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1 公民館活動の充実 |
新公民館の建設 |
新館則の制定 |
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組織と運営 |
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公民館予算 |
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広報・視聴覚活動の充実 |
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サークル活動 |
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2 主な行事 |
各種学級・講座 |
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成人式 |
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文化祭 |
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盆踊り大会 |
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体育行事 |
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3 青少年の健全育成のために |
地区の取組み |
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育成部と少連 |
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グループ育成 |
第二次大戦後、地域における社会教育活動推進の拠点として新たに設置されることになった公民館は、高度経済成長によって実現された長寿社会の中でクローズアップされた生涯教育の場として、いっそう重要な役割を担うこととなった。
大徳公民館が、元大野町役場であった金沢市大徳出張所の建物を譲り受けて独立公民館となったのは昭和27年(1952)のことであった。昭和37年(1963)にはこの場所に大徳小学校の給食室が建てられることになったため、公民館はちょうど大徳農協事務所が新築・移転し旧来の建物が空いたため、これを改築し利用することになり、以後20年余にわたって住民に利用されてきた。しかし、建物の老朽化や大徳地区の急激な人口増大に見合う施設としては狭隘なこと、駐車場がないため車社会に対応できないことから、再び改築が望まれるようになった。
昭和57年(1982)5月、大徳地区各種団体代表者会議は次のような要望書を採択し、大徳地区連合町会長および公民館長名で金沢市への陳情を行った。翌58年(1983)11月には、大徳地区公民館建設期成同盟会が結成され、市への陳情活動がいっそう強められた。
大徳公民館建設に関する要望書
現在の大徳公民館は昭和38年9月に旧大徳農協の建物を現在地へ移転したものであり、建物自体は建築以来46年を経過した木造2階建で老朽化が甚だしく、2階ホールでの大集会が催される場合危険極まりない状態であります。また、昭和38年移築当時の校下世帯350戸であったが昭和56年現在約5000戸となり、地区各種団体・グループ等の集会・会議には室数が不足し、加えて公民館用の駐車スペースは全く無い実情であります。
一方、大徳地区は今後人口の増加が見込まれる現況であり、地区内各種団体・有力者により公民館建設の声が高くなってきました。
何卒実情ご理解下され大徳公民館建設にご高配賜りますようお願い申し上げます。
大徳連合町会長 村上治喜智
大徳公民館長 中村初男
昭和57年5月17日
度重なる運動の結果、大徳小学校の横の旧敷地が校舎改築などでふたたび空き地となっていたのを利用して新築移転が決定した。昭和62年(1987)7月28日起工、翌63年(1988)4月16日待望の竣工式を迎えることが出来た。総事業費1億9,951万5千円のうち、国庫補助2,900万円、県負担金500万円、金沢市負担金1億1,551万5千円、地元負担金は5千万円であった。
新公民館は大徳・木曳野両小学校通学区を対象区とし、名実共に大徳地区のセンターとして機能を有し、連合町会をはじめ地区内の諸団体の事務局がおかれている。建設に当たってはあくまでも大徳地区公民館と地区にこだわり、地元負担金拠出に当たっても問題となった。しかし市当局の指導により例外は認められず公式名称は大徳公民館となった。
新公民館は市内公民館に前例のない和風瓦ぶき2階建。設計に当たっては地区住民から寄せられたアンケート等の意見を参考にし、深更に及ぶ度重なる協議により耐久性と使い易さを念頭に案を検討した。二校下分の予算で、市内1,2の大きさで、特徴を列挙すれば、
そのほか調理室、待合室、会議室など各室の独立性を保ちながら、その有機的なつながりが考慮されている。特に広瀬昇市館長の完成までの細かな気配りは大変なものであった。なお新公民館は昭和63年の県建築デザイン賞に輝いている。
昭和63年(1988)の竣工にあわせ、それにあった新館則の検討が求められた。館則は昭和27年発足時の前時代的なものを各公民館が踏襲して来たが、時代に即応出来るものではなかった。新しい生涯学習の場として、地域の文化活動のキーステーションとしてふさわしい条項が検討された。
金沢市大徳公民館館則
(名称および対象地区)
第一条
本公民館は、金沢市大徳公民館(以下、「本館」という)と称し、大徳小学校通学区、木曳野小学校通学区を対象区域とし、住所を金沢市畝田西1丁目201番地におく。
(目的)
第二条
本館の地域住民みんなの自主的な学習文化活動をうながし、支え助長することを目的とし、その活動のよりどころ(拠点)となるものである。
(活動)
第三条
前条の目的にのっとり、みんなが集い・学び・結び、地域と地域住民それぞれの生活文化を高め相互扶助となるよう、おおむね次の活動を行う。
(活動部会)
第四条
本館には、前条の活動を行うため次の部会をおき、部長、副部長および若干名の部員をおく。
(各部の構成)
第五条
各部の構成は次のとおりとする。
(公民館委員)
第六条
金沢市公民館設置条例第九条および第十条により公民館委員をおく。
(職員、職員の勤務・任期)
第七条
本館に次の役員をおく。
(職員の任務)
第八条
役職員の任務は次のとおりとする。
(役職員の選出)
第九条
役職員の任命及び推薦の方法は、次のとおりとする。
(会議)
第十条
会議は、つぎのとおりとする。
(開館)
第十一条
本館の開館時間は午前9時から午後5時までとする。ただし事情によって伸縮することができる。
本館の定期休館日はつぎのとおりとし、臨時に休館するときはその都度掲示しなければならない。
日曜日、国民の祝日、年末年始の6日間(12月29日から1月3日まで)
第十二条
本館を使用するときは、あらかじめ館長の承認を受けなければならない。
使用についての規則は、別に定める。
(会計年度および経費)
第十三条
会計年度は、毎年4月1日に始まり翌年3月31日に終る。
第十四条
経費は、市運営委託料、負担金、寄付金、その他の収入をもってあてる。
(会計監査)
第十五条
監事3名を置き、本館の会計監査にあたる。
(館則の変更)
第十六条
この館則を変更するときは運営審議会の承認を要する。
第十七条
この館則に関し必要な事項は別に定める。
(付則)
この館則は、昭和63年4月1日から施行する。
(昭和63年2月29日)
公民館運営の中心になっているのは館長、副館長(2)、会計、主事、事務員以下の役職員であるが、毎年の事業計画の決定にあたっては地域の各種団体長などから構成される運営審議会の意見を聞いて行われているが、新公民館建設を機に各町町会長がその委員に加わった。
公民館の各部は従来部長・副部長のみで、手足となる部員を欠いていたが、昭和50年代に入ってまず体育部、次いで文化部で組織の強化充実を図るため各町より部員を選出してこれを組み込み、積極的に行事に取り組んだ。
新公民館建設を機会に新館則により、総務はじめ各部に各町から部員を選出し組織したが、これをすべて公民館委員として委嘱した。このような例は他にない(従来は各町町会長と婦人部長が公民館委員をつとめた)。これにより館の主要行事の成人式(総務部)・文化祭(文化部)・体育行事(体育部)はじめ部行事はより一層活発となった。
昭和27年 | 文化部 | 図書部 | 産業部 | 生活科学部 | 体育部 | 視聴覚教育部 | ||||
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昭和45年 | 総務部 | 文化部 | 体育部 | 婦人部 | 少連部 | 視聴覚部 | ||||
平成4年 | 総務部 | 文化部 | 教養部 | 体育レクリエーション部 | 広報・広聴部 | 視聴覚部 | 青少年育成部 | 青壮年部 | 婦人部 | 高齢者部 |
現在ある部会のうち、婦人部は大徳地区婦人会を兼ね、高齢者部は長い活動歴をもつ健寿会・四ツ葉会がそのメンバーとなっている。青壮年部は農協青壮年部を核とし、青少年育成部は、大徳・木曳野校下少年連盟の指導者と共通でそれぞれ独自の組織ではあるが相互に協力しあっている。
公民館運営のための予算は平成5年度(1993)の場合別表のようになっている。主事・事務職員など常勤職員の給与や施設整備費、成人式など委託事業に要する費用は金沢市から委託料として交付される。それらは年間経費のほぼ3分の2になるが、残りは各町会の負担金や公民館の使用料などによってまかなわれている。その比率はここ20年ぐらいの間大きな変化はない。
項目 | 金額(千円) |
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市委託料 | 運営委託料 | 8,817 |
施設整備委託料 | 1,030 | |
事業委託費 | 310 | |
計 | 10,157 |
その他収入 | 町会負担金 | 2,300 |
使用料 | 2,085 | |
事業収入 | 569 | |
寄付金 | 130 | |
雑収入 | 184 | |
計 | 5,268 |
繰越金 | 183 |
他会計からの繰り入れ | 515 |
合計 | 16,123 |
項目 | 金額(千円) |
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人件費 | 4,891 |
管理費 | 6,616 |
事業費 | 少年教育費 | 620 |
婦人教育費 | 350 | |
成人教育費 | 560 | |
高齢者教育費 | 80 | |
体育レクリエーション費 | 664 | |
視聴覚費 | 200 | |
文化祭費 | 400 | |
広報活動費 | 695 | |
成人式費 | 640 | |
役員研修費 | 280 | |
計 | 4,489 |
予備費 | 127 |
合計 | 16,123 |
昭和26年(1951)大徳青年団の機関紙「沃野」が創刊され第2号まで発刊されたあと、同年10月からは新たに振興会なども参加し農協や民生協会などの補助をうけて、地域の広報紙として「大徳情報」が発刊されることになった。翌27年(1952)4月、大徳公民館が発足すると「大徳情報」は公民館の広報紙として引き継がれた。一時期ガリ版刷りのこともあったが、ほぼ2回各4ページで発刊され続けた。昭和56年(1981)から広報活動の重要性に対する認識が深まり、新たに広報部を設けて充実を図ってきた。昭和63年(1988)6月発行の第72号からは「館報・だいとく」と改題するとともに年3回と発刊回数を増やした。平成4年(1992)からはさらに年4回発行へと充実させた。
広報部とならんで公民館が主催する行事などを記録するかたわら、大徳地区の伝統的な風俗や遺跡・行事などを映像として残そうと大きな努力を続けてきたのが視聴覚部である。昭和46年(1971)8月末で廃止された金石電車の映像をまとめたスライド「走り続けた73年‐金石電車‐」を皮切りに、以後毎年1作ずつまとめあげ貴重な記録を残し続けている。それらの作品は毎年開催される金沢市視聴覚教育研究集会でも発表されて高い評価を受け、多くの賞を与えられている。平成3年(1991)以後はさらにビデオによる記録も行われている。
公民館活動の中心は事項に述べるようなさまざまの行事の企画運営にあるが、同時に地域の人々の多様な要望にこたえられるサークル活動に対して施設を提供することである。営利活動ではない、地域の人々の趣味や技能習得に役立つ講習会やサークル活動に別表のような利用料金をきめて便宜を提供している。
旧公民館時代には部屋数も少なく教室もあまり開かれなかったが、公民館改築により活動を活発とするため、全世帯からアンケートをとり、希望教室の声をまとめ、多くの教室が開かれた。平成5年度(1993)における公民館利用の教室・サークルなどは25種の多さに達している。毎年文化祭にはその成果を発表している。
部屋名 |
午前 9:00〜12:00 |
午後 13:00〜18:00 |
夜 18:00〜22:00 |
---|---|---|---|
和室大 | 3,000円 | 3,500円 | 3,500円 |
和室小 | 1,800円 | 2,000円 | 2,000円 |
茶室+和室 | 3,000円 | 3,500円 | 3,500円 |
会議室 | 3,000円 | 3,500円 | 3,500円 |
学習室 | 1,600円 | 1,800円 | 1,800円 |
調理室 | 3,000円 | 3,500円 | 3,500円 |
ホール | 8,000円 | 10,000円 | 10,000円 |
公民館利用以外でも、スポーツ・手芸など同好の人々が集まったサークル活動は少なくない、地区の球技大会や文化祭に参加して日ごろの練習の成果を披露している。
昭和48年(1973)に公民館が主催した学級あるいは講座は成人大学(10回)、婦人学級(10回)、ママさん学級(5回)、PTA学級(5回)の計30回にのぼっている。このうち婦人学級は、現在では女性学級と名称を変更し、その内容は年度によって様々の変化をしながら校下の女性の啓発活動の中心的な位置を占めて現在まで継続している。また、その後にスタートしたママさん学級・PTA学級などは公民館の手を離れて、大徳・木曳野各校下のPTA学級や保育園保護者会へと主体は変わっていった。
一定の年齢層を対象とした青年セミナー、成人大学などのうち前者は大学進学率の上昇や車の普及にともなう若者の行動範囲のひろがりとともに青年団活動が停滞し、やがて消滅するとともに開催されなくなった。後者は高齢者学級、健寿大学として近年まで継続してきた。
以前とは別に、かつて青年団活動に加わった人たちが中心となって昭和57年(1982)に青壮年部を結成、青年教室、青壮年部学級などを開催し、地域や国内外の課題について講演、討論をし自らを高める活動にも取り組んできた。しかし、継続した形での開催はしだいになくなっていった。かわって昭和59年(1984)からは文化講演会、同61年(1986)からは「社会を明るくする運動」の一環としての講演会が毎年開催されるようになった。
さらに近年は郷土史ブームも手伝ってふるさとを見直そうと、「ふるさとトーク」と題する講座が継続している。これは地域に密着した情報を人々が求めていることの表れであり、生涯学習が叫ばれる時代にふさわしい事業となっている。
新年の公民館行事は1月15日の成人式に始まる。昭和23年(1948)に「国民の祝日に関する法律」で成人の日が定められて以来、成人式は地域をあげて若者の成長を祝う重要な行事として定着してきた。かつては新しい時代にふさわしく簡素にということで洋服姿が一般的であったが、国民生活の安定とともに女性の和服姿が普及し、現在では全国的な1月の風物詩となった。大徳地区の新成人は人口の膨張につれて増大し、昭和45年度(1970)に120名であったものが同58年度(1983)には206名、平成2年度(1990)には342名となった。このためながらく大徳農協2階ホールで行われてきた成人式も、公民館改築後は同ホール(2階)を使用していたが、翌3年度(1991)からは石川地場産業振興センター大ホールを利用して開催されるようになった。
昭和47年(1972)11月1日〜3日、第1回大徳校下文化祭が公民館を会場に開催された。当初は書道・絵画・写真・手芸・盆栽・菊鉢などを趣味とする人々が日ごろの作品を発表する機会をつくろうということで始まったが、やがて大徳農協などの協力を得て農産物・苗木・盆栽・手芸品を即売するようになった。昭和56年(1981)からは展示会や即売会のほかに、新築された大徳小学校体育館を借りて民謡・舞踊・子供バレーなど公民館で開かれている各種の教室活動の成果の発表会もあわせて行うことになり、地区の文化活動の中心として必要な行事となった。昭和60年(1985)にはより多くの町民が参加できる行事への脱皮をめざして「我町会芸能合戦」をとりいれたが、待望の公民館が新築された昭和63年(1988)からは、公民館2階ホールを使って初めて食堂も登場した。その後も「あの町、この町おもしろ探検」と銘打ったウォークラリー大会や、複製によるルーブル美術館名画展、音楽祭など多彩な催しを計画して名実ともに文化祭になっている。
長い間、日本のお盆行事の代表であった盆踊りも、大徳地区では会場の大徳小学校運動場が、生徒急増の影響でプレハブ校舎などが建てられ使用できなくなり中止を余儀なくされた。この間も各町会毎の盆踊り大会を行っているところもあったが、地区全体としての復活の要望もあり昭和56年(1981)には大徳小学校運動場において開催され、その後ふたたび中断された。昭和63年(1988)再度復活の機運が高まり7月31日、大徳小学校において実施され、以後毎年の恒例行事となった。西部商店街グループや中央農協大徳支所青壮年部の模擬店、仮想大会の登場など夏の夜の娯楽として多くの町民が楽しめるように工夫が凝らされている。
長年の間、地区の人々の交流の場でもあった大徳校下社会体育大会は大徳小学校の生徒急増による校舎増築などのため運動場が使用できなくなり、昭和46年(1971)には開催することができなかった。それでも同48年(1973)には消防学校運動場を借りて実施したが、以降ついに開かれなくなった。
かわって、バレーボール・ソフトボール大会が専光寺町の西川体育館、金石中学校、市立工業高校、金沢西高校、大徳小学校の体育館などと会場を転々としながら続けられ、昭和53年(1978)からは城西体育館で開催され現在にいたっている。
これとは別に、昭和46年(1971)9月、金石住還沿いの松村町にエバラボウルがオープンするとボーリング大会が開催されたが、まもなくブームが去り、ボーリング場も閉鎖されて中止となった。
平成2年(1990)からは冬季のスポーツとして綱引き大会が、同3年(1991)からは世の中のゴルフ熱を反映してグラウンドゴルフ大会が新たに登場した。
以上のような各種スポーツ大会の隆盛を背景に、城西体育館で練習を積み重ねたバレーボール、バドミントンなどの大徳チームが各種の市民スポーツ大会で好成績を収めるようになっている。
昭和57 | 金沢市民バレーボール大会 | 婦人の部 | 大徳チーム初優勝 |
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昭和59 | 石川県家庭婦人バレーボール大会 | 大徳チーム初優勝 | |
昭和62 | 第17回金沢市民バレーボール・リーグ | 混合の部 | 大徳公民館優勝 |
平成2 | 金沢市民バレーボール大会 | 総合成績第3位 | 大徳:一般男子(優勝):青年男子(3位):親子(3位) |
平成3 | 金沢市民バレーボール大会 | 総合成績第2位 | 大徳:一般男子(優勝):青年男子(優勝) |
平成4 | 金沢市民バレーボール大会 | 総合成績第1位 | 大徳:一般男子(3位):婦人(3位):青年男子(優勝) |
昭和63 | 金沢市民バドミントン大会 | 女子優勝 | 大徳チーム |
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平成1 | 金沢市民バドミントン大会 | 女子優勝 | 大徳チーム |
平成2 | 金沢市民バドミントン大会 | 女子優勝 | 大徳チーム |
青少年の健全な育成を図る上で学校・家庭とならんで地域社会の果たす役割は極めて大きいといわなければならない。とりわけ経済の高度成長は物質的な豊かさをもたらした反面、さまざまな情報の氾濫は欲望を刺激し、往々にして子供達の自己抑制力を失わせているし、激しい人々の移動は近所同士の付き合いも希薄にし地域社会のもっていた子どもへの教育力を低下させ、非行が大きな社会問題となった。
大徳地区でもPTAをはじめとして連合町会、婦人会その他が協力して非行防止と健全な環境づくりに取り組んできた。藤江町に出来たビニ本店の撤去、畝田町に予定されていたモーテルの建設中止などもそれらの活動の成果であった。平成元年(1989)には連合町会が中心となって大徳防犯委員会を発足させ、非行防止パトロールなども実施している。
また、共稼ぎ家庭の増大につれて、放課後のかぎっ子対策が地域の大きな課題となった。このため松村第二町会の会館を利用して昭和54年(1979)以降大徳学童クラブを実施していたが、平成5年(1993)からは大徳小学校を利用して大徳児童クラブへと発展した。また、桂町には、金沢市の「老人いこいの家」と併設して、横山勇作が提供した施設で木曳野学童クラブが設けられている。
畝田児童館もかぎっ子に限らず周辺地域の子どもたちが自由に利用できる施設として貴重な存在である。
大徳公民館においても早くから少年育成部が設けられさまざまの取り組みがなされてきた。育成部の主たる目的は校下毎に設けられている少年連盟(各町の子ども会の集まり)の活動を指導・援助することである。それぞれの子ども会には町会毎に育成委員が指導にあたっている。校下少連の連合体は金沢市少年連盟協議会である。
校下少連では市少連からの委託事業として、毎年6月に行われる百万石祭りの提灯行列への参加や夏休み中の球技大会(ソフトボール・ドッジボール)、毎年2月に中学2年生を対象に実施される立志式、ホタルの棲息調査などを行っている。またこれらの行事に参加しているときに発生する事故に対処するために昭和51年(1976)からは市少連がつくった安全加入手続きも重要な事業の一つである。
校下少連の独自活動も盛んである。近年では綱引き大会、藤江交差点のゴミ拾いなど町の美化をめざすクリーンキャンペーン、老人ホームを訪問して老人の話し相手となったり、清掃・手伝いをするボランティア活動、ユニセフへの募金活動、公民館の文化祭に合わせてチャリティバザーを催し、その収益金は福祉施設へ寄付するなどの活動も行われている。
これらの活動を支える各町子ども会代表の研修合宿も毎年11月末に金沢市少年自然の家などを利用して行われている。
東京オリンピック以来の全国的なスポーツ熱の広がりと、非行化防止の手だてとしての課外活動重視の傾向は地域におけるスポーツ少年団などの育成の機運を強めた。
大徳地区でもサッカー・野球・水泳・サイクリングなどのクラブが相次いで結成され、多くの子どもたちが参加した。
大徳サッカースポーツ少年団が結成されたのは昭和49年(1974)、当時大徳小学校教諭であった木本重史・山崎貞明の指導と翌年結成された育友会(会長東川昭)の援助によって順調に成長し、昭和50年(1975)頃には県下でも最強のチームの一つにまで数えられるに至った。昭和55年(1980)には香港へ、翌年には韓国への遠征を行うなど国際親善の一翼をも担った。クラブが試合に勝つことだけを目的にするのではなく、人間形成の場として、また家庭との一体のものとしての姿勢を保とうとしていることは「ぼくの誓い」や「保護者の確認」からうかがうことができる。
「ぼくの誓い」 ぼくは 次のことについて 実行することを 誓います 1、ぼくは サッカーや そのほかの団活動に まじめに参加しよいスポーツマンになります。 2、ぼくは 石川県・サッカースポーツ網領を守ります。 1)ぼくは スポーツを通じて 健康な体と心をやしないます。(健康) 2)ぼくは 進んで奉仕し 他の人々をたすけます。(奉仕) 3)ぼくは スポーツの中で 友情と協力を学びます。(友情) 4)ぼくは 規律を守り 良い習慣を身につけます。(規律) 5)ぼくは 自分のことは 自分でします。(自立) 6)ぼくは 限りなくのびる自分の力を創るために 一生懸命勉強します。(勉学)
「保護者の確認」 1、私たちは サッカースポーツ少年団の活動が 学校教育や家庭教育と同じく 人間形成の上になくてはならない大切な社会教育活動であることを認めます。 2、私たちは 保護者としてだけではなく 育成会員として団発展のため積極的に協力(奉仕)いたします。 3、私たちは 総会には 万障くりあわせて出席するよう努力します。 4、私たちは 常に団員の活動に関心を持ち 必要なときは 援助の手をさしのべます。 5、私たちは 団活動中における全ての障害 疾病については全責任を負います。
大徳学童少年野球クラブが発足したのは昭和53年(1978)であったが、翌54年(1979)には早くも石川県選抜大会で準優勝し、その活躍ぶりが注目された。昭和62年(1987)には県大会で念願の優勝をはたし、平成2年(1990)には県大会では準優勝で終わったものの、和歌山県で行われた日米親善全国少年野球大会(新潮大会)では見事に全国制覇を遂げた。直後、このチーム育成に情熱を傾けた北森卯一郎が死去。その遺影を抱いてアメリカ・サンフランシスコ郊外のヘイワードプレイ球場の親善大会に出場した。野球クラブも試合に勝つことだけでなく教育活動の一環との意識は強く昭和55年(1980)以来、2〜3ヶ月毎に「育成会だより」を発行し、家庭との連携に配慮している。
昭和54 | 第1回石川県選抜学童野球選手権大会 | 準優勝 |
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昭和55 | 金沢市夏季大会 | 準優勝 |
金沢市秋季大会 | 準優勝 | |
第2回石川県選抜学童野球選手権大会 | 3位 | |
昭和57 | 金沢市春季大会 | 優勝 |
昭和60 | 金沢市春季大会 | 準優勝 |
金沢市秋季大会 | 準優勝 | |
第5回全国日本学童軟式野球石川県大会 | 準優勝 | |
昭和62 | 金沢市夏季大会 | 準優勝 |
第9回石川県選抜学童野球選手権大会 | 準優勝 | |
昭和63 | 金沢市春季大会 | 優勝 |
第8回全日本学童軟式野球石川県大会 | 準優勝 | |
平成1 | 金沢市春季大会 | 優勝 |
第9回全日本学童軟式野球石川県大会 (全国大会出場) |
優勝 | |
平成2 | 金沢市春季大会 | 優勝 |
金沢市第10回全日本学童軟式石川県大会 | 準優勝 | |
第15回石川県選手学童野球選手権大会 | 優勝 | |
第1回日米親善黒潮大会 (全国大会) |
優勝 |
大徳おはようサイクリングクラブが発足したのは昭和45年(1970)のことである。すでに旧市街の武蔵町でスポーツサイクリング少年団結成の体験を持つ自転車店経営酒栄作次郎は松村町へ転居したあと、周辺の子どもたちや住民によびかけ、毎日曜日の朝約2時間、金沢市周辺の産業・文化・史跡めぐりを兼ねた健康づくりのためのサイクリングを開始した。以後、20年以上にわたって活動を続けているが、この間昭和50年(1975)からは公民館の支援もうけ、多くの子どもたちが参加した。昭和53年(1978)には石川県体育協会30周年記念式典で優良団体として表彰されたほか、同62年(1987)には日本サイクリング協会からもサイクリングの普及と発展につとめたとして顕彰されている。