浪士組上洛と新選組誕生
       

 浪士組募集  文久3年(1863) 1月
■文久3年正月7日、老中板倉周防守から松平主税介(講武所剣術師範役)に対して通達がありました。
「今般御政事向追々御改革遊候に付ては浪士共の内有志の輩御集に相成、一方の御固め可被仰付候。尤も遂探索一旦過失有之候歟、又は遊惰に耽候共、改心之上尽忠報国に志厚き輩、巳往の忌憚に不拘出格之訳を以て、御免し之儀も可有之候間、其心得にて名前取調、早々可被申聞候事。 正月七日浪士取扱役 松平主税介殿」

 つまり、「このたび政事の改革にあたって、浪士たちの内で志のあるものを公募する。尽忠報国の志があるならば、前科がある者でも罪は免除する」というものです。
 前年10月に松平主税介が浪士を利用することを幕府に献策して、それが受け入れられたのです。
 「浪士取扱」には松平上総介(主税介から昇進)の他に、鵜殿鳩翁。その下役の「浪士取締」に山岡鉄太郎、窪田治部右衛門、松岡万が任じられ、関東一円に広く浪士募集が行われました。
 この募集案は庄内(山形県)浪士の清河八郎が提案し、松平主税介を通して幕府に献策したものといわれます。清河と浪士取締の山岡鉄太郎は剣術の同門で、かねてからの友人でした。当時、清河は殺人罪でおたずね者でした。「前科がある者でも尽忠報国の志があれば採用する」という条文は、清河八郎を赦免するのが目的だったといわれます。

 この浪士募集に応募したのが近藤勇の道場「試衛館」の面々です。近藤勇、土方歳三、井上源三郎。道場に居候していた永倉新八、山南敬助、藤堂兵助たちが「浪士募集」のニュースを知ったのは文久3年の1月初めだと思われます。

 この時期、幕府は朝廷に攘夷実行を促されていました。そこで幕府は苦肉の策として、攘夷を唱える浪士たちを募集し、何をさせるのかは具体的な案はないにしても、それでお茶を濁そうとしたようです。
まず募集人数は50人くらいでよかろう、という考えだったのですが、実際に集めてみると二百数十人にもなってしまいました。その処置に困り、とりあえずは近く上洛する予定の将軍を警固させるということで、京都に送り込むことになったようです。

■小石川の伝通院に集合した浪士は235人。なかには、尽忠報国とは縁のないような無頼者などいかがわしい者たちもいたようです。そんな中で、近藤勇、土方たち試衛館グループと、水戸の芹沢鴨、新見錦らのグループは異彩を放ち、目立っていたのではないでしょうか。
「先ず募集の命令を受けて、其の募集を致しました。しかしことごとく皆尽忠報国の者ばかりという訳には参りませぬ。其の中には甚だ不勤王の輩もございました」(彦根浪士の石坂周三・談)という証言から、不勤王の輩とは芹沢たちのことだと短絡的に決めつけている本がありますが、石坂周三は近藤たちを指しているようです。芹沢鴨という人は不勤王どころか、熱心な勤王家で、京に上がってからは毎朝御所の方向を拝んでいたといわれます。

 235人の浪士組は約30人ずつ七組に分けられ、それぞれに隊長がきめられました。通説では近藤勇は初め平隊士だったといわれますが、最初から「先番役割」という道中の宿を手配する役を担当したそうです。
 浪士取扱の松平上総介が辞任のため、鵜殿鳩翁と山岡鉄太郎に率いられた浪士組が江戸を立ったのは文久2年2月8日。
 本庄宿での「芹沢鴨の大かがり火事件」や、「山南敬助と目付役の喧嘩」など、騒ぎがあったりしましたが、中山道を上った浪士組は無事に2月23日京都着。一行は洛外の壬生村に入り、新徳寺、地蔵寺、更祥寺の他、郷士や豪農宅に分宿しました。

 新選組誕生 文久3年(1863) 3〜9月頃

■京に着いた早々の2月23日の夜、それまで浪士組の外にいた清河八郎が新徳寺の本堂に浪士組の全員を集めて、
「京へ来たのは近く上洛予定の将軍家茂公の守護のためとはただ名のみである。その真実は尊皇攘夷の先鋒たらんとするにある。我々は幕府の録を食むものではない。天皇の命令を妨げるものは幕府の役人といえども容赦しないのだ」と演説をおこないました。「ご異存はござるまいな」と決めつけ、すでに用意されていた朝廷に提出する建白書に署名をもとめました。
 浪士組の人数を利用し、朝廷に建白書を出して攘夷実行の朝命をうけ、関東に帰り攘夷を実行(横浜あたりで)する計画だったのです。

 この清河の行動に異を唱えたのが芹沢鴨でした。
「清河は江戸へ帰るというが、我らは京に花見に来たのではない。いまだ公方様が京に着いてもおらず、尽忠報国の目的も達せないのに、このまま東下するのは遺憾である」「そうだ、そうだ!」と新見たち。そして近藤勇たちも、芹沢の発言に同意しました。
 こうして芹沢鴨ら5人と近藤勇ら8人は清河と分離して、別行動をとることになりました。
 近藤勇以下、土方歳三、井上源三郎、沖田総司、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助。
 芹沢鴨以下、新見錦、平山五郎、野口健司、平間重助 (合計13人)
  この13人の他に、斉藤一、粕谷新五郎、阿比留鋭三郎、佐伯又三郎を加えた17人説もあり。
  他にも、殿内義雄、家里次郎、根岸友山、遠藤丈庵、清水吾一、神代仁之助、鈴木長蔵の7人を入れて24人という説もあります。

■清河八郎の建白書提出を整理すると以下のようになります。
 2月24日 清河八郎、朝廷に建白書を提出。「我々は幕府のために上洛したのではありません。尊皇攘夷の大義のためで、大命を拝して尊攘の赤心をとげさせてください」という内容です。
初め朝廷は「手順を踏んで提出するように」といって受け付けないのですが、「一応、あずかる」となりました。
 2月29日 朝廷より勅諚と達書きが清河たちに下る。「近年は醜夷がはびこっているので、蛮夷を拒絶する叡旨を奉じて忠勇を奮起して励むように」というものです。
 3月3日 朝廷より幕府に「浪士組東下」の達書きが下る。これは朝廷より二条城を通じて鵜殿鳩翁、山岡鉄太郎に宛てたもので、「関東に帰って攘夷に粉骨砕身がんばりなさい」というものですが、「浪士たちを京都に置いてはいかなる事態を引き起こすかもしれないので、関東に戻すように」というのが裏の意味だと思います。
 3月4日 将軍徳川家茂が京に到着。
 3月13日 浪士組が江戸に向けて東下。京を発つ。浪士取扱は鵜殿鳩翁から高橋謙三郎(泥舟)に交代。佐々木只三郎、速見又四郎らと共に浪士組を率いて江戸に向かいました。江戸着は3月28日。
■清河八郎が率いる浪士組の朝廷への建白書は入れられました。鵜殿鳩翁、山岡鉄太郎ら幕府の浪士取扱や取締らは「計られた」と思ったでしょうが、あとの祭り。
 しかし、その後朝廷から「攘夷は横浜でやるように」という勅状が幕府を通して鵜殿、山岡に下されます(3月3日)。もとより清河には異存はなく、上洛したばかりの浪士組は3月13日発で関東に帰ることになりました。
 清河の建白は入れられ、陰謀が成功したかに見えますが、朝廷にはありがた迷惑で、やっかい払いされたものと思われます。
 清河はこの後4月13日に江戸の麻布一ノ橋で、幕臣佐々木只三郎に斬られることになります。

 京に残った芹沢、近藤たちは壬生村の郷士、八木源之丞の屋敷を宿舎にしました。
 今後、活動してゆくにはスポンサー(というよりパトロン)を探さなければならず、3月10日、京都守護職の会津藩主松平容保に「京都の治安維持に働かせてほしい」という嘆願書を提出しました。
 12日に嘆願が通り、「幕府にかわって守護職が預かるという『守護職御預』(「御」は幕府に対する敬語)」が決まります。こうして「壬生浪士組」が発足。彼らは京の町を守ることになりました。
 ちなみに江戸に戻った浪士組は、鵜殿鳩翁と旗本松平上総介が支配役になり、「新徴組」と名のって江戸市中の取り締まりにあたりました。しかし隊士の市民への乱暴や押し借り、隊士の仇討ち騒ぎなど、盗賊よりもたちが悪いとの悪評で、翌年の元治元年5月に廃止されました。その後、隊士の一部は水戸の筑波山挙兵に加わった者もいたそうです。

■「壬生浪士組」というのは正式な隊名ではなく、壬生村に駐屯していたからというだけの便宜上の名前なのだそうです。
「新選組」という正式な名前が与えられたのはいつなのでしょう?。
「8月18日の政変」で浪士組が出動した時といわれますが、そんな慌ただしい時に隊名が与えられるか、大いに疑問です。常識的に考えて、それ以降の8月下旬か9月だと思います。
 トップページと重複しますが、近年、新選組という名称は会津藩の軍制に古くからあったもので、由緒あるものだといわれます。それが事実としても、その由緒ある名前が壬生浪士組に与えられたとは、私には信じられません。
 新選組関連本のなかには「由緒ある名前が与えられた」と断定しているものがありますが、偶然同じ名前だった可能性もあるのに、何を根拠に断定できるのでしょうか。たかが浪士の集団にすぎないものに、由緒ある名前が与えられるはずがないと、私は思います。会津武士たちから見て「壬生浪士組」は軽蔑の対象でしょう。そのような者たちに由緒ある名前が与えられたとすれば、彼らの誇りが許さないはずです。

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