長家家譜 (連龍3)



その内乱の弊に乗じ、且つは信長出軍緩延たるにより、成功を急ぎ手勢を以て能州へ出兵し企てこれあり。
 神保氏張ら出軍首途を祝し、乗馬あるいは軍器を進上す。
同年冬兵士を率い能州敷浪へ出張、本泉寺(敷浪にある一向宗)に陣をおく。
 時に土肥但馬使節を以て、七尾出勢これあるにおいては同志すべしの由なり。
 しかりといえども疑いこれあり許容せず。
 これにより但馬家臣堀江某の子堀江三丞をして質たらしめ、且つ但馬陣所へ参来す。
 連龍対謁これあり。
 但馬情意を述べ梱厚を尽くす。
 これにより異心なき事を察し、後日人質を返す。
 時に温井・三宅は出勢に驚き、所々砦を構え防守に備える。
 本郷鉢伏山砦、八代越中(一説。田代備中)・温井筑前。(紹春の甥)
 金丸佛性山(近代は寺家という)砦、八代肥後・古浦屋新助。
 東馬場砦、山荘監物。
 小竹砦、成田氏・武安氏(一説に国安)らこれを守る。
ここにおいて越年なり。
 正月此木治部・中村市右衛門・小林図書・長壱岐・長次郎左衛門・神保出羽・伊久留了意・小原十郎左衛門・木島
 小助・平井孫助ら、天正六年以来近江・越前及び能越において、命により大節の使いなど相勤める。
 その功労を賞し各感書を賜う。
その後暫く越中へ御越し。
同八年三月九日重ねて能州福水に出勢、
 この時真言宗丹治山福水寺に仮に陣す。
 福水寺は一作に円念坊。
朝日山を取り立て居城たり。
 時に能登郡小竹村農民霊光(関惣左衛門従来より相知の者なり)命を承りて間者となり、七尾へ往き返し敵方の体勢を
 窺いこれを告げる。
 敵これを察し霊光を捕らえ難儀に及ぶ事ありといえども、口才を以てついにその難を逃れる。
 中居八郎左衛門・穴水榮斎五郎兵衛・熊木浄念(長三河末子。近代に蓮称寺と号す一向宗。)・大野八郎左衛門・笠師
 番頭(芳春)・河崎徳昌寺(長浦徳昌寺二男)ら、天正六年以来福水出勢の節に至るまで志を通ず。
同年閏三月十四日軍事を柴田勝家・佐久間盛政に相議すべきため尾山へ出で候ところ、盛政木越の一揆一向宗光徳寺
退治のため発向。
則ち盛政と一緒に木越へ赴き、大浦口より搦め手に押し詰める。
不意の事ゆえ御手の士卒大半素肌にて俄攻めにせむ。
故に後面最前に攻め敗り、光徳寺戦死しついに落居す。
家人各武功を顕わす。
既にして福水へ帰陣。
 この時玄蕃武具を長持ちに入れ常体にて出立、何方へと尋ね有りけれども包みて言わず。
 強いて御尋ねのところ、木越の一揆光徳寺を討つべくため罷し向かうのよしにつき、幸いに候間加勢申すべき旨仰せ
 入れければ、玄蕃に達して止められるといえども、是非とこれ有り搦め手大浦口より押し寄せ、前面の寄せ手色めく
 ところを後より責め入るところ、観光坊進みて加藤将監と槍を合わせ、小原十郎左衛門(この時勝家の方へ使いに
 遣わし越前にこれ有り、玄蕃方より勝家方へ木越の一揆討つべき由案内これあるを聞き、金沢へ来たり申すところ、
 柳橋にて連龍玄蕃と仰せ合わせ加勢につきそのまま素肌にて御供申す。)小竹十郎と槍を合わせ討ち死に。
 上野甚七郎銃丸に中たり死す。
 浦野孫右衛門よく戦い傷を被る。
 守兵防戦はなはだしといえども、連龍しきりに兵士を励まし、各奮戦武力を尽くし後面を責め破り城内に乱入す。
 これにより大手共に破れ、光徳寺与党の兵士ことごとく死亡す。
 盛政大いに連龍の軍労を謝す。
 勝家この事を聞き軍功をねぎらい、種々(絹染め。皮。乾し魚等。)を贈進、その旨盛政へ演述し、盛政家人赤塚
 九郎兵衛福水に持参す。
同月温井筑前・八代越中ら福水を伺う。
連龍一戦に敵兵を討ち取り、追撃して本郷鉢伏山砦を乗っ取り勝利を得、陣をここに居らる。
 かねて白瀬出に塞を構え、鈴木因幡・田辺七郎左衛門ら指し置きこれを守る。
 時に本郷の番兵襲い至るを見て、鈴木因幡兵を発して山上より進み討つ。
 連龍福水より出勢一戦に及ぶ。
 家人ら勇力を励まし討ち破り、敵兵敗走す。
 御勢競い進みて追撃。
 時に敵兵開戦して御方少しく却く。
 上野孫十郎(のち隼人と号す)・永江善助ら四人小返しをしてよく戦う。
 鈴木因幡松枝を折りて采幣に比し兵士を励まし下知を加え、御手の兵士戦力を尽くし敵兵また散走す。
 連龍旗を進め、敵敗乱の機に乗じ直ちに鉢伏山を乗っ取り砦陥る。
 温井・八代ら金丸の砦に逃げ去る。
 ここにおいて鉢伏山に陣を居き、七尾を攻める兵略を廻す。
これらの趣委曲信長へ言上に及ぶ。 
その後温井景隆、三宅長盛、三宅左兵衛をして連龍に附いて罪を信長に謝し、七尾城を献じ寛宥の儀を願望す。
ここにおいて連龍私に指し置き難く則ちその旨言上。
しかりといえども父兄の仇たるによりて、強いて誅戮を行い鬱憤を散ずべくの段分けて言上に及ぶ。
 またその門葉温井九郎右衛門・三宅若狭を以て、平井伊賀守によりて音物を送り、柴田勝家・菅屋長頼に通じて、
 積罪を購うべく謀計をめぐらす。
同五年五月金丸の敵兵八代肥後・同越中ら菱分へ出兵す。
則ち勢を進め、迫り合い数刻に及ぶといえども勝負を決せず、暮れに及びて互いに兵を納む。
 御方林三郎右衛門(一説に三郎左衛門)討ち死に。
 長盛の家士半田利兵衛これを討ち取る。
さてまたさきに言上の旨趣によりて、信長より書を賜る。        
同年六月九日金丸の敵八代肥後・同越中ら本郷の砦を攻めるべきため、一手は陸路を経一手は金丸の湖水に兵船を
浮かべ、両方より本郷へ押し向かう。
連龍菱分へ出張、一戦敵兵敗れこれを追撃、八代肥後・同越中・古浦屋新助をはじめ、屈強の者ども雑兵ともに首百
数十級討ち取る。
なお兵を進めて金丸まで追討し、佛性山の砦を乗っ取る。
それより東馬場・小竹の両砦へ押し詰める。
守将山荘監物・成田武安らことごとく敗走。
即時に両砦を乗っ取り、勝利を得福水へ帰陣す。
 敵兵六百計二手に分かれ、一手は金丸の湖水を経て菱分に進み、一手は陸路より進み、鼠子を経て本郷を襲わんとす。
 これにより鉢伏山を発し菱分表へ出馬、鈴木因幡足軽を率い四柳辺に進み、敵陸路より来るを見て因幡下知して軍列
 を整え備えを設ける。
 さて村井左京をして斥候に出す。
 高畠太郎左衛門近郷の土民らを催し七八十人を率し来て、左京に逢い敵出兵の由を聞く。
 農民たりといえども御味方仕るべきため参向す。
 進退御下知に任せるべきの旨これを達す。
 因幡その忠志を感じ下知して傍らの峯頭に登らせ、旗をなびかし多勢のよそおいをなし見せ勢にこれを用いる。
 既にして敵船菱分へ押し上るときに、御手の勇士ら一戦に進む。
 また陸路の敵兵鈴木因幡相対して足軽を進め鉄砲をしきりに放す。
 敵その急なるを見て菱分方へひらき両手相並びて進む。
 連龍兵士を励まし各武勇を争い競い進む。
 景隆の足軽将片岡新八郎一陣に進み、岡部名兵衛先登に進み新八郎と槍を合わせ、勝負を決せず片岡引き退く。
 関惣左衛門(乱星の羽織を着す)・梶原左馬(のち堀内氏と改める。指物紅の三本シナイ、甲の立物梶葉なり。)
 前後を争い槍を入れ、浦野孫右衛門・宮川清右衛門・永江善助・木島小助・池上甚助ら争い進み力戦す。
 梶原左馬温井足軽将栗林三郎左衛門を討ち取り、手傷を被る。
 同足軽将伊藤弥九郎永江善助と戦い、永江傷を被る。
 六島弥七火砲を放す、伊藤砲に当たりて馬より落ち、荻野弥惣兵衛その首を取る。
 高瀬大学(腰指巴紋)深く進みて戦い、古浦屋新助に討ち取らる。
 そのほか木島弥右衛門・林吉之丞・合田弥左衛門ら戦死。(吉之丞は半田小兵衛討ち取る)
 ついに敵兵利を失い敗走。
 御方争い進みてこれを追撃。
 敵所々において回戦せしが、御方奮撃してこれを敗る。
 池上甚助鋒田川西岸において片岡新八郎を討ち取る。
 横田次郎助(のち久右衛門。剃髪し蓮清と号す。)大町辺において伊藤勘右衛門を討ち取る。
 長添川西鰭において鹿島路九兵衛八代肥後と相戦い勝負を決せず、ついに由土伊勢肥後を討ち取る。
 田辺七郎左衛門金丸黒藪(住吉堂の東)の辺において古浦屋新助を討ち取る。
 阿岸掃部この辺において突戦し傷を被る。
 そのほか御方石黒次右衛門(傷を被る)ら数輩敵首を捕り、八代越中ら数十人討ち死に。
 御方追撃して直ちに佛性山砦を乗っ取り、関惣左衛門城内に入り火を放ち、敗軍の残兵らあまねし擾乱逃走す。
 なお兵を東馬場・小竹へ進めて、両砦を焼き払う。
 守将山荘・成田・武安防ぐこと能わず砦を棄て逃散す。
 すでにして旗を回す。
 鈴木因幡諫めて、本郷へ帰陣なく金丸より一宮を経て、その夜深更に及び福水へ馬を入れる。
 小竹へ進むところの一手は因幡下知して高畠を経て福水へ引き取るを令す。
 時に温井・三宅菱分敗走、金丸の危急を聞きて後援のため三宅長盛二千余の軍兵を率し二宮まで出張す。
 既に金丸砦落去し東馬場・小竹両塞明けて退くの由を聞き、兵を本郷に向けて鉢伏山砦を攻めんととす。
 しかるところ鈴木因幡厳命を以て、先達て本郷の砦を自焼し、守兵をまとめ引き取り、飯山に至り連龍の着陣を
 迎え、ともに福水に兵を納む。
 これにより三宅手を空しく七尾に帰す。
同月二十八日七尾の敵兵温井三左衛門・三宅主計兵将として金丸へ発向す。
連龍兵士を出してこれを迎撃、敵敗走して七尾へ退く。
 敵出兵して金丸寺家を取り挫かんとす。
 この段先達て仁岸与三右衛門(七尾没落已後温井に属す。のち家人となる。)南志見木工(のち剃髪し南斎と号す)
 方へ通じ聴に達す。
 鈴木因幡兵将として勢を金丸へ出し、敵の来るを待ち不意に起ちてこれを討つ。
 七尾勢一戦に及ばずことごとく散走す。
 これを追撃杉谷潜木の辺において阿岸掃部敵兵を討ち取り、七尾勢狼狽して逃げ去る。
同年温井下総穴水に城を構え立て籠もる。
連龍馳せ向かい攻め落とす。
下総敗走して越後へ引き退く。温井・三宅頃年勝利を失い、連龍の武威に怖れる。
三宅長盛ひそかに江州安土に赴き、七尾城を献じ前非を悔いて降伏し、赦宥の儀を請う。
信長一旦寛宥これあり、能国監察使のため徳山五兵衛則秀を能州へ指し下す。
則ち連龍会謁す。
徳山氏信長厳命の趣、温井・三宅一旦高免これあり、然れば宿憤をのこさず下知を待つべき旨これを述べる。
さて能国の事々これを聞き糺し、使者をして委曲安土へ言上す。
連龍より長壱岐を指し置き、條々仰せ上げる。
且つまた温井・三宅謀言を以て積悪を購い、しばらく寛宥を蒙るといえども、彼ら能国において御敵の棟梁たり。
そのうえ長家の大讐なり。
速やかに厳命を受け彼ら誅戮本意達すべきの旨言上あり。
ここにおいて信長度々の軍功を感賞これあり、同九月一日書を以て能州鹿島半郡を賜る。
長壱岐右書を持参、同月六日福水に帰陣。
信長上意の趣聴に達す。
その趣は今般鹿島郡川西半郡領掌の儀、菱脇において大利を得、金丸等の敵城を攻め、軍功比類なく思し召し感ずる
ところなり。
然れば一所懸命の地となるにより、まずこの分これを下し置く。
長家始祖信連以て降る伝来の郡県等、重ねて加恩あるべし。
且つまた奸人らの儀、畢竟下知に随うべき旨なり。
 時に領地境界を定め、徳山氏数輩を出して二ノ宮川橋の東西においてその儀あり。
 関惣左衛門・宮川清右衛門出向きこれを領掌す。
これにより同月十一日御礼御使者のため、太田主計をして安土へ遣わし、太刀・馬はじめ酒肴を献上。
 同年冬徳山五兵衛安土へ帰る。
同九年二月越後国主上杉景勝越中小出の城へ出張。
信長の命により佐々内蔵助成政(越中を領す。城は富山。)・神保越中・連龍以下、小出へ発向ある。
同年四月菅屋九右衛門長頼・利家・福富兵左衛門行清・原彦次郎・信長の台命を奉じ能州に下る。
 菅屋氏七尾に居し、利家は菅原(一説に太田。あるいは千代町という。)に居館し、福富は富木にこれあり、原は
 府中に在す。
さて連龍参会。
長頼信長の厳命の趣これを伝え、各仮に州事を司らしむ。
 遊佐美作・同四郎右衛門罪責逃れがたき事を察し逐電す。
 温井・三宅は長頼を迎え、その礼過ぐるを厚し。
 七尾城を渡し去りて石動山に登る。
 ひとえに長頼に属し罪責を免れるべき事をはかり、門葉三宅左兵衛はじめ家人荒尾五郎兵衛を以て長頼に付け置き、
 旦夕梱実の馳走を尽くし長頼に親しみ深うす。
 これにより長頼温井・三宅を寛助す。
同年六月能州において遊佐美作・同四郎右衛門隠在のところ、連龍兵士を指し向けことごとくこれを召し捕り、遊佐
父子並びに逆謀の党七人七尾において刎首し、父子の仇を報ず。
 長頼しきりに遊佐父子を尋ね求む。
 連龍もとより探し求むのところ、鳳至郡櫛比庄二石村翁新五郎(狂言師)家に隠在す。
 則ち兵士を差し遣わし遊佐父子をはじめその徒を召し捕り、同六月二十七日遊佐美作続光・同四郎右衛門義房・その子
 十松(義房二男)・伊丹孫三郎(美作二男)・遊佐長門、はじめ片山三郎兵衛・奥田帯刀左衛門光宗(片山・奥田最前
 畠山家臣なり。七尾没落の後遊佐に属す。)以上七人、七尾池田の館において首を刎ねらる。
 義房三男鶴松、伊丹孫三郎の男子一人同じく殺害す。
右の趣安土へ言上。
信長より懇ろの書これを賜る。
この時信長菅屋九右衛門長頼に書を賜る。
長頼則ち連龍へこれを進達す。
温井備前・三宅備後その難を逃れ越後へ走る。
 温井・三宅一旦赦宥これありに似たりといえども、重畳の奸兇なれば同じく誅戮を加えるべきの旨、信長下知これあり。
 時に長頼ひそかに事を彼に泄らす。
 これにより温井・三宅七月十二日能州を去りて越後へ走る。
同年八月連龍復讐を遂げ多年の鬱憤を散じ、能州静謐の嘉儀言上。
御礼のため馬を献る。
これにより書を賜る。
同十年三月信長甲・信両国へ乱入、武田勝頼並びに嫡子信勝を撃ち亡ぼし、甲・信・駿・上の四州平均す。
よってこれを賀し献上物これあり。
これにより信長書を賜る。
同年五月上杉景勝の臣山本寺伊予守定長・黒金孫左衛門・芋川縫殿・吉江織部佑景資・同喜四郎・鈴木藤丸・亀田
小三郎(最前加州森本城主亀田隼人綱男となる。)・小松原右衛門輝重(最前越中五福城主)・原修理行重(最前加州
中條城主)ら、越中魚津の城に立て籠もるのところ、信長の命により利家・柴田修理亮勝家・同伊賀守勝豊・佐久間
玄蕃允盛政・佐々内蔵助成政・連龍以下、魚津の城を攻め囲む。      
家士功名戦死の者ども多し。
 この節山本与次郎・河合五郎右衛門・道祖木源左衛門・横田庄三郎(足軽)ら討ち死に。 
 山本園丞ら首を取る。
 鈴木因幡・同権兵衛首を取り、傷を被る。
 中村市右衛門・岩田帯刀ら傷を被り、山口三右衛門(本姓横田)ら善戦。
然るところ能州の虚を伺い、景勝家臣長与市入道景連、並びに島倉吉蔵・熊倉伊勢・計見与十郎ら能州奥郡へ乱入、棚木
の城に立て籠もるにつき、平治のため連龍一勢を以て魚津を発し、棚木に赴く。
利家より検使のため大井久兵衛を指し副えらる。
 上杉景勝魚津城の後援を欲すといえども、織田家の大軍に対揚の勢なきを憂い、ひそかに能国の虚を討たん事を謀る。
 ここに黒瀧の長与市景連入道、先年謙信没後能国内乱の砌、下知を待たずして越後に帰る事、人皆嘲弄するを恥じて、
 この度景勝に請うて我一勢を以て能州に働き入り、前恥を雪がむと欲す。
 景勝これを許す。
 これにより景連同志の兵士を卒し兵船を浮かべて能州へ発向し、棚木の古城に入り近郷の民屋を放火す。
 この事魚津に聞こえて織田家の諸将相議りして、連龍馳せ向かうべしの旨なり。
 これによりまず物見のため長壱岐・田屋六郎左衛門・荒木次郎右衛門・是清土佐・梶原小平次を遣わす。
 さて五月十三日御勢一千余人を率い、魚津を発す。
 利家より富田治部左右衛門景政を差し副えらる。
 景政は七尾城代前田五郎兵衛安勝とともに七尾に止まりて援軍に備う。
 連龍棚木に着陣。
 使者木寺彦右衛門(のち剃髪し宗的と号す)を以て城中に遣わし、同姓旧新の儀を以て和平を勧める。
 且つ同十九日阿岸与一右衛門・太田小尉・太田三郎次郎(太田五郎左衛門嫡子。のち小林平左衛門と号す。)に命じ、
 書幹をして同姓の好を以て、恩義接戦に忍ばざるの旨趣を告げしむ。
 入道死を決して兵に及ばざらん事を欲すといえども、計見与十郎・熊倉伊勢・島倉吉蔵ら、先年兵に能州を去りし事を
 恥じ、今般同じく死すべしの志を固くす。
 これにより入道の意に応ぜず、しきりに死戦を求む。
 ここにおいて入道止め得ず兵を調い一戦に及ぶ。
同月二十二日棚木城へ押し詰めらる。
然るところ城兵郭外へ働き出度々力戦を尽くし、与市入道はじめ島倉・熊倉・計見らことごとく戦死を遂げ、落城す。    
家臣高名死傷者多し。
 二十二日卯の刻連龍勢を進め、棚木城へ取り詰める。
 与市入道兵士を卒し大手郭外へ出苦戦す。
 連龍鈴木因幡をして搦め手へ指し向かわせ、奥村自休進みて一番首を取る。
 阿岸掃部大手先登、その場において討ち死に。
 城兵計見与十郎一陣に進む、国分尉右衛門相戦い計見を討ち取る。
 瀬見武助・国分市丞・徳田与九郎(一説に与六郎)・岡部平左衛門(岡部藤左衛門男)討ち死に。
 八田三助手傷を被る。
 永江善助熊倉伊勢と相戦い勝負を決せず、島倉・熊倉らついに戦死す。
 時に与市入道また搦め手に兵を出し大戦、因幡数町敗走す。
 しかりといえども御方回戦して再び城兵を撃破、城内へ乱入す。
 鈴木源内城中において与市入道と相戦い、入道太刀を取りて奮撃し源内傷を被り殆ど危うし。
 時に太田三郎次郎馳せ合い入道の首を取り、佩びるところの太刀(備前盛景作。一説に氏房作。丈木切りと号す。その
 所謂はある時盗人旅宿に入り丈木一挺負って出しを、丈木とともに大けさに切り断つ。これによってしかりという。)
 を分捕りす。
 ここにおいて城陥り、城兵或いは討たれあるいは生け捕らる。
この旨安土へ言上に及び候ところ、信長より書を賜る。
利家へも注進のところ、軍功感じになり、懇ろの返幹これを下す。
重ねて鈴木因幡及び某両使を以て、与一入道首並びに分捕りの太刀、且つ攻戦の始終委細利家に達す。
かさねて書をなし候。
重ねて魚津へ出陣のところ、同六月二日信長惟任日向守光秀反逆により、二条本能寺において生害の旨相聞こえ、
織田家の諸将越中を引き払い申すにつき、連龍も能州へ帰陣。
然るところ温井備前・三宅備後ら、信長の凶変により能州を窺い、石動山の衆徒を語らい能州荒山に出張。
これにより利家攻め遊ばし候。
佐久間盛政加勢に来たり荒山へ押し向かう。
 連龍従い案内者を副え、井田原・三方嵩・三尾口より荒山に攻め登る。
連龍は鋒池烏帽子石(一説に高原口)より攻め登り、戦力を励ます。    
荒山の敵兵温井備前・三宅備後をはじめ得田佐渡、温井の家士山荘藤兵衛・小南内匠・広瀬隼人、三宅の家士鳥倉内匠・
小山田甚五兵衛ら、並びに般若院・万蔵院・宝冠坊ことごとく戦死す。
利家勢を進め石動山を攻め、山上の敵兵遊佐孫太郎景光家人白井隼人・早田主膳ら、そのほか一山の衆徒防戦に刻を移す。
時に佐久間盛政害心を挟み、後より押し寄せ利家を併せ撃ちて、能州を奪うべく異心の体勢あるを連龍これを察し、
関吉右衛門(その先石動山の僧徒なり。故に案内をよく知る。)に命じて山内へ忍び入り、寺院に火を掛け焼き立てる。
連龍その勢いに乗じ火急に攻め登り、敵兵を撃ち破る。
利家旗を進め一時に勝利を得、討ち取る首千余級、石動山没落す。
 石動山衆徒には般若院・万蔵院・宝冠坊その棟梁たり。
 (この時利家連龍と謀を議す。連龍計るにて、七尾町人善徳の子石動山僧徒性寂坊をして、衆徒の心を変ぜしむる事
 あり。)
 六月二十五日(一説に二十三日)利家兵を進めて攻め、時に盛政の先陣種村三郎四郎なり。
 利家先陣土肥但馬なり。
 さて家人各戦力を励まし、鈴木因幡ら善戦、外山帯刀(のち富田と改める)ら首を取る。
 且つ帯刀温井家士半田与次郎と槍を合わせ傷を蒙る。
 加能両軍競い進み攻め戦う。
 温井・三宅兵士を励まし防戦すといえども、戦力尽き討ち死にす。
 盛政軍士吉川五右衛門、温井景隆を討ち取る。
 同軍士堀田新右衛門、三宅長盛を討ち取る。
 般若院(温井一族。享年三十八。)兵を卒し長刀を取りて戦い武勇を振るう。
 彼の一手において御方死者七十余人に到る。
 加州勢戦力を励ます。
 盛政の軍士桜井勘助般若院を槍にて突き、般若院武力既に尽きここにおいて戦死す。
 般若院の門弟荒中将、矢を放ち桜井を射倒しその場において自殺す。
 残党ことごとく石動山に逃走す。
 時に盛政討ち取るところの温井・三宅・般若院・山荘藤兵衛・筒井雅楽五人の首これを持たせ、家士野村勘兵衛使節と
 なり利家へこれを送る。
 利家礼謝浅からず、使者野村勘兵衛に刀一腰村正これを賜る。
 さて利家石動山を攻め、連龍同じく取り詰め、高畠織部定吉・前田又次郎・奥村助右衛門永福・小塚淡路ら争い進み押し
 上る。
 連龍兵士を励まし攻戦甚だし。
 前田又次郎家士山田勘右衛門(のち家人となる。木戸久兵衛と号す。)山上の先登たり。
 敵兵遊佐景光(俗称孫太郎。この時十六歳。頃年越後にあり。この役温井・三宅に同心し、越中氷見に来たり留まりて
 家人をしてこれに加勢す。こののち流浪す。連龍旧罪赦免。文禄三年家人となす。宇野蔵人と号す。)家人白井隼人・
 早田主膳ら、及び一山の衆徒防戦すといえども、保つこと能わず破潰す。
 時に連龍関吉右衛門をして寺院を放火せしむ。
 利家も数輩に命じて火をかけ焼き立てる。
 霊閣たちまち焦土となる。
 これにより盛政害心を変え異事なし。
 石動山の加勢として越後より一揆の大将浄定、その日未の下刻越中あふが島へ舟にて人数八千ばかり着岸すといえども
 、石動山の放火を見て、最早落去と悟り引き返す。
 利家勝利を全うし、討ち取る首千余級。
 温井・三宅・般若院・万蔵院・宝冠坊五人の首、芝峠にこれを梟す。
 残徒ことごとく逃走す。
 これにより石動山の寺領改めて収め仰せ付けられ候につき、半郡にこれある分、連龍支配あるべき旨に候得ども、たって
 辞退なり候ところ、新知となし下すの旨書幹を賜る。


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忽=たちまち。 嘸=さぞ。さぞかし。 某=それがし。 然=しかり等。 夫=それ等。 与=と等。 于=に等。 觸=ふれる等。 舊=旧。 雖然=しかりといえども。 凡=おしなべて。 累=しきり。 究=きわま等。 茲=ここ、これ等。 并=ならびに等。 扨=さて。 餘=のあと等。 易=かわる等。 而=…て等。 關=関。 亦=また等。 調=ととのえる等。 爰=ここに等。 者=こと等。 爾=しかり等。 彌=ますます、あまねし等。 袷=あわせ等。 黨=党。 烟=煙。 晝=昼。 攬=とる等。 竟=ついに等。 令=しむ、せしむ等。 竭=つきる等。 體=体。 為=なる等。 且=かつは等。 居=おく等。 假=仮。 却=しりぞく等。 嚮=さき等≒向。 靡=なびく。 粧=よそおい等。 購=あがなう。 鋒=さきて等。 鰭=魚のひれ。 已=すでに等。 深更=深夜=夜ふけ。 已後=以後等。 起=たつ等。 頃年=ちかごろの年≒近年。 竊=ひそか等。 旦夕=朝晩等。 従=…より等。 梱≒懇=ねんごろ等。 疊=畳。 泄=もらす等。 献=たてまつる等。 砌=みぎり。 佩=おびる等。 所謂=いわゆる。 云爾=ウンジ=上の文をまとめて文を結ぶことば。 仍=かさねて等。 變=変。 靈=霊。