へとさしかかり、赤坂御門の前を過ぎ、壬生邸の横に至った時、旧加賀藩士の島田一良、長連豪(ちょう・つらひで)ら6名の刺客が襲いかかったのです。

 大久保は彼ら刺客に「待て」と言い、自らドアを開け路上に降りました。「無礼者っ!」と一喝を残し、前後から刃を受けて倒れ、ついに止めを刺されたのです。大久保利通、享年49歳でした。

 この紀尾井町の、明治新政府の中心人物大久保利通暗殺事件は当時の社会に大きな衝撃を与えたそうです。特に首謀者の多くが旧加賀藩士だったことから、石川県の近代史に特筆される事件となりました。
 この後、政治の主導権は伊藤博文たち長州閥に移ることになり、政府内の権力争いにも影響を与えました。

首謀者6人
 島田一良(しまだ・いちろう) 長連豪(ちょう・つらひで) 杉本乙菊
 脇田巧一 杉村文一(以上石川県士族)
 浅井寿篤(島根県士族)

 彼らは「暗殺は卑怯だから」と思い、大久保を襲撃後すぐに凶器を投げ捨て、まっすぐに宮内省に駆けむかいました。門前に立ち、大声で自分たちが大久保殺害の下手人であることを名乗ったそうです。


 金沢市野田山麓にある島田一良、長連豪たち6人の
 墓所。

 島田一良らが集った三光寺。 (金沢市野町)
島田たち不平士族はここで会合を持ち「三光寺派」と
よばれました。
■彼らが掲げた暗殺理由(斬奸状)
 「薩長藩閥の専制独裁」
 「法令の乱用による政府官吏の私利私欲」
 「国費の乱費と憂国の士の排斥」
 すなわち、大久保らの専制政治は民権を抑圧して国費を浪費し、政府官吏の私利私欲。さらに外交の失敗により国権の失墜を招いたというものです。
 言論の自由がない当時の社会では、自分たちの意見を表現するには暗殺以外にないと考えたのでしょうか。

■襲撃後、官に名乗り出て死刑になるなら、いさぎよくそれを受ける。人を害して我が身のみ逃れることをしないという彼らの態度は(狂信的な面もあり、もちらんテロリズムは許されない行為ですが)、現代のまったく関係のない人を標的にして殺し、自分は隠れるという卑劣なテロリストとは違うと思うのです。
 襲われた時に、刺客を制して冷静に書類を風呂敷に包み、馬車から降りた大久保利通とともに、彼ら刺客たちも「武士」だったのだな・・・と思います。
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