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  金沢市の中心部にある金沢城址は現在「金沢城公園」として開放されています。

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■天正11年(1583)の6月、前田利家が加賀・能登を支配することになり金沢に入城しました。
 それ以前の金沢城は、加賀一向一揆の拠点としての金沢御堂、そして織田信長の部将佐久間盛政が金沢御堂を攻略して築いた尾山城。尾山城になってようやく、小規模ながら城として体裁が整ったといわれます。

 石垣の築造など金沢城の整備は、文禄元年(1592)から慶長4年(1599)にかけて、前田利家の長男利長が進め、北に新丸を広げて大手門を築き、城の周囲を内惣構堀で囲みました。
 佐久間盛政の金沢御堂攻略は、後背地の小立野台地側から攻めたそうで、この方面が城の弱点とされます。そのため、湿地帯だった場所に堀を穿(うが)ち、蓮池堀(百間堀)とし、城の堀に面する部分に高石垣を築きました。
 この時の整備計画を指導したのが、前田家に客将として仕えていた高山右近なのだそうです。
 慶長7年(1602)、落雷により天守閣が焼失。その後天守の代用として跡地に三層櫓(三階御櫓)が築かれましたが、これも宝暦9年(1759)に金沢城下で発生した大火(寺町から出火)で焼失し、以後天守は再建されませんでした。

 天守が再建されなかった理由として、城は政庁の役割だけでいいという、泰平の世には不要ということもありますが、他の大名家が参勤交代で城下を通ることがないので、見栄を張る必要がなかったのだそうです。

■維新後の明治8年(1875)、名古屋鎮台の分営として歩兵第七連隊の駐屯地となった金沢城は、明治14年(1881)兵舎からの失火で石川門と三十間長屋を残し(他に水の手門、切手門が現存)、すべての建物を失いました。
 その後、明治18年(1885)第六旅団司令部が、のちには明治31年(1898)第九師団司令部が置かれ「軍都金沢」の中心となりました。

■戦後は昭和24年(1949)5月、城址に金沢大学が開学され、「お城の中の大学」のキャンパスとして占有されました。大学は平成7年(1995)に郊外に移転。城址は石川県に移管され、現在は金沢城公園として一般開放されています。



 石川門と二重櫓 天明7年(1787)建立。
 国の重要文化財。白く光る瓦は鉛瓦です。


 石川門横、三の丸・鶴の丸の高石垣。
蓮池堀(百間堀、現在は道路)をはさみ、向かい側が
兼六園です。兼六園側が防御上の弱点といわれ、
堅固な構えになっています。


 河北門(復元完成 平成22年4月24日)。
河北門は「橋爪門」「石川門」と共に御城の三御門とさ
れています。
政庁の施設(越後屋敷や作事所)があった
新丸から坂を上がって三の丸へ至る門です。

 河北門は一の門である高麗門と、90度左折して三の丸に出る
二の門(櫓門)からなっている。搦手の石川門と同じ構造です

 橋爪門続櫓と五十間長屋(平成13年に復元完成)。
100年後の文化財を目標に、「平成の築城」として、
当時の工法で復元されました。

 菱櫓(復元)。 大手と搦手を見張る物見櫓として
用いられました。ここから浅野川大橋方向を望むと、
富山方向から帰還する参勤交代の行列が見えたそうです。

 石川門の一の門(高麗門)。 中に入ると右に直角に折れて櫓門があり、二重の防御構造になっています。

  石川門の高麗門内、枡形(方形区画)から見た二の門(櫓門)。
くぐると三の丸に出る。

 金沢城大手門(尾坂門)石垣。この上には
江戸時代初期にいちど櫓が建てられましたが、その後
二百数十年間、櫓や櫓門が築かれたことはなく、
門扉として木戸が設けられていました。入ると新丸です。

 三十間長屋(重要文化財)。武器弾薬庫として使用
されました。安政5年(1858)建立。

 水の手門。鶴の丸にある水汲みに塀外に出るための門。
百間堀に面していて、東の丸の石垣下に続いている。

 鶴丸倉庫(重要文化財)。正式名は「金沢城土蔵」。
明治初期に陸軍が建てたとの説でしたが、幕末の嘉永元年
(1848)に前田家が建てたそうです。
 陸軍時代には被服庫として使われていた。

 三十間長屋から本丸石垣沿いに鶴丸倉庫の方へ下ると
見えるトンネル。第九師団駐屯当時の、弾薬庫への通路。

 切手(きりて)門。二の丸に現存する門で、公園管理センターの
前にあります。奥に見えるのは旧第六旅団司令部
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