桜田門外の変

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 桜田門外の変 万延元年3月3日(陽暦1860年3月24日)
■「桜田門外の変」:万延元年3月3日、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士たちが大老井伊直弼(いい・なおすけ)を殺害した事件。
       (事件当日は安政7年ですが、3月18日に万延と改元されたため、万延元年と表記します)

 井伊直弼は安政の大獄で反対派を弾圧し、また水戸に下された勅諚(ちょくじょう)の返納を迫るなど、水戸に対する弾圧を強化しました。このため水戸の尊攘激派志士高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介らは脱藩し、薩摩の同志と連絡をとり、井伊大老襲撃の暴挙が実行されました。

 *勅諚 ・・・・安政5年(1858)8月8日、朝廷が「条約締結断行など、幕政に対して天皇が不満に思っている」という勅諚を水戸藩に下しました。「戊午(ぼご)の密勅」

■「かの浪士等は江戸に潜み来たりて事を謀り、無慙にもその年三月三日、桜田門外の雪中に待受けて、井伊大老を襲撃し、幕府の大宰相を殺害するの暴挙を行い、井伊大老は兇刃に斃(たお)れ、死を以てその専断の価を償いたり」(福地桜痴)

 皇居 桜田門
■万延元年(1860)3月3日(陽暦3月24日)。この日は上巳の節句で、在府大名は総登城するきまりでした。早朝、愛宕山(標高26m)に集合した浪士18人(水戸浪士17人、有村次左衛門一人が薩摩浪士)は降りしきる春の雪の中を江戸城桜田門に向かいました。
 愛宕山の男坂を下り、江戸城の方向に真っ直ぐ歩くと杵築(きづき)藩邸横。桜田門外の御堀端に出ます。左の方に井伊家上屋敷の門。
 彼ら浪士達は武鑑を手にして井伊直弼の登城を待ちました。当時は田舎から出てきた武士が武鑑を見ながら、諸大名の登城を見物する光景が珍しくなく、彼らを怪しむ者は誰もいませんでした。


 註* 武鑑・・・・各大名、旗本の家紋、役職や石高、官位などを記した私刊本。職員録のようなもの。

 五つ半(朝9時頃)、井伊家上屋敷の門が開き、槍を一本立てて、行列がしずしずと出てきました。供廻りの徒士26人、足軽、草履取り、駕籠持ちを合わせて60余人。
 まず森五六郎が訴状を持ち、大老に直訴するふうを装い乗物(高級な駕籠)に近づき、制止しようとした警固の徒士に斬りつけました。
 乗物脇の徒士が駆けつけようとした時、一発の銃声がとどろいて左右から浪士達が襲いかかりました。合図の短銃を撃ったのは黒沢忠三郎。同士討ちを避けるために浪士達は白鉢巻きと白たすき、全員が斬奸趣意書を懐中にしていました。

 雪のために護衛の士たちは刀に柄袋を着け合羽を着ていて、浪士の襲撃に遅れをとってしまいました。しかし乗物脇を離れず、柄袋と合羽を取った御供目付河西忠左衛門が二刀で奮戦。乗物に突進した浪士の稲田重蔵を斬り倒しました。
 見届け役の斎藤監物は、眼前で次々と同志が雪の中に倒れてゆくのを見て、役目を忘れて戦いの中に斬り込みました。
 ついに有村次左衛門が井伊直弼を引き出して首を落としました。首を持った有村と広岡子之次郎は、満身創痍でよろめきながら日比谷門の方へ向かいました。井伊家の御供目付側小姓小河原秀之丞は重傷で昏倒していましたが、刀を杖に立ち上がり、雪に血の赤い線を引きながら有村達に追いすがりました。
 小河原秀之丞に後頭部から背中を斬り割られた有村次左衛門は、若年寄遠藤但馬守の屋敷門前で力尽きて切腹。小河原秀之丞を斬り伏せた広岡子之次郎も重傷で、姫路酒井家上屋敷前で切腹しました。山口辰之介と鯉渕要人も深手を負っていて、途中で切腹。
 門前で腹を切った有村次左衛門に遠藤家の者が身元を尋ねたところ「島津修理大夫元家来・・・」と虫の息で答えて息絶えたそうです。

【襲撃参加浪士】:関鉄之介、斎藤監物、稲田重蔵、広岡子之次郎(ねのじろう)、山口辰之介、鯉渕要人、佐野竹之介、黒沢忠三郎、蓮田市五郎、大関和七郎、森五六郎、杉山弥一郎、森山繁之介、増子金八、海後蹉磯之助(かいご・さきのすけ)、岡部三十郎、広木松之介、有村次左衛門。

即死・・・稲田重蔵。
重傷のため自刃・・・有村次左衛門、広岡子之次郎、山口辰之介、鯉渕要人。
斎藤監物、佐野竹之介、黒沢忠三郎、蓮田市五郎・・・重傷で老中脇坂中務大輔安宅の屋敷に自訴。大関和七郎、森五六郎、杉山弥一郎、森山繁之介・・・軽傷で肥後熊本藩邸に自訴。
関鉄之助、岡部三十郎、海後蹉磯之助、広木松之介、増子金八の5人は大老の首をあげるのを見届け、現場を脱出。
 浪士18人のうち、即死1人、重傷のため自刃4人、自首・捕縛11人(斎藤、佐野は重傷のため死亡。黒沢は病死。他は斬罪)。生存は2人(増子金八、海後蹉磯之助)。

 井伊家の供廻りは、河西忠左衛門、加田九郎太ら4人がその場で闘死。小河原秀之丞ら3人がその日のうちに死亡。御供頭の日下部三郎右衛門は負傷が原因で5ヶ月後に死亡、合計8人が死亡。負傷13人。

■急を知った井伊家の家士たちが現場に駆けつけた時は、すでに襲撃者たちの姿はありませんでした。
 争闘はわずか15分あまり。井伊家の者たちが現場を片づけ終える時間を含めても1時間くらいの出来事でした。
 探索の結果、主人井伊直弼の首は遠藤但馬守の屋敷にあることがわかりました。主人の首を返して欲しいと申し出るわけにいかず、供廻りで闘死した加田九郎太という者が年齢格好が似ていたので、その者の首ということにして飯びつに入れて引き取ったそうです。

 老中脇坂中務大輔安宅(わきさか・なかつかさだいゆう・やすおり)屋敷に自訴した重傷の4人は斎藤監物が代表で斬奸趣意書を差し出し、行動の理由を述べました。斬奸趣意書には、条約調印と安政の大獄で弾圧政治をおこなった大老井伊直弼を「天下の巨賊」として天誅を加えたが、決して御公儀(幕府)に敵対する意志はない、と記されていました。

 彦根井伊家家中は激昂し、悲憤した家士が水戸屋敷に討入りを叫ぶなど、一触即発の状態になったようですが、幕府と彦根藩上層部の説得で静まりました。
 本来ならば、藩主が跡継ぎを決めないまま横死した場合、家名断絶になるのですが、彦根・水戸の間で騒動になるのを恐れた幕府は「大老は襲われたが、重傷で生存している」として、その間に跡目相続をさせることにしました。
 幕府は大老が暗殺されたということを極秘にしましたが、世間ではみな知っていて、「井伊掃部(いいかもん・よい鴨)と雪の寒さに首を絞め」「井伊掃部を網で捕らずに駕籠で捕り」という戯れ歌ができたそうです。