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金沢の歴史

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はじめに
■「幕末」とは、文字通り「幕府、特に江戸幕府の末期」(広辞林・三省堂より)という意味ですが、語感としては、それ以外に「激動の時代、動乱の時代」というニュアンスがあります。
 ペリーが率いる黒船艦隊の来航により江戸幕府の鎖国政策が破られ、尊王攘夷運動から倒幕へ。そして幕府の瓦解、明治維新へと移りますが、この間はわずか15年しかありません。この激動の15年間はどんな時代だったのでしょう?。力不足ですが、私なりに「幕末」をまとめてみたいと思います。
幕末という時代
 二条城 東大手門(重要文化財) 京都市中京区.。
慶長8年(1603)徳川家康が京都御所の守護と、将軍
上洛時の宿所とするために造営。3代将軍家光が伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626)完成させました。

■徳川幕府の三つの基本政策である「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」「鎖国令」のうち一つでも破られることで幕藩体制が崩壊するといわれます。
 つまり天皇(朝廷)と外様大名を、政治や外交に関与させないこと(朝廷と大名の統制)によって徳川幕府は体制の安定を保ってきました。しかし、ペリー来航により「鎖国令」が破られ、開国問題の意見を諸大名に問うたことで「大名統制」が、条約調印の勅許を得ようとしたことで「禁中並公家諸法度」が破られました。この「幕末」の時代は、まさに連鎖反応的に幕府崩壊へと進んでゆく激動の時代といえるでしょう。


■嘉永6年(1853)ペリー提督の艦隊が浦賀に来航し、開国通商を要求した時から、「幕末」の時代が始まります。
 アヘン戦争(1840〜42)が対岸の火事でなく、現実に外国船が日本近海に現れるようになると、国民が国家的危機を意識し「神国日本から夷狄(いてき)を打ち払え」という尊王攘夷運動が叫ばれるようになります。

 最初は幕府に攘夷決行を要求し、それが期待されました。
 よく勘違いされるのですが、文久3年(1863)初め頃までの尊王攘夷運動は、言論や行動が過激でも倒幕運動ではありません。あくまでも幕府統治が前提で、幕府に攘夷を要請していたのです。
 しかし攘夷不可能を自覚する幕府は、のらりくらりと先延ばしにするばかり。それならば、そのような無力な幕府に替わって、天皇を中心にした
雄藩諸侯連合による新政権を目指そうということになって行きます。

 
雄藩・・・独自の政治的意見を持ち、幕末の政治社会に影響を与えた藩。藩政改革に成功し、財政再建・軍事近代化をおこなった。薩摩、長州、越前福井、土佐、肥前佐賀、伊代宇和島、水戸など。

■先日、ある歴史の本に「鳥羽伏見の戦いから奥羽越戦争まで、新政府軍は行く所各地で、幕府の圧政に苦しむ民衆を解放し、熱狂的な歓迎を受け、支持された」と、戊辰の戦いが解放戦争で、民衆が自由と平等のために立ち上がったのだというように書かれているのを見ました。
「明治維新の原動力は民衆の反封建闘争であった」とも書かれていて、納得できない思いがしました。
 戊辰戦争は薩摩・長州が中心となって戦い、幕府を倒し、明治新政権を樹立したのですが、民衆を圧政から解放したのではなく(そもそも幕府政治が圧政だったのか疑問です)、民主的な社会を作ろうとしたわけでもないと思います。できあがった新政府は薩長の志士と朝廷の、仲間内で構成された政権だったのですものね。
 太平洋戦争後(昭和20年後)それまでの皇国史観に反発した階級闘争史観や民衆史観の観点から、戊辰戦争に民衆の支持を関連させようとしたのでしょうが、民衆にとっては支配者が誰に代わろうが関係なく「(どっちでも)ええじゃないか」と冷めた目で見ていたのではないでしょうか。

■幕末における「勤王・佐幕の闘争」といいますが、孝明天皇は倒幕を望んでいませんでしたし、過激な行動に走る長州を嫌っていました。そういう天皇を欺き、意志を無視し、偽勅を出して自分たちの権力闘争に利用したのが「勤王の志士」なのです。蛤御門の変(禁門の変とも。元治元年7月19日)の時に御所に大砲を向けて威嚇した(実際に撃ち込んだ)のは勤王を唱える長州でした。
 孝明天皇は朝廷内に陰謀の徒がいることに深く悩み、唯一信頼するのは佐幕派の会津松平容保(まつだいら・かたもり)でした。京都守護職を務める若き松平容保を心の友として頼りにされていたのです。
 容保も天皇に信頼されて感激しないはずがありません。病身に鞭打って、忠義を尽くしました。孝明天皇崩御の後、逆賊の汚名を着せられ討伐される松平容保ですが、はたして、どちらが真の勤王の心を持っていたかは一目瞭然です。

 松平容保は明治26年12月5日、59歳で亡くなります。容保は肌身はなさず一本の竹筒を持っていて、亡くなった時に家族がそれを開いて見ました。中には孝明天皇の容保への手紙が入っていました。天皇が容保の忠誠を嬉しく思い、信頼し、無二の者に思うという内容だったそうです。容保は最後まで、その天皇の私信を心のささえにしていたのでしょう。

 明治政府が、自分たちがやったことを正当化するために作り出したのが、一般的に信じられ(教えられ)てきた「幕末史」であり「維新史」なのではないでしょうか。
 明治政府にとって、徳川時代の方が良かったということを絶対に認めるわけにいかず、江戸時代暗黒史観や農民庶民の貧窮を強調した史観(貧農史観?)が作られたのではないか、と思います。

■現在では、幕末の歴史というものがあって結果が判っていますが、その時代に生きる各大名家の人たちは、当然のことながら未来の予測はできないわけで、勤王佐幕どちらの方針を採ればよいのか不明でした。幕府権力が衰えたのは確かでも、滅びるとは思いもしない。海の物山の物とも知れない勤王派に同調して良いものか、大いに迷ったのではないでしょうか。
 Contents

 
幕末主要人物

 ■幕末関係年表

 ペリー艦隊の来航

 ■安政大獄と井伊直弼

 ■咸臨丸渡洋

 桜田門外の変

 ■和宮降嫁と公武合体

 ■生麦事件と薩英戦争

 ■大政奉還と王政復古 

 京都守護職会津松平容保が本陣を置いた
 黒谷の金戒光明寺の山門。


 金戒光明寺の塔頭西雲院が管理する「会津藩殉難者墓地」。鳥羽伏見の戦いまでの会津藩戦死者たちが眠っています。
 開国は幕府の政策であり、攘夷を主張することは幕府への批判につながることでした。また中下級藩士が藩政に口を出すことは秩序上好ましくないことでもあり、尊王攘夷派を弾圧した大名家もあったそうです。
■勤王派だから先進的、佐幕派だから保守的と単純に思われがちですが、実際は幕府側が先進的で勤王派の方が頑迷な攘夷で保守でした。現実を見つめて攘夷の不可能を知り、開国をして貿易で国を富ますことを主張したのは幕府側の人たちでした。現実問題として、ペリーの強圧的な砲艦外交を前にして、開国を拒否できるはずがありません。
 幕府は攘夷の不可能や開国の必要性を、広く世間に向かって説くべきだったのかもしれません。しかしそれは、幕府の存在を自己否定することになってしまいます。征夷大将軍とは夷狄を征伐するのが職務であり、攘夷ができないとは口が裂けても言えないことでした。
 幕臣にも優秀な人材が多くいましたが、それを適材適所に用いられなかったのですね。幕府の政治がけっして無為無策だったわけではないでしょうけど、派閥抗争、自己保身、お役所仕事。難題を先送りする、ことなかれ主義。幕府は柱が虫食い穴だらけ、倒壊寸前だったわけで、幕府が存続するには、雄藩との連合政権しか道はなかったのではないでしょうか。
 文久3年(1863)12月に朝廷主導で、一橋慶喜(幕府代表)、松平容保(会津)、松平慶永(越前)、山内豊信・容堂(土佐)、伊達宗城(伊予)が参豫(さんよ)に任じられました(翌1月に薩摩の島津久光も任命)。この時に雄藩連合政権が実現する機会があったのですが、一橋慶喜にその気がなく、参豫会議はあっけなく解体してしまいます。慶喜は幕府の一党独裁を捨てることができず、自ら生き残る道を閉ざしてしまいました。
 参豫(さんよ)・・・朝廷参豫。天皇が出席する朝廷会議に参加する職。参預とも書く。

 慶応2年(1866)12月25日、頑なな攘夷論者だった孝明天皇の崩御により、それ以降は「攘夷運動」が熱が冷めたかのように消え去り、替わって「幕府の存続をめぐる政権の争奪」が表面化してきます。
大政奉還から王政復古、戊辰戦争へ
■慶応3年(1867)10月、土佐藩と芸州藩が幕府に大政奉還の建白をし、徳川慶喜はそれを容れ、10月14日、大政奉還の上表を朝廷に提出しました。大政を奉還しても徳川家は大大名として残るわけですし、慶喜は朝廷には政治をとる能力がないから、自分が次の新政権を主導できると考えたようです。
 薩摩長州は同盟を結んで「武力倒幕」を目指していましたが、藩内には挙兵に反対する人たちもいました。そこで、新天皇(睦仁親王、16歳)を擁している薩摩の西郷吉之助や大久保利通、公卿の岩倉具視は、薩摩・長州藩に対して「賊臣慶喜を殄戮(てんりく・殺しつくすこと)せよ」という内容の「討幕の密勅」を出しました(偽勅といわれています)。天皇の権威で藩論を統一し、薩長の兵力を京に入れ、「王政復古の宣言」を出して、天皇の名で徳川幕府を廃止し、慶喜を排除することになったのです。

■慶応3年12月9日(陽暦1868年1月3日)「王政復古の大号令」が出され、「摂政・関白・幕府を廃し、新たに総裁・議定・参与の三職を設置」されました。この三職には徳川慶喜は含まれていず、新政府から慶喜は完全に閉め出されてしまったのです。

 京都御所 建礼院門。緑豊かな御所の広大な敷地には、当時は公家や宮家の屋敷が建ち並んでいました。

 同日の夜、小御所会議が、徳川慶喜と松平容保を出席させずに開かれました。
「徳川領400万石を朝廷に返上させる。断れば朝敵として討伐する」とする議題に、土佐の山内容堂が反論しました。
「このような重要な会議には慶喜公も出席させるべきである。しかも慶喜公がその土地を返還しないので罪ありとするなら、薩摩侯もこの容堂もそうではないか。慶喜公のみがなぜ返上せねばならぬのか!」と非難しました。
 一説ではこの時、公卿の岩倉具視が柱の陰へ招いて、短刀を取り出して「綸旨(討幕の密勅)に逆らいなさるか」と言って脅迫したといわれます。越前松平慶永(春嶽)も同じように脅されたそうです。こうして徳川慶喜の辞官納地(慶喜の内大臣の官位辞退・領地返上)が決定されました。(余談ですが、この陰謀の権化のような岩倉具視が500円紙幣の肖像になっています。)

■その二十数日後の慶応4年1月3日(陽暦1868年1月27日)、徳川慶喜の辞官納地の決定に怒った幕府軍が朝廷に訴えようと鳥羽街道を北上。薩摩長州軍と衝突し、鳥羽伏見の戦いが始まりました。薩長軍に錦旗がひるがえって官軍となり、慶喜が朝敵となり追討されることになったのです。
 鳥羽伏見の戦いは幕府軍が惨敗。最高指揮官の徳川慶喜は、将士を置き去りにして、主戦強硬派の会津・桑名両藩主をつれて逃亡し、江戸に逃げ帰ってしまいます。
 慶喜は「私は官軍には抵抗しません。謹慎します」として、保身のために幕臣や会津藩など、これまで幕府に尽くした者たちを容赦なく犠牲にしました。
 王城の護衛者、京都守護職として公武一和(こうぶいちわ)に誠心誠意つくした松平容保と会津藩は逆賊の汚名を着せられ、慶喜に捨てられてスケープゴートとされてしまったのです。

 鳥羽伏見から始まった戊辰戦争はこの後、新政府軍による東海道・東山道・北陸道の三道からの「東征」が開始され、江戸開城、彰義隊の上野戦争、会津落城、奥羽越戦争と続いて、榎本武揚らが箱館五稜郭で降伏する明治2年(1869)5月18日までの、一年半にわたって戦われることになります。明治維新は無血革命ではなく、両軍の戦死者は推定で一万人を超えるといわれます。


【参考文献】 「時代をとらえる新日本史史料集」 (桐原書店)
         「詳説日本史史料集」 (山川出版社)
         「戊辰戦争から西南戦争へ」 小島慶三(中公新書)
         「日本の歴史19開国と攘夷」 小西四郎(中公文庫)
         「王政復古」 井上勲(中公新書)
         「日本の近代1開国と維新」 松本健一(中央公論社)
         「勝海舟」 松浦玲(中公新書)
         「酔って候」 司馬遼太郎(文春文庫)