![]() |
浪士組上洛と新選組誕生 | |
| |
|
|
| 浪士組募集 文久3年(1863) 1月 | ||
| ■文久3年正月7日、老中板倉周防守から松平主税介(講武所剣術師範役)に対して通達がありました。 | ||
| 「今般御政事向追々御改革遊候に付ては浪士共の内有志の輩御集に相成、一方の御固め可被仰付候。尤も遂探索一旦過失有之候歟、又は遊惰に耽候共、改心之上尽忠報国に志厚き輩、巳往の忌憚に不拘出格之訳を以て、御免し之儀も可有之候間、其心得にて名前取調、早々可被申聞候事。 正月七日浪士取扱役 松平主税介殿」 | ||
つまり、「このたび政事の改革にあたって、浪士たちの内で志のあるものを公募する。尽忠報国の志があるならば、前科がある者でも罪は免除する」というものです。 |
||
| 新選組誕生 文久3年(1863) 3〜9月頃 | ||
|
■京に着いた早々の2月23日の夜、それまで浪士組の外にいた清河八郎が新徳寺の本堂に浪士組の全員を集めて、 |
||
| ■清河八郎の建白書提出を整理すると以下のようになります。 | ||
| 2月24日 | 清河八郎、朝廷に建白書を提出。「我々は幕府のために上洛したのではありません。尊皇攘夷の大義のためで、大命を拝して尊攘の赤心をとげさせてください」という内容です。 初め朝廷は「手順を踏んで提出するように」といって受け付けないのですが、「一応、あずかる」となりました。 |
|
| 2月29日 | 朝廷より勅諚と達書きが清河たちに下る。「近年は醜夷がはびこっているので、蛮夷を拒絶する叡旨を奉じて忠勇を奮起して励むように」というものです。 | |
| 3月3日 | 朝廷より幕府に「浪士組東下」の達書きが下る。これは朝廷より二条城を通じて鵜殿鳩翁、山岡鉄太郎に宛てたもので、「関東に帰って攘夷に粉骨砕身がんばりなさい」というものですが、「浪士たちを京都に置いてはいかなる事態を引き起こすかもしれないので、関東に戻すように」というのが裏の意味だと思います。 | |
| 3月4日 | 将軍徳川家茂が京に到着。 | |
| 3月13日 | 浪士組が江戸に向けて東下。京を発つ。浪士取扱は鵜殿鳩翁から高橋謙三郎(泥舟)に交代。佐々木只三郎、速見又四郎らと共に浪士組を率いて江戸に向かいました。江戸着は3月28日。 | |
| ■清河八郎が率いる浪士組の朝廷への建白書は入れられました。鵜殿鳩翁、山岡鉄太郎ら幕府の浪士取扱や取締らは「計られた」と思ったでしょうが、あとの祭り。 しかし、その後朝廷から「攘夷は横浜でやるように」という勅状が幕府を通して鵜殿、山岡に下されます(3月3日)。もとより清河には異存はなく、上洛したばかりの浪士組は3月13日発で関東に帰ることになりました。 清河の建白は入れられ、陰謀が成功したかに見えますが、朝廷にはありがた迷惑で、やっかい払いされたものと思われます。 清河はこの後4月13日に江戸の麻布一ノ橋で、幕臣佐々木只三郎に斬られることになります。 京に残った芹沢、近藤たちは壬生村の郷士、八木源之丞の屋敷を宿舎にしました。 今後、活動してゆくにはスポンサー(というよりパトロン)を探さなければならず、3月10日、京都守護職の会津藩主松平容保に「京都の治安維持に働かせてほしい」という嘆願書を提出しました。 12日に嘆願が通り、「幕府にかわって守護職が預かるという『守護職御預』(「御」は幕府に対する敬語)」が決まります。こうして「壬生浪士組」が発足。彼らは京の町を守ることになりました。 ちなみに江戸に戻った浪士組は、鵜殿鳩翁と旗本松平上総介が支配役になり、「新徴組」と名のって江戸市中の取り締まりにあたりました。しかし隊士の市民への乱暴や押し借り、隊士の仇討ち騒ぎなど、盗賊よりもたちが悪いとの悪評で、翌年の元治元年5月に廃止されました。その後、隊士の一部は水戸の筑波山挙兵に加わった者もいたそうです。 ■「壬生浪士組」というのは正式な隊名ではなく、壬生村に駐屯していたからというだけの便宜上の名前なのだそうです。 「新選組」という正式な名前が与えられたのはいつなのでしょう?。 「8月18日の政変」で浪士組が出動した時といわれますが、そんな慌ただしい時に隊名が与えられるか、大いに疑問です。常識的に考えて、それ以降の8月下旬か9月だと思います。 トップページと重複しますが、近年、新選組という名称は会津藩の軍制に古くからあったもので、由緒あるものだといわれます。それが事実としても、その由緒ある名前が壬生浪士組に与えられたとは、私には信じられません。 新選組関連本のなかには「由緒ある名前が与えられた」と断定しているものがありますが、偶然同じ名前だった可能性もあるのに、何を根拠に断定できるのでしょうか。たかが浪士の集団にすぎないものに、由緒ある名前が与えられるはずがないと、私は思います。会津武士たちから見て「壬生浪士組」は軽蔑の対象でしょう。そのような者たちに由緒ある名前が与えられたとすれば、彼らの誇りが許さないはずです。 |
||