武田信玄の娘たち

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■武田信玄には6人の娘がいたことが確実とされています。
名前がわかっているのは三、五、六女で、あとは史料に名前が出てこないため没後の法名でよばれています。長女の黄梅院と六女の信松尼(松姫)の生涯が劇的だと思います。
 黄梅院 長女 母は三条氏。天文12年(1543)生まれで、同23年(1554)に北条氏政に嫁し武田・北条間に同盟が結ばれる。
永禄12年(1569)、信玄が駿府に侵入し、今川氏真を逐ったため、怒った北条氏康が氏政と離別させ甲府へ返した。傷心の彼女は同年27歳で没した。
 見性院 二女 母は三条氏。天文14年(1545)ないし15年の生まれ。
永禄初年ごろ穴山信君(梅雪)に嫁ぎ、天正10年(1582)、信君に死別。元和8年(1622)に没した。
 真竜院 三女 真理姫。母は不詳。天文19年(1550)の生まれ。
弘治元年(1555)木曽義昌に嫁し、天正10年(1582)木曽山中に隠棲し、正保4年(1647)に没した。
 桃由童女 四女 天文23年(1554)ないし24年の生まれ。母は不詳。
永禄元年(1558)4,5歳で夭折した。
 大儀院 五女 菊姫、阿菊御料人。母は油川氏。永禄元年(1558)の生まれで、天正7年(1579)、上杉景勝に嫁し、慶長9年(1604)没した。
 信松尼
 しんしょうに
六女 松姫、阿松御料人。永禄4年(1561)生まれで、母は油川氏。
永禄10年(1567)、織田信忠と婚約したが、親同士の信玄と信長が対立する事態になり、また信玄が死んだことにより自然に婚約破棄になった。その後、信忠と婚約したことで親織田派と見られ、勝頼のもとにいられず次兄仁科盛信を頼った。盛信は薄幸の妹を暖かく迎えた。
天正10年(1582)、松姫のいる高遠城はかつての婚約者である信忠に攻められ落城、仁科盛信は死に、松姫は逃避行の末、武蔵八王子の心源院という寺を頼った。心源院の住職は彼女を保護し、松姫は信松尼と号した。
彼女を頼ってくる武田旧臣の世話をしたりして、人々に敬われ、元和2年(1616)に没した。