浅野川と犀川 あさのがわ と さいがわ (このページは書きかけです

 「二つの流れ遠長く 麗鐸(れいたく)澄んで湧くところ」と歌われるとおり、金沢の町(旧市街)は、金沢城を中心にして北東の浅野川と南西の犀川、2本の川に挟まれています。

 金沢市民にとって、浅野川と犀川は心のどこかに、いつも流れている川です。
 現在の犀川は片町の繁華街に面して雑然とした感じですが、浅野川は趣のある穏やかな風情を残しています。


 私は少年時代を浅野川の近くで過ごしました。小学生、中学生の頃には浅野川は生活に身近な存在で、遊び場でもあり、故郷の川といえば今でも浅野川です。犀川にはあまりなじみがありません。

 浅野川大橋近くの川沿いに立派な二つの映画館(北国シネラマ会館と北国第一劇場)があって、昭和50年くらいだったか?に廃館されましたが、映画好きな高校生だった私にとっては、土曜日の放課後や休日にはフランチャイズ館のようなものでした。
 幼年期は小橋、少年期は常盤橋と鈴見橋の川原で水遊び。高校時代は、下校のバスを降りて大橋から天神橋までの、静かな川沿いの路を女の子と語らいながら歩くのが、心ときめかせる恋への憧れでした。
 浅野川の静かな流れと水の匂い、卯辰山の木々のさわやかな匂いは、私の青春時代の思い出になっています。
■データ
【 浅野川 】
 大野川水系の2級河川
 全長32.5 km。金沢市街地を流れ、湊(東蚊爪の近く)で大野川に合流する


 浅野川大橋
    全長 54.54 m
    幅員 16.50 m


【 犀川 】
 2級河川
 全長41.7 km。普正寺(金石の近く)で日本海に流れ込む。


 犀川大橋
    全長 62.31 m
    幅員 21.67〜23.66 m
 浅野川
 藩政期の浅野川大橋は金沢の正面玄関です。藩主が通る道筋である金沢城大手門から浅野川大橋にかけての町々、尾張町や新町(しんちょう)、殿町、今町は前田家御用の特権商人が住む藩経済の中心地でした。

 加賀前田家の参勤交代道中ルートは、金沢から越中(富山県)方向へ向かいます。金沢から越前(福井県)経由で東海道や中山道を使用するルートもありましたが、190回の参勤交代(江戸へ向かう参勤93回、金沢へ帰る交代が97回)で、最も多く使用されたのが越中ルートの181回だそうです。
 浅野川大橋を渡って藩主の行列が江戸へ向かい、江戸から帰還する。行列を見送り、出迎える多勢の人々で賑わったと想像される浅野川大橋界隈です。

 浅野川に藩政期から架かっていた橋は大橋と、彦三の小橋、大橋上流にある天神橋の三つ。中の橋は主計町に住む酒井という人が藩の許可をうけて個人的に架けた、約1m幅の橋で、渡し賃1文を取ったので「一文橋」と呼ばれたそうです。

 現在は兼六園側の石川門が金沢城の表門の扱いをうけていますが、本来の大手門(正門)は尾坂御門です。尾坂御門の正面には尾張町へ向かう直線道路。いまでも水がはられた大手堀の向かいには前田対馬守1万8千石の上屋敷。前田対馬守長種は利家の長女・幸のお婿さんですね。
 大手堀を左にして武蔵方向にしばらく行くと、尾崎神社がありますが、かつてはその場所に御算用場(藩の財政管理をする役所)がありました。
 尾坂御門の右手には津田玄蕃1万石の上屋敷があり、現在の大手町病院のあたりに御普請会所(御城の石垣や堀、道路など土木工事を担当する役所)があったそうです。



 藩政期の浅野川大橋

 三連アーチ型の浅野川大橋。大正11年に完成。
尾山神社神門のアーチ型と共通するものがあります。

 市内をゆったり流れる浅野川。(大橋から下流)
ゆるやかな流れは舟運に適していたのでしょう。
 浅野川をさかのぼって運ばれた物資が現在の彦三あたりで荷揚げされたようです。

 金沢城尾坂御門(大手門)から尾張町へ真っすぐ伸びる道路。
藩政期には左側に前田対馬守の上屋敷、右側に津田玄蕃の
上屋敷がありました。

 主計(かずえ)町茶屋街。浅野川大橋下流の料亭が
建ち並ぶ川沿いの町です。富田主計重家の屋敷があったことから
付けられた町名です。

 明治時代は大店の旦那衆の社交場として、対岸のひがし茶屋街と
共に栄えました。

 浅野川沿いの松並木。三代藩主前田利常の頃に
護岸のために植えられた松並木の名残といわれます。
泉鏡花の「滝の白糸碑」が近くにあります

 天神橋。大橋から上流に二つめの橋。橋を渡ると卯辰山の登り口になる。
泉鏡花の「義血侠血」の舞台で、この橋の上で白糸と欣弥が再会する。
 犀川
 金沢城を中心に見ると、表玄関である浅野川大橋とは反対側にあたる犀川大橋。藩政期に栄えた浅野川界隈に比べて、明治後は犀川方面が急速に発展したようです。

 明治31年、金沢に陸軍第九師団司令部が設置され、金沢城に歩兵第七連隊が置かれました。それとともに犀川を渡った野村(現在の野田・平和町)に歩兵第三十五連隊、騎兵第九連隊、野砲兵第九連隊が置かれ、その関係者の駐留人口は第七連隊の浅野川周辺よりも多かったそうです。
 軍人や、その家族のための旅館や飲食店、料亭、商店など、犀川の川筋に陸軍御用の町が形成されていったと思われます。
 金沢は第九師団の駐屯地として栄えたのですが、その歩兵第七連隊の兵隊さんたちは地元、石川県の出身者です。第三十五連隊はお隣の富山県の人たちで、郷土色の豊かな軍隊です。
 2006年に公開された映画「硫黄島からの手紙」(アメリカ)という映画では、驚くべきことに日本の兵隊が地元の商店で押し借り、ゆすりたかりをやったというふうに悪意をもって描いていました。
 日本の師団はその置かれた土地と密接なつながりがあるものであって、地元出身の兵隊が商店で強奪をはたらくなどと、そのような関係であるはずがないでしょう。


 大正12年に片町に「宮市百貨店」(のちの大和百貨店)が開業しました。広坂の県庁や市役所の位置も関係して、現在でも金沢を代表する香林坊・片町の繁華街が誕生しました。
 昭和5年、浅野川筋の武蔵ケ辻に「三越金沢支店」が開店。昭和10年に「丸越百貨店」となりました。
 片町の「大和百貨店」と武蔵の「丸越百貨店」、二つの百貨店が競うことによって、「片町・香林坊・広坂」と「武蔵・近江町・横安江町・尾張町」の二極構造の商業圏が誕生しました。



 藩政期の犀川大橋南詰。行き交う人びと。
 木戸が設けられ、番所がある。
(香林坊地下道に掲示されている複製写真を撮影)

 犀川大橋。
 大正13年完成の下路式単純曲弦ワーレントラス橋。
 軍隊の行軍や戦車の重量に耐えられる橋として設計されたそうです。

 下流から大橋を望む

 大橋を渡って、寺町へつづく蛤坂。
 かつてはこの道が幹線でしたが、野村の第三十五連隊との
連絡には狭く、現在の広小路交差点から寺町を経る大通りが
できたそうです。

 犀川大橋の上流。見えるのは桜橋。

 神明宮(金沢五社のひとつ)の樹齢1000年の大ケヤキ。
 犀川大橋からと広小路交差点への中間、右手。
 「お神明さん」と親しまれ、春、秋祭りのあぶり餅神事で
知られる神社です。

 松月寺(曹洞宗)の大桜(国指定天然記念物)。
 慶安元年(1648)、小松城に隠居していた前田利常が城内の
木を松月寺に移植したものとされる。藩主の行列もこの桜の下では
槍を伏せて通ったそうです。広小路交差点から寺町に向かった右手。