大和と零戦      

戦艦大和 写真は呉市海事歴史博物館(大和ミュージアム)
にて撮影。広島県呉市宝町5番20号
戦艦「大和」概要
 全長 263m
 水線長 256m
 最大幅 38.9m
 基準排水量 65,000トン
 満載排水量 72,809トン
 公試最大速力 27ノット
 機関出力 150,000馬力
 乗組員数 2,250名

 10分の1スケールで復元された「大和」(全長26.3m)


 艦橋(タワー・ブリッジ)を正面から。
 最頂部には主砲射撃指揮所がある。


 艦首。菊花の御紋章


 艦体中央部の高角砲と対空機銃群


 艦尾甲板にはカタパルト(射出機)2基があり、
 7機の水上偵察機が搭載される

昭和12年(1937)11月4日
        呉工廠にて「マル3計画の第一号艦」として起工。
昭和15年(1940)8月8日
        呉工廠にて進水。「大和」と命名。
昭和16年(1941)12月16日 呉工廠にて竣工。
昭和17年(1942)2月12日
        連合艦隊旗艦となり、司令長官山本五十六が乗艦する。
        5月29日 ミッドウェー作戦支援のため呉沖を出航。
        8月28日 トラック島に進出。
昭和19年(1944)6月19、20日 マリアナ沖海戦に参加。
           10月24、25日 レイテ沖海戦に参加する。
昭和20年(1945)4月7日
        九州南西沖海上にてアメリカ海軍機の攻撃により沈没。

 戦艦「大和」を知らない日本人はいないと思います。
 私は戦争を知らない世代ですが、子供の頃に「サツマイモ食べる子元気な子 あとから屁(へ)が出る臭いもの 戦艦大和が爆発した な〜んてす〜ごいオナラだろ」という軍艦マーチの替え歌を歌ったり、子供たちのあいだで大和はやはり人気がありました。

 日本海軍は、仮想敵国であるアメリカに対する戦備において、戦艦数の劣勢を補うために、個艦の性能で優位に立とうとしました。そのため米海軍にはない46センチ主砲三連装の砲塔3基をもつ大戦艦を建造しました。
 昭和12年から始まった建造計画の一号艦が「大和」です。二号艦が「大和」と同型の「武蔵」です。
 日米開戦の8日後、昭和16年12月16日に竣工した「大和」が、実戦に参加したのは19年6月のマリアナ沖海戦です。当時の日本が持つ最高技術を結集した「大和」ですが、その主砲はついに念願の敵戦艦に向けて発射されることなく、昭和20年4月、沖縄特攻への途中、敵攻撃機の大編隊に屈し、九州南西沖に沈みました。

 昭和12年度の「第三次補充計画(略称マル3計画)」は、「戦艦2隻以下70隻を、5カ年計画で建造。16年完成」というものです。
 その一号艦が「大和」、二号艦が「武蔵」の大戦艦2隻で、三号艦、四号艦は航空母艦「翔鶴」「瑞鶴」です。
「大和」「武蔵」は無用の長物。航空時代が来ようとしているのに戦艦建造に血道を上げたといわれます。でも、計画では新鋭空母「翔鶴」「瑞鶴」の建造も同時に進められており、「蒼龍」「飛龍」も昭和12年末と14年に完成していて、けっして航空機を軽視したわけではないと思います。空母も造るが、しかし主力は戦艦であるということでしょう。

 日本は開戦半年後の17年6月、ミッドウェー海戦で4隻の空母を失うという大敗北を喫します。この時、「大和」「武蔵」以下の戦艦群は空母部隊のはるか後方に位置していました。山本五十六長官は、空母部隊のミッドウェー攻撃によって誘い出した敵艦隊を、戦艦で撃滅しようと計画していたようです。
 いっきに艦隊決戦にもちこみ、この戦争の決着をつけようとしていたという説です。そのために戦艦の存在意義がある。
 ところが、現実は空母同士の戦い、航空機同士の戦いという結果になって、戦艦による艦隊決戦など起こりませんでした。

 太平洋戦争は、航空機の戦いであり、その航空機の飛行場を確保するために島々を奪い合いするという戦争だったのです。
 戦争では航空機は消耗品だそうです。いかに消耗した機材や搭乗員を生産、補充するか、その差が勝敗を決するとすれば、大国アメリカの工業力・技術力・生産力に、貧乏な日本が勝てるはずがなかったのは当然です。
 日本が期待した日露戦争の日本海海戦の再現、艦隊決戦はおこなわれず、航空消耗戦へと引き込まれてしまったのですね。

 戦艦「大和」が計画された昭和12年当時、わずか5、6年後とはいえ、将来の航空機時代(それまで複葉機だったのが、わずか10年後にはジェット機が出現するという、想像を超える技術発展)の到来を見通せなかったとしても仕方のないことではないでしょうか。
 大和は46センチ主砲9門(3連装が3基)です。アメリカ戦艦の主砲は40.6センチ。アメリカは大西洋と太平洋に艦隊を置く必要があり、両洋の間にパナマ運河があります。その運河を通過するには艦幅に制限があるのです。大きな主砲を搭載するには幅を広くしなければならない。その限界が40センチ砲だったのです。
 なので日本は、それ以上の巨砲を搭載した戦艦5隻を計画したのです。この巨砲艦5隻(第三次計画の「大和」「武蔵」、第四次の「信濃」「紀伊」)。その後、さらに第五次として「5〜7番艦」が立案され、昭和22年頃には合計7隻の大戦艦をそろえる。これで日本の守りは盤石だと考えたのでしょう。

 大和が完成したのは昭和16年12月16日。連合艦隊に編入され、翌17年2月12日に連合艦隊旗艦となる。そして、そのまま実戦に投入されることなく、柱島艦隊とか大和ホテルと陰口をたたかれることになります。
 時代は航空戦になろうとしていました。空母機動部隊が海軍主力となり、戦艦は使い道がなくなりつつある。三番艦「信濃」は空母に改造され、四番艦「紀伊」は建造中止。そして完全にアメリカに制空権を奪われ、上空援護のない頃になってようやく大和を出して苦戦をすることになります。

 昭和20年4月6日、大和は第二水雷戦隊(軽巡「矢矧」以下駆逐艦8隻)を率いて、沖縄に特攻出撃します。
 4月7日午後、その航路半ばで敵艦載機群の猛攻を受けて沈没。大和は戦死2740名(生存者276名)。艦隊合計の戦死者は3729名、戦傷者459名。「大和」「矢矧」と駆逐艦4隻が沈没。
 アメリカ側の損害は撃墜6機(日本は22機としている)、損傷52機。戦死者は14名、負傷4名。

零式艦上戦闘機
「艦上戦闘機」とは航空母艦から発着できる戦闘機のことです。なので海軍主力戦闘機は、この艦上戦闘機です。
 海軍の目的は、敵艦隊との決戦において敵を撃滅すること。その艦隊決戦時の制空権を奪取するのが艦上戦闘機の任務です。

 戦艦大和と同様に「零戦」の名前を聞いたことがない人はいないと思います。「0戦太郎」「0戦はやと」「ゼロ戦レッド」など、昭和30年代には戦記マンガの主役として大活躍し、当時の子供たちの心を熱くした戦闘機。
「零式」というのは制式採用された昭和15年(1940)が紀元年号2600年にあたり、その末尾の「0」を採った名称です。

 紀元年号: 神武天皇即位紀元年号のことで、神武紀元元年は西暦紀元前660年。西暦年号に660年を加えると神武紀元年号になる。昭和15年は1940年なので2600年となる。

 零戦62型 爆弾装備可能な戦闘爆撃機タイプ。
 日本で本格的な航空母艦が竣工したのは大正11年(1922)12月の「鳳翔」です。基準排水量7,400トン、搭載機数15、補機6で、この時の艦上戦闘機は複葉の「一○式艦上戦闘機」。

 この後は「三式」「九○式」「九五式」と複葉機時代が続き、名機といわれる単葉で全金属製の「九六式艦上戦闘機」が登場するのが昭和11年(1936)です。
 そして「九六艦戦」の設計者である堀越二郎技師による後継機「零式艦上戦闘機」が昭和15年7月に制式採用されます。
 零戦の初陣は昭和15年9月13日。中国戦線重慶上空で13機の零戦が32機の中国空軍機を相手に全機撃墜、味方損害ゼロという大戦果をあげました。

 主翼の20ミリ機銃と13ミリ機銃
太平洋戦争における零戦
 昭和16年(1941)12月8日、日本機動部隊によるハワイ真珠湾奇襲攻撃により、太平洋戦争が始まりました。この真珠湾攻撃作戦では78機の零戦が制空隊として参加。零戦の未帰還は9機。
 同日、ハワイと同時にフィリピン・ルソン島のクラークフィールド米軍基地を攻撃した比島攻略戦では、台湾南部から発進した零戦86機が106機の攻撃隊を護衛して参加。零戦隊は敵戦闘機13機撃墜、地上炎上35機。
 味方損害は自爆5機。航続距離3,300kmという零戦の性能は、台湾南部から800km以上もあるルソン島までの渡洋攻撃が可能だったのです。このフィリピン作戦は「大空のサムライ」で坂井三郎さんが実戦体験を書いていますね。
 マレー・シンガポール方面、インド洋、珊瑚海、ミッドウェー、そして有名なラバウル航空戦(昭和17、18年)へと、零戦は太平洋戦争を戦いつづけてゆきます。

 零戦のそばまで寄って見学できます。触るのは禁止。

「海軍精神 燃え立つ闘魂 いざ見よ南の輝く太陽
雲に波に 敵を破り 轟くその名 ラバウル航空隊」
               (作詞:佐伯 孝夫 作曲:古関 裕而)
 と歌われるラバウル海軍航空隊 。

 ソロモン、ガダルカナルの航空消耗戦に零戦隊は、アメリカのF4F、F6F、F4U(海軍)、P38(陸軍)など優勢な敵戦闘機と戦いました。
 中国大陸での初陣いらい太平洋でも縦横の活躍をした零戦ですが、次々に投入される敵の新鋭機の前に、しだいに苦戦するようになり、立場は逆転、熟練搭乗員の損害が増えていきます。

 零戦の長所は、その軽快な運動性にあり低高度でのドッグファイト(格闘戦)に強いとされます。
 しかしその反面、機体の脆弱性、速度の不足、防弾の不備という欠点が露呈されると、敵は零戦との格闘を避け、高速をいかした一撃離脱戦法に徹するようになり、零戦の損害が激増するようになったのです。

 「一撃離脱戦法」・・・ 速度、加速性能に優れる米軍戦闘機は、高々度から急降下し、日本機に銃撃を加え、そのまま高速で離脱する。日本機は速度に劣るため追撃できませんでした。

 零戦は太平洋戦争を最後まで、後継機にバトンタッチすることなく戦い続けました。
 21型、32型、52型と、改良を重ねることで性能向上を目指し、老骨に鞭打つかのように、敵の高馬力、重武装、高速の新鋭戦闘機を相手に戦ったのです。
 海軍に比べ陸軍は、一式戦闘機「隼」に続けて、二式「鍾馗」、三式「飛燕」、四式「疾風」、五式戦闘機(飛燕を空冷エンジンに換装した機体)と、次々に新型機を開発し送り出しています。
 零戦の後継機として設計された「烈風」は試作機完成が昭和19年4月と遅れ、終戦時には8機が生産されたのみでした。
「零式艦上戦闘機」概要
  21型 初期の11型を、空母搭載を考慮して翼端を折りたたみ式にした型。 エンジンは「栄12型」950馬力。速度533キロ。全幅12m。
開戦時の真珠湾攻撃に参加したのはこの型。20ミリ機銃弾は各銃わずか60発。
  32型 翼端の折りたたみを廃止し、翼端を短縮(角張っている)。エンジンを「栄21型」に換装して馬力1,100に。速度544キロ。全幅11m。
20ミリ機銃弾を各銃100発に増やす。
  22型 32型は速度が増したが航続力が低下したため、翼幅を元の折りたたみ式12mに戻し、翼内に燃料タンクを増設、航続距離を増加した。ラバウル航空隊の主力。
  52型 32型の主翼端を丸く整形。エンジンは「栄21型」1,100馬力。速度564キロ。全幅11m。
20ミリ弾をベルト給弾式にし、各銃125発にする。胴体の7.7ミリ銃の一挺を13ミリ銃にし、風防の前面を防弾ガラスにしたのが乙型。
胴体の7.7ミリ銃を廃止し、主翼の20ミリ銃外側に13ミり銃を増設したのが丙型。
 例えば「21型」は、「に、いちがた」と読む。最初の型を11型とし、機体の改良をおこなった場合は10の位を、エンジンの換装をおこなうと1の位を進めます。「52型」は4回の改良を施されたが、エンジンは「32型」と同じという意味です。


 海軍には局地戦闘機(防空用戦闘機、インターセプター)という機種があって、昭和17年10月に「雷電」、同年12月「紫電」、昭和20年1月に「紫電改」が制式採用されています。
 悍馬(かんば)みたいな「雷電」は搭乗員に不評で(ベテランには評価されたが)、どうしても軽快な零戦と比較されてしまうのですね。
 最も活躍したのが「紫電改」です。四国松山の第343航空隊が有名です。20ミリ機銃4挺という強力な武装と1,825馬力エンジンの機体。エース搭乗員を集めた精鋭部隊の活躍は映画(「太平洋の翼」東宝1963年)にもなり、「紫電改のタカ」(1963年「週刊少年マガジン」)というマンガにもなりました。
 しかし「紫電改」や陸軍の四式戦闘機「疾風」の性能がいくら良くても、焼け石に水。押し寄せるアメリカ軍の本土空襲で工場は灰燼と化し、大物量の勢いには為すすべもなかったのです。


■「零戦」は「ゼロ戦」ではなく「れい戦」というのが正しい、というのは誤りだそうです。
 確かに正式には「れい式戦」なのでしょうが、当時の現地部隊ではゼロ戦と呼ぶ場合も多くあったそうですから、「ゼロ戦」でも「れい戦」でもかまわないのでしょう。
 アメリカでの「ゼロファイター」という言い方から、戦後になって「ゼロ戦」と呼ばれるようになったとされるのは、根拠がありません。

■零戦などに搭載されている20ミリ機銃などの「機銃」とは海軍用語なのだそうです。
 うちの祖父さんも言ってましたが、日本陸軍では「機銃」とは絶対に言わなかったとか。海軍は口径7.7ミリも20ミリも同じく機銃と呼びますが、陸軍は7.7ミリは「機関銃」、12.7ミリ以上は「機関砲」と呼んだそうです。こんな用語面にも陸軍と海軍の競争心が感じられます。
 戦記本で、陸軍機の武装なのに7.7ミリ機銃とか、海軍の零戦なのに20ミリ機関砲と書いたものを目にしますが、用語の使い方として間違っています。


 零戦52型  靖国神社遊就館に展示されています。

 52型を後尾から。   靖国神社遊就館にて撮影。