和宮降嫁と公武合体
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| 安藤信正(あんどう・のぶまさ)・久世広周(くぜ・ひろちか)政権 | |
■安政7年(1860)3月の井伊大老の暗殺によって、急遽誕生したのが安藤対馬守信正(信睦)・久世大和守広周政権です(老中は他に本多美濃守、松平豊前守、内藤紀伊守)。 井伊大老の後を継いだ安藤・久世が政権を担当した安政7年から文久2年は、幕府の開港による反発が外国人殺傷事件など実行をともなう攘夷運動として始まり、海外貿易の影響として市場の攪乱や物価の高騰など、社会不安が広がった時代でした。 政策では、市場調整のための対策として「五品江戸廻送令」。江戸・大坂両都と新潟・兵庫の*「開市・開港の延期交渉」。「幕府軍制改革」と「全国市場支配の計画」があります。「開市・開港の延期交渉」は使節をヨーロッパに派遣して各国と折衝し、5カ年延期されることになりました。「五品江戸廻送令」は効果があったようですが後に空文化され、「軍制改革」と「全国市場支配の計画」は実現しませんでした。 *「開市・開港の延期交渉」・・・安政の5カ国条約により、江戸は文久元年12月2日、大坂は2年11月12日から開市。新潟は安政6年12月12月9日、兵庫は文久2年11月12日から開港することになっていました。 |
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そして、低下した幕府の威信を強化するために公武合体を画策。その最も有効な政策として推進されたのが皇女和宮の降嫁でした。つまり天皇の御妹を将軍御台所に迎えることで尊王を世に示し、朝幕の関係改善で国内を安定させ、幕府の権威を復活させようというのです。 すでに安政5年(1858)井伊大老の政権時に朝廷統制を目的とする降嫁案が考え出されていました。将軍家茂夫人候補として敏宮は年長すぎて合わず、最初は生まれたばかりの皇女富貴宮が第一候補でした。しかし富貴宮が翌安政6年に死去したために、将軍家茂と同年13歳の皇妹和宮にしぼられました。 |
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| その後井伊大老が暗殺されたことで、降嫁問題は棚上げになっていましたが、安藤・久世政権下でにわかに実行に移されることになったのです。 | |
| 皇妹和宮降嫁 | |
■「公武一和」のために和宮降嫁を、という幕府の申し込みに孝明天皇は拒否の回答をしました。和宮には有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王という婚約者があったことと、和宮を夷人(異人)が跋扈(ばっこ)する関東の地に行かせるのが不憫(ふびん)であるという理由でした。 この政略結婚をどうしても成立させたい幕府は、有栖川宮家に和宮との婚約を辞退させるなど、和宮の周辺の人々に工作をおこないました。 降嫁が勅許となる背景には岩倉具視の説得が大きく影響したといわれます。 この攘夷実行の条件を幕府は受け入れ、「7,8年ないし10年のうちには条約を破棄して、外国を追い出し鎖国にもどす」という誓約をおこないました。できもしない無責任な約束をしたのですが、後々この「攘夷実行」が言質となって幕府を苦しめることになりました。 ■和宮降嫁は広く世間に伝わりました。公卿の中にも岩倉具視を批判する人がいましたし、攘夷激派志士たちは「幕府は皇妹を人質にするつもりだ」と騒ぎ、天皇が反対されているのに、公卿の中に幕府から賄賂をもらって推進した者がいるのだ、など各種の噂が広まりました。 文久元年10月20日(陽暦11月22日)公卿や女官など数千人を従えた和宮の行列は京都を発ち、中山道を江戸に向かいました。11月15日(陽暦12月16日)江戸に着。 文久2年(1862)2月11日、将軍家茂と和宮は婚儀の式をあげました。 近年の丙午の年は昭和41年(1966)と明治39年(1906)です。明治39年の前は弘化3年(1846)ですが、和宮内親王はその弘化3年生まれです。 当時の朝廷が迷信を信じていたかは不明ですが、信じた可能性は大きいと思います。和宮がわずか6歳で17歳の有栖川宮熾仁親王と婚約をしているのは、急いで和宮の身を決めておこうとしたのかもしれません。 |
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| 幕府威信のさらなる失墜 | |
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■文久2年(1862)1月15日。老中安藤信正が江戸城坂下門外で水戸浪士に襲われました。安藤信正は負傷しただけですみましたが、在職中に不正があったとされ老中を免職、急度蟄居を命じられました。安藤・久世政権は辞任に追い込まれました。 |
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