五つ半(朝9時頃)、井伊家上屋敷の門が開き、槍を一本立てて、行列がしずしずと出てきました。供廻りの徒士26人、足軽、草履取り、駕籠持ちを合わせて60余人。
まず森五六郎が訴状を持ち、大老に直訴するふうを装い乗物(高級な駕籠)に近づき、制止しようとした警固の徒士に斬りつけました。
乗物脇の徒士が駆けつけようとした時、一発の銃声がとどろいて左右から浪士達が襲いかかりました。合図の短銃を撃ったのは黒沢忠三郎。同士討ちを避けるために浪士達は白鉢巻きと白たすき、全員が斬奸趣意書を懐中にしていました。
雪のために護衛の士たちは刀に柄袋を着け合羽を着ていて、浪士の襲撃に遅れをとってしまいました。しかし乗物脇を離れず、柄袋と合羽を取った御供目付河西忠左衛門が二刀で奮戦。乗物に突進した浪士の稲田重蔵を斬り倒しました。
見届け役の斎藤監物は、眼前で次々と同志が雪の中に倒れてゆくのを見て、役目を忘れて戦いの中に斬り込みました。
ついに有村次左衛門が井伊直弼を引き出して首を落としました。首を持った有村と広岡子之次郎は、満身創痍でよろめきながら日比谷門の方へ向かいました。井伊家の御供目付側小姓小河原秀之丞は重傷で昏倒していましたが、刀を杖に立ち上がり、雪に血の赤い線を引きながら有村達に追いすがりました。
小河原秀之丞に後頭部から背中を斬り割られた有村次左衛門は、若年寄遠藤但馬守の屋敷門前で力尽きて切腹。小河原秀之丞を斬り伏せた広岡子之次郎も重傷で、姫路酒井家上屋敷前で切腹しました。山口辰之介と鯉渕要人も深手を負っていて、途中で切腹。
門前で腹を切った有村次左衛門に遠藤家の者が身元を尋ねたところ「島津修理大夫元家来・・・」と虫の息で答えて息絶えたそうです。
【襲撃参加浪士】:関鉄之介、斎藤監物、稲田重蔵、広岡子之次郎(ねのじろう)、山口辰之介、鯉渕要人、佐野竹之介、黒沢忠三郎、蓮田市五郎、大関和七郎、森五六郎、杉山弥一郎、森山繁之介、増子金八、海後蹉磯之助(かいご・さきのすけ)、岡部三十郎、広木松之介、有村次左衛門。
即死・・・稲田重蔵。
重傷のため自刃・・・有村次左衛門、広岡子之次郎、山口辰之介、鯉渕要人。
斎藤監物、佐野竹之介、黒沢忠三郎、蓮田市五郎・・・重傷で老中脇坂中務大輔安宅の屋敷に自訴。大関和七郎、森五六郎、杉山弥一郎、森山繁之介・・・軽傷で肥後熊本藩邸に自訴。
関鉄之助、岡部三十郎、海後蹉磯之助、広木松之介、増子金八の5人は大老の首をあげるのを見届け、現場を脱出。
浪士18人のうち、即死1人、重傷のため自刃4人、自首・捕縛11人(斎藤、佐野は重傷のため死亡。黒沢は病死。他は斬罪)。生存は2人(増子金八、海後蹉磯之助)。
井伊家の供廻りは、河西忠左衛門、加田九郎太ら4人がその場で闘死。小河原秀之丞ら3人がその日のうちに死亡。御供頭の日下部三郎右衛門は負傷が原因で5ヶ月後に死亡、合計8人が死亡。負傷13人。 |