和宮降嫁と公武合体

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 安藤信正(あんどう・のぶまさ)・久世広周(くぜ・ひろちか)政権

■安政7年(1860)3月の井伊大老の暗殺によって、急遽誕生したのが安藤対馬守信正(信睦)・久世大和守広周政権です(老中は他に本多美濃守、松平豊前守、内藤紀伊守)。
 安藤信正は磐城平5万石藩主で、奏者番から寺社奉行を経て、安政7年正月に老中になりました。久世広周は関宿6万8千石の藩主。安藤信正と同じく譜代大名で嘉永元年(1848)西の丸老中になり、井伊政権下で罷免されていましたが、新しく閣僚として登用されました。
 二人は文久2年(1862)に辞任するまでの約2年間、政権を担当し、安藤が主に外交面を、久世が内政面を受け持ちました。
 西の丸老中・・・将軍世嗣に付く老中。西の丸は大御所、または将軍の世嗣が住む場所。

 井伊大老の後を継いだ安藤・久世が政権を担当した安政7年から文久2年は、幕府の開港による反発が外国人殺傷事件など実行をともなう攘夷運動として始まり、海外貿易の影響として市場の攪乱や物価の高騰など、社会不安が広がった時代でした。

 政策では、市場調整のための対策として「五品江戸廻送令」。江戸・大坂両都と新潟・兵庫の「開市・開港の延期交渉」。「幕府軍制改革」と「全国市場支配の計画」があります。
「開市・開港の延期交渉」は使節をヨーロッパに派遣して各国と折衝し、5
年延期されることになりました。「五品江戸廻送令」は効果があったようですが後に空文化され、「軍制改革」と「全国市場支配の計画」は実現しませんでした。
 
「開市・開港の延期交渉」・・・安政の5カ国条約により、江戸は文久元年12月2日、大坂は2年11月12日から開市。新潟は安政6年12月12月9日、兵庫は文久2年11月12日から開港することになっていました。

 そして、低下した幕府の威信を強化するために公武合体を画策。その最も有効な政策として推進されたのが皇女和宮の降嫁でした。つまり天皇の御妹を将軍御台所に迎えることで尊王を世に示し、朝幕の関係改善で国内を安定させ、幕府の権威を復活させようというのです。

 すでに安政5年(1858)井伊大老の政権時に朝廷統制を目的とする降嫁案が考え出されていました。将軍家茂夫人候補として敏宮は年長すぎて合わず、最初は生まれたばかりの皇女富貴宮が第一候補でした。しかし富貴宮が翌安政6年に死去したために、将軍家茂と同年13歳の皇妹和宮にしぼられました。

■和宮・・・仁孝天皇の第八皇女。弘化3年(1846)生まれで、孝明天皇の妹。文久元年(1861)内親王宣下を受け、親子(ちかこ)内親王と称しました。
 その後井伊大老が暗殺されたことで、降嫁問題は棚上げになっていましたが、安藤・久世政権下でにわかに実行に移されることになったのです。
 皇妹和宮降嫁

■「公武一和」のために和宮降嫁を、という幕府の申し込みに孝明天皇は拒否の回答をしました。和宮には有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王という婚約者があったことと、和宮を夷人(異人)が跋扈(ばっこ)する関東の地に行かせるのが不憫(ふびん)であるという理由でした。

 この政略結婚をどうしても成立させたい幕府は、有栖川宮家に和宮との婚約を辞退させるなど、和宮の周辺の人々に工作をおこないました。
 天皇侍従を務めていた公卿岩倉具視の説得もあり、万延元年(1860)6月20日、天皇はやむなく「幕府が攘夷を約束するなら」という条件付きで降嫁を認めました。

 降嫁が勅許となる背景には岩倉具視の説得が大きく影響したといわれます。
「いま幕府と争うよりも、名を捨て実を取るほうが良策である。幕府が熱心に降嫁を望んでいるのでこれを許可し、今後は外交問題だけでなく内政についても、大事は奏聞の後に施行するよう幕府に命じて、政治の実権は朝廷にあるようにするべきだ。幕府に条約破棄を命じて、これを受けるなら降嫁の願いを勅許すればいかがでしょうか」
 朝廷の復権を目指す岩倉具視は、幕府の目論見を知り、それを逆手にとって、朝廷が主導権を得る絶好の機会だと判断したのでしょう。
 夷人嫌いの天皇とすれば、「妹宮は関東には恐ろしい夷人がいるから行きたくないと怯えているけど、幕府が夷人を追い出すと約束するのなら、和宮を嫁がせても良いのではないか」と思われたのかもしれません。

 この攘夷実行の条件を幕府は受け入れ、「7,8年ないし10年のうちには条約を破棄して、外国を追い出し鎖国にもどす」という誓約をおこないました。できもしない無責任な約束をしたのですが、後々この「攘夷実行」が言質となって幕府を苦しめることになりました。

■和宮降嫁は広く世間に伝わりました。公卿の中にも岩倉具視を批判する人がいましたし、攘夷激派志士たちは「幕府は皇妹を人質にするつもりだ」と騒ぎ、天皇が反対されているのに、公卿の中に幕府から賄賂をもらって推進した者がいるのだ、など各種の噂が広まりました。

 文久元年10月20日(陽暦11月22日)公卿や女官など数千人を従えた和宮の行列は京都を発ち、中山道を江戸に向かいました。11月15日(陽暦12月16日)江戸に着。
 激派浪士が和宮を京都に返すために道中を襲うという噂があり、行列の警固は厳重をきわめました。中山道に近い忍(おし)や川越など41藩が沿道の警備に大量動員されました。

 文久2年(1862)2月11日、将軍家茂と和宮は婚儀の式をあげました。
 大奥での和宮と姑の天璋院の間には確執があったようですが、同い年の将軍家茂とは仲睦まじかったそうです。しかし家茂は慶応2年(1866)、わずか4年後に亡くなってしまいます。
 剃髪して静寛院と称した和宮は、のちに幕府が崩壊した動乱時には徳川の女性として、徳川家の存続を京都へ嘆願しました。明治後も徳川慶喜が存続できたのは、彼女の尽力があったからだといわれています。

■江戸時代の迷信に「丙午(ひのえうま)の女性は夫を食い殺す」というのがあります。
 近年の丙午の年は昭和41年(1966)と明治39年(1906)です。明治39年の前は弘化3年(1846)ですが、和宮内親王はその弘化3年生まれです。
 当時の朝廷が迷信を信じていたかは不明ですが、信じた可能性は大きいと思います。和宮がわずか6歳で17歳の有栖川宮熾仁親王と婚約をしているのは、急いで和宮の身を決めておこうとしたのかもしれません。
 幕府威信のさらなる失墜

■文久2年(1862)1月15日。老中安藤信正が江戸城坂下門外で水戸浪士に襲われました。安藤信正は負傷しただけですみましたが、在職中に不正があったとされ老中を免職、急度蟄居を命じられました。安藤・久世政権は辞任に追い込まれました。

 5月22日、薩摩の島津久光が勅使大原重徳と共に京を立ち江戸に向かいました(江戸着6月7日)。島津久光は朝廷を背景にして幕閣人事に介入し、井伊大老の弾圧で政界から遠ざけられていた一橋慶喜と松平慶永を幕閣の中枢に登用することを要求しました。
 一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を大老職に任命することで、幕政改革をせまったのです。
 一橋慶喜と松平慶永は開国論者ですが、世間では攘夷論者と思われていました。島津久光は二人を幕閣に据えることで、幕府による攘夷実行を期待したようです。
 薩摩藩など外様大名や朝廷が幕政に口をはさむなど、それまでの大名統制下では絶対に許されないことでしたが、この頃の幕閣には雄藩薩摩の要求をはねつける力がなく、やむなく一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職(松平慶永は将軍親族なので大老という役職名を避けました)に就任させることを認めました。
 幕府は天皇に和宮降嫁という無理難題を押しつけてまで権威を回復しようとしたのですが、将軍家茂と和宮の婚儀が調った、わずか4カ月後にはさらに権威を失墜することになりました。