新選組について      

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 はじめに
■私が新選組に興味を持ったのは、司馬遼太郎さんの小説「燃えよ剣」やテレビ映画「新選組血風録」がきっかけです。
 私にとって、土方歳三や沖田総司のイメージは「新選組血風録」の栗塚旭さん、島田順司さんなのですが、現実はそんな颯爽としたものではなく、殺伐とした人斬り集団なのでしょうか?
 治安警察として、ときには暗殺集団として幕末の京都を戦慄させた新選組とは、どのようなものだったのでしょう。このコーナーでは、私なりに「新選組」をまとめてみました。


■「新選組血風録」というテレビ時代劇をご存じでしょうか?
 昭和40年に放送された、司馬遼太郎さんの同名小説のドラマ化作品で、全26話。年配の方ならリアルタイムで見たとおっしゃるかもしれません。

 土方歳三を栗塚旭さん、近藤勇を舟橋元さん、沖田総司を島田順司さん、斎藤一を左右田一平さんが演じていて、脚本は結束信二さん。主題歌を春日八郎さんが歌っています。
 出演者の演技や物語が素晴らしく、オープニングで主題歌が流れるとワクワクします。機会があれば、ぜひご覧になると良いですよ。昔のテレビ時代劇の良さが堪能できる、「新選組もの」の名作です。

 「新選組血風録」昭和40年放送。全26話。時代劇専門チャンネル(SKYパーフェクTVやケーブルTV)で、2006年10月26日から連続放送されました。引き続き12月4日から「燃えよ剣」全26話も放送(月曜〜金曜)。録画のチャンスです。

■新選組の隊服といえば、浅葱(あさぎ)色の、袖に白い山形をデザインした羽織ですが、隊士が増えると全員には行き渡らず、着ていたのは十人に一人か二人だったそうです。
 着用されたのは結成当初だけで、池田屋襲撃時では着用者は指揮官数人だともいわれています。隊服を着た完全武装の隊士たちが、出動で屯所を駈け出す場面を想像すると胸が躍りますし、ダンダラ羽織が新選組のトレードマークと思っていたので残念です。
 TVドラマで、油小路事件の時に隊士たちが隊服を着用しているのを見ましたが、これでは襲ったのが新選組だと世間に知られてしまいますね。

■ところで、新選組は「新組」とも表記されますが、私は「新組」と書くことにしています。
「新選組始末記」の巻頭で子母澤寛さんは、「どちらでも良い、局長の近藤勇でさえ、時によって両方の字を用いている」とおっしゃっていますし、当時の人は漢字にこだわらなかったようです。選と撰、どちらでもかまわないのでしょうが、 私は「新撰組」という表記が好きではありませんので、「撰」は用いないことにしています。変な所にこだわると思われるでしょうけど、ご堪忍ください。

 東映太秦映画村の新選組屯所

 Contents

■ 実戦剣法と天然理心流 

■ 新選組隊士一覧

■ 新選組年表

■ 新選組組織表

「新選組血風録」と「燃えよ剣」について

■ 新選組関連書籍

浪士組上洛と新選組誕生

■ 池田屋事件
 

■ 局中法度と軍中法度

■ 芹沢鴨と伊東甲子太郎 

近藤勇狙撃事件と鳥羽伏見の戦い
 新選組の誕生
■文久3年(1863)当時の京都市中は、激派浪士たちが攘夷思想を唱えて横行し、「天誅」と称するテロ行為が後を絶たない状態でした。
 そのため幕府は、江戸における攘夷浪士を懐柔して利用することを企図し、「浪士組」を募集しました。江戸の浪士たちを幕府側に引き寄せ、京都に送り込んで、近く上洛する予定の十四代将軍家茂の警固と治安維持にあたらせようとしたのです。
 その上洛早々の「幕府浪士組」を策士清川八郎が私兵化。朝廷に接近し、攘夷の朝命を得て関東に帰り、攘夷を実行しようと企みます。それに反発したのが、浪士組に参加していた芹沢鴨と近藤勇ら13人(17人?)です。
 彼らは将軍の指揮の下に攘夷は京・大坂で行うべきと考えていたようです。芹沢、近藤たちは脱退して京に残留し、京都守護職松平容保に嘆願書を提出。それが認められて「京都守護職預り」となり、壬生の八木源之丞邸を屯所として「壬生浪士組」を結成しました。

■その後、壬生浪士組は京都守護職配下の警察組織として、将軍が江戸に戻り不在となった京都市中の治安維持にあたり、不逞浪士取り締まりという攘夷とは無縁の日々を重ねます。
 文久3年8月、薩摩藩と会津藩が、天皇の攘夷親征を企んだ長州勢と三条実美ら七人の激派公卿を不忠であるとして失脚させ、京を追放する事件が勃発。「8月18日の政変」といわれる騒動ですが、この時の御所守備の働きにより、「新選組」という隊名が正式に与えられたといわれます。

 鴨川の流れ。むこうに見えるのは丸太町橋。橋の右方へ行くと、京都守護職松平容保が本陣をおいた黒谷金戒光明寺。左へ行くと京都御所。
 新選組の時代背景
■新選組が誕生した文久3年(1863)は、ペリーの黒船艦隊が浦賀に来航し、強力な武力を背景に幕府に開国を要求した嘉永6年(1853)からちょうど10年めです。
 この10年間は幕末動乱時代の前半期。幕府は欧米列強の圧力に鎖国政策を維持できず、日米和親条約に続いて、修好通商条約(安政の五カ国条約)が天皇の許可を得ることなく調印されました。このため朝廷をはじめ、国内から開国に反対する声があがり、「日本は神国であり、天皇は神の子孫である。西洋人は夷狄であり、彼らを神州に入れてはならない」とする尊王攘夷論が広まりました。
 大老井伊直弼が「将軍継嗣問題」での反対派を弾圧した「安政の大獄」(安政5年・1858)が原因で「桜田門外の変」(万延元年・1860)が起こりました。同年に「外国人ヒュースケン殺傷事件」。その後、「東禅寺英国公使館襲撃事件」(文久元年・1861)「坂下門外の変」「生麦事件」(文久2年・1862)などの事件が続発。幕府の権威が急速に失墜することになりました。

■この頃はまだ、幕府の勢威が衰えたりとはいえ、桜田門外で大老を襲った水戸浪士たちも、攘夷を唱える志士たちも倒幕までは考えていませんでした。孝明天皇は幕府を中心に公武合体で攘夷をおこなう考えでしたし、薩摩の島津久光も公武合体論者でした。島津久光や松平慶永(越前)山内豊信(土佐)伊達宗城(宇和島)たち雄藩大名は、国政に参加し、幕府との連立政権を構想していたのです。
 文久3年8月の政変で京都から攘夷急進派を一掃した時に、彼ら雄藩大名は幕府(一橋慶喜)と会議を持ちますが、幕府は自己の利益と体面しか考えず、雄藩の政治への口出しを嫌ったため、彼らは幕府を見限ってしまいます。

■薩摩は生麦事件をきっかけに勃発した薩英戦争(文久3年7月・1863)を体験し、長州は無謀にも攘夷を実行した下関戦争(元治元年8月・1864)で列強国の報復攻撃を受け、ともに外国の実力と攘夷の不可能を身をもって知りました。
 薩長両藩は、戦争の相手国イギリス・坂本龍馬・中岡慎太郎(土佐)を通して接近し、軍事同盟(薩長連合、慶応2年1月・1866)を締結。一大倒幕勢力として、「開国倒幕」へ向かって進むことになります。
 「大政奉還」「王政復古の大号令」で江戸幕府が正式に廃止されることになるのは、慶応3年(1867)10月〜12月。新選組が京都に誕生してから、わずか4年半後でした。

 壬生寺。この境内で隊士たちが武芸の稽古に励んだそうです。

 壬生の前川邸(屋内は非公開)。八木邸だけでは手狭になったため、筋むかいの前川邸も屯所になりました。


 西本願寺。右の建物は太鼓楼。
慶応元年(1865)4月頃、新選組は屯所を壬生から西本願寺へ移しました。総長山南敬助脱走の一因ともいわれ、西本願寺は傍若無人な新選組に迷惑したそうです。
 新選組の任務
■市中の巡察。不逞浪士の取り締まりと探索。将軍や幕府要人の外出時の警固。
文久3年8月、新選組が京の見廻りをおこなうことが市中に布告され、「もし手余り候節は斬捨御免」と、捕縛のさいに抵抗にあって、手に余る場合は斬り捨てる権限を与えられたそうです。
 新選組は、京都市中で攘夷浪士を斬りまくったように思われていますが、実際は捕縛するのが基本(もちろん抵抗する者は斬ったでしょうが)だったようです。
 「新選組」隊名のゆらい

■私は新選組の隊名は、江戸に戻った「幕府浪士組」が「新たに徴集した組」として「新徴組」と命名されたのに対して、「徴集した者の中から、新たに選抜した組」という意味で、幕府か会津藩が命名したものと思っています。
 近年、「新撰組」の名称は会津藩の軍制に古くからあったもので、それを与えられたといわれています。新選組関連の本には「新撰組の名称は会津藩古来のもので、その由緒ある名を賜った」と断定しているものもあります。
 その理由というのは、会津藩の林房之助という人の著とされる「志くれ草紙」の中に、会津藩の寛政4年(1792)の軍制として、「新撰組」という「諸芸に秀でた子弟30名により編成された組」の名が書かれているからだとか。

 私は「志くれ草紙」は信頼できる史料なのか確認するべきと思いますし、それに、たんに同じ名称だという偶然の可能性も大きいと思います。史料に同じ名称が出てきたからといって飛びつき、それを「壬生浪士組」に結びつけるのはこじつけにすぎません。ましてや鬼の首を取ったように、「である」などと断定するのはとんでもないことです。
 会津の軍制に「新撰組」が存在したとしても、たかが浪士の集団にすぎないものに、そのような由緒ある名を与えるとは思えません。確かな裏付けが取れないかぎり、由来は不明、もしくは「新徴組」に対する「新選組」ということで良いのではないでしょうか。

■命名時期は「8月18日の政変」時の御所警備に就いた時といわれますが、警備の会津兵には浪士組がうさん臭く見え、局長芹沢鴨との間に一騒動あったそうです。そのような浪士組に由緒ある隊名(と仮定して)が与えられたとすれば、誇り高い会津藩士たちが納得しないでしょう。
 また、「島田魁日記」(隊士島田魁の著)に「八月十八日・・・新選組ノ隊名ヲ下サル」と書かれているからといって「8月18日」をそのまま信じて確定するのは早計で、「その頃に命名された」とするべきだと思います。

 新選組の思想
■「尽忠報国 じんちゅうほうこく」という言葉は、忠を尽くし国に報いるという意味です。これは文久3年1月に、幕府が江戸で浪士組を募集した時のスローガンです。
 幕府は「尽忠報国の志厚き者」という要項で浪士を集めました。この当時の尽忠報国は尊王攘夷のことで、幕府浪士組から分離誕生した新選組も当然のことながら、「尽忠報国。尊王敬幕、攘夷」つまり攘夷を目的とした思想集団でした。しかし、幕府を主体とした攘夷はついに行われず、新選組は京都の治安警察として、不本意な日々を送ることになります。

■近藤勇は攘夷論者です。浪士組に参加したのも上京して攘夷をするつもりでした、攘夷を実行しない幕府に腹を立てています。攘夷をやらない幕府を倒す、となるのが倒幕論ですが、近藤はあくまでも幕府中心の攘夷を希望していて、「攘夷をしない幕府は不満だけど、倒幕を主張する勢力は許せない」という考えだったのではないでしょうか。

■司馬遼太郎さんの小説「燃えよ剣」に、「われわれはもともと、攘夷の魁(さきがけ)になる、という誓いをもって結盟したはずではないか。そのはずの新選組が、攘夷決死の士を求めては斬ってまわっている。おかしいと思わないか、沖田君」という山南敬助のセリフがあります。
 攘夷が目的だった新選組が攘夷浪士を斬るという矛盾。新選組は元治元年あたりから、「攘夷」を捨て、幕府擁護のための人斬り集団に変貌していったのだろうか。
 新選組への入隊と除隊

■隊規では「局を脱するを許さず」とあり、いったん入隊したら死ぬまで辞められないと思われがちですが、実際は円満に除隊した者や、役に立たないと見なされ解雇された者もいたようです。斯波良蔵という隊士が、外国へ行き勉強したいという理由で除隊。また藤沢竹城という隊士は剣術が苦手で、戦闘の役に立たないという理由で除隊したそうです。
 手続きを踏み、正当な理由が認められれば除隊できたのですね。ただ除隊後は京・大坂に居られないのが条件だったようです。武田観柳斎と浅野薫という隊士が隊を追放されましたが、武田観柳斎は薩摩藩に接近したため斬られ、浅野薫は生活に困り、隊名を騙って金策したために斬られています。

■入隊は、武士としての心構えや協調性など、人間性を重視したようです。とくに剣道などの実技試験は行われなかったらしく、面接で「独身か女房がいるのか?」を問われ、妻子が10里(40km)以上離れていれば入隊できたそうです。

 不定時法について

■新選組には関係のないことですが、気になることなので。
 新選組関連の本を読んでいると池田屋事件の箇所で、「五つ刻(午後8時)に会津藩兵と合流する手はずだった」とあり、襲撃が「四つ刻(午後10時)」となっています。このカッコ内の時刻換算は、一日を単純に12等分したもので、池田屋事件は夏ですから、大きくずれています。
 不定時法は、日の出36分前を明け六つ。日の入り36分後を暮れ六つとして、その間の昼と夜を各6等分(12等分が1時間)します。昼夜の長さは季節や地域によって変化するので、1時間の長さも変化します。

 池田屋事件は元治元年6月5日で、陽暦では7月8日です。夏至から二週間あまりずれていますが、おおよそ五つ刻が午後9時10分くらい、四つ刻が午後10時35分くらいです。
 現在刊行されているほとんどの本が、不定時法を考慮に入れていません。これはなぜでしょう?。
 北陸地方の、7月8日の明け六つは午前4時06分くらい、暮れ六つは午後7時51分くらいで、夜間の1時間は約41分です。京都地方とでは少々地域差が生じますが、大きな差はないと思います。

風雲新撰組リンク集さん

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