桶狭間の合戦
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| 桶狭間の合戦 永禄3年5月19日(陽暦1560年6月22日・グレゴリオ暦) | |
| 永禄3年(1560)5月。駿河・遠江・三河の太守今川義元は上洛の大軍を発し、大挙して尾張に侵攻。19日に沓掛城を立った義元は梅雨季の炎天下を行軍、桶狭間の山間で昼食のため大休止をとりました。 早朝に清洲城を単騎駆けだした織田信長は熱田神宮で後続部隊を集結。善照寺砦まで前進し、山間部を迂回して太子ケ根の小高い丘に出て、桶狭間の窪地で休止をとる今川義元本陣に殺到。奇襲攻撃をかけ、みごとに義元の首級をあげました。 今川義元の2万5千の大軍にわずか2千の織田軍が勝利した「桶狭間の戦い」は、奇襲攻撃の成功と、信長の天才性に暗愚な義元が強調され、信長を語るには欠かせない話として、日本史教科書にも載っています。 今川義元は暗愚だったのか?。義元は上洛を目的に軍を発したのか?。そして織田信長の進路についても、近年は大いに見直され修正されています。 |
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| ■永禄3年5月、鎌倉街道を西上した今川義元は18日に沓掛城に入りました。 翌19日早朝、先手の松平元康(徳川家康)らが織田方の鷲津、丸根砦を攻略し、大高城に兵糧を運び入れる。 その日の午後に、総大将の今川義元は、おけはざま山に休憩しているところを、織田信長軍の急襲を受けて討たれてしまいます。 ■5月19日(陽暦1560年6月22日) 夜明け方(朝4時頃)に佐久間大学、織田玄蕃から、「鷲津山、丸根山に人数が取りかかった」という注進を受けました。 「此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺(かい)ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具めされ、立ちながら御食をまいり、御甲をめし候て御出陣なさる −信長公記−」 信長は飛び起きると「敦盛」を舞い、出陣のホラ貝を吹かせ、慌ただしく武装を整えると清洲城を飛び出しました。 従うのは小姓衆の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎。主従6騎は熱田まで3里を一時に駆けました(熱田着午前8時頃)。南の方角の空には鷲津、丸根砦が落ちたと思える黒煙が望見されます。 この時、「信長公記」では馬上6騎、雑兵200人ばかりだったそうです。熱田で兵の集結を待ち、1000人ほどになって、丹下砦に入り、さらに善照寺砦に前進した時には信長の軍勢は約2000。 ■信長の善照寺砦から先の行動は、従来説と新説の2説があります。 従来説は、善照寺砦から山中を迂回して太子ケ根という高地に出て、眼下の狭間に休憩する義元本陣を奇襲したというものです。義元は真っ昼間から「飲めや唄えの宴会」をやっていて、暗愚な軟弱武将という俗説もこんな所に原因があるのかもしれません。 新説は善照寺砦から、さらに中島砦に前進。そしておけはざま山という丘陵上に休憩する義元を正面攻撃したというものです。(おけはざま山という地名は現存せず、当時はそう呼ばれる山があったのか、単に桶狭間の山という意味なのかは不明) 「御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」と「信長公記」に明記されているのですが、これまでは「狭間」にこだわり、「おけはざま山」を無視していたのだそうです。 常識で考えても、一軍の大将が休憩するには谷間よりも、見晴らしの良い山上の方が適しているでしょう。 そして当然、休憩地は前もって下見され、予定に入っていたはずです。簡単な防御設備を設け、前日から準備されていたと考えられます。 (→) |
(→) 今川軍2万5千の大軍が織田軍2000に敗れたのは、2万5千といっても、遠征軍であるかぎり輜重隊(補給隊)の人夫なども含まれているはずで、戦闘員は半分の1万余でしょう。それが分散され、長く延びた状態だったと思われます。そこへ織田軍の戦闘部隊2000(織田軍は輜重隊など必要ありません)が攻撃をかけました。 織田軍の行動が早期に発見され、包囲殲滅されないかぎり、正面の敵は鷲津・丸根方面へ向かう前軍と今川義元本陣の護衛隊だけだったとのではないでしょうか。しかも中島砦に前進した頃には急激に天候がくずれ、大雨と強風が吹きつけたそうで、これが織田軍の行動を隠したことも成功の一因と思われます。 ただ、信長は最初から今川義元を目標にしていたのかは不明です。信長は、今川軍の前衛は前日以来の大高城への補給や鷲津・丸根砦攻めで疲れているに違いないと思い、精鋭でその疲労した隊を一気に叩けば崩れると考えた。予想通り、輜重隊が主だった敵軍がもろくも崩れたので、追い討ちをかけたら、そこに義元の本陣があって、義元を討取ってしまった、という有力な説もあります。 ■合戦後の論功行賞では、義元の休憩場所を連絡したという梁田出羽守政綱が第一番に賞されています。 梁田政綱が送った情報の連絡先は、信長の最前進拠点である中島砦だとして、義元が休憩を始めて、政綱が発見、それを中島砦に伝えて、信長が軍勢をそろえて出発するのにどれだけの時間を要するでしょう?。その間に義元は休憩を終えて移動する可能性も大いにあります。そのような不確かな情報よりも、義元の休憩地は最初から決まっていて、その情報を得たという方が納得がいきますね。 また、今川義元の目的も上洛なんぞでなく、今川方が尾張に打ち込んだ楔(くさび)である大高城と鳴海城への補給と、織田方が両城封鎖に築いた鷲津・丸根・中島・善照寺・丹下などの諸砦を攻略して排除すること、と考える方が自然です。 だとすると問題は、なぜ今川義元がそこにいなければならなかったのか?ということです。総大将の義元が出向かなければならないほどの大作戦だったとは思えないのですが。 今川軍侵攻を知った清洲城下の住民は冷静だったそうで、これは清洲まで攻めてくる恐れがなかったということだと思われます。 ■参考文献 「桶狭間の戦い」 小和田哲男・学習研究社 「戦国15大合戦の真相」 鈴木眞哉・平凡社新書 「信長公記」奥野高広・岩沢愿彦 校注 角川ソフィア文庫 |