長家家譜 (連龍4)
天正十一年三月秀吉柴田勝家矛盾に及び一戦の節、利家柴田加勢として江州柳瀬へ出張につき、連龍利家に随い出陣。
同四月二十一日同国賤ヶ岳において秀吉、柴田勝家・佐久間盛政と大戦。
柴田・佐久間敗軍に及ぶ。
これにより利家一軍危急の節、連龍後殿を勤め、秀吉の大軍を引き請け合戦数回に及び、連龍乗馬斃れ候につき敵の馬を
奪い取りこれに乗り、なお防戦の術を尽くす。
この節家士究竟の者三十四騎戦死、雑兵数多く討ち死にす。
利家乗馬も斃れる。
阿岸主水家人藍浦新助敵の馬を奪い取り指し上げる。
則ちこれを召し越前府中へ引き取る。
その後利家秀吉と和融これあり。
この時利家の先鋒土肥但馬なり。
連龍は能軍の魁将たり。
北軍ことごとく破潰す。
土肥但馬・横山半喜(山城守長知父)・富田与五郎・小塚淡路ら数十輩討ち死にす。
敵兵追撃すること甚だ急なり。
連龍後殿にこれあり、軍備を乱さず兵士を励まし下知尤も厳し。
家人各勇力を尽くし苦戦数回に及ぶ。
阿岸主計・村井左京・浦野孫右衛門・瀬見又八郎・中村市右衛門・太田小尉・山本三右衛門・同弟源丞・岩田新左衛門
・小林図書・長壱岐・長四郎左衛門(壱岐の子)・長市右衛門・神保出羽・同孫六郎・天野加賀・河野土佐・国分左馬
(市丞の甥)・同尉右衛門・境彦六郎・宮川清右衛門・同弟清兵衛・島兵部・三保中務・大田内蔵・道祖木庄右衛門
・岩間釆女・同加兵衛・八木与十郎・中野作丞・加治権内・萱津孫六郎・小林与次右衛門・横川弥十郎ら戦死す。
武部太郎左衛門ら傷を被る。
堀内権兵衛(梶原左馬弟。後年石黒大膳名跡となり、石黒大膳と改める。)敵兵数人と力戦首一つ討ち取り、手傷を
被る。
岡部式部・石黒主殿深く進みて敵陣に至り首討ち取り、敵兵にまぎれ危難を逃れ命を全うす。
連龍度々回戦乗馬疲斃。
四柳宗右衛門・鈴木源内・鹿島路九右衛門・六島炉七・関吉右衛門敵の乗馬を奪い取り連龍を乗せ、各よく守衛無難に
退きなり。
右斃れ候馬の鞍を吉右衛門取り来る、則ち吉右衛門にこれを下さる。
且つ各感書を賜る。
利家乗馬も斃れ候ところ、連龍家士阿岸主水家僕藍浦新助敵の馬を奪い取り乗せる。
後日この功によりて、新助へ利家より能州において知行五十石これを賜る。
既にして連龍恙なく越前府中に退去、利家とともに府中城を守る。
時に秀吉和宥これあり。
これより利家羽柴家へ帰服なり。
これにより勝家は敗卒を集め北庄城に籠もる。
さて秀吉大軍をひきい北庄城へ取り詰め、天満池に旗建てる。
堀久太郎秀政・中村孫平次一氏ら先驅たり。
この節秀吉下知を以て利家出軍。
連龍同じく随い、舟橋川へ出陣。
勝家戦力尽き、同二十四日自殺す。
柴田権六郎(勝家男)・佐久間盛政、越前山内において郷民らこれを生け捕る。
後日誅伏。
越前平均に属す。
同十二年三月秀吉織田信雄合戦の節、秀吉尾州表へ発向これあり。
利家加勢のため、連龍一千余人率い尾州表へ出陣、羽黒楽田に在陣。
濃州竹ヶ鼻城不破源六相守る。
秀吉これを攻めるにつき、秀吉に随い竹ヶ鼻へ出陣、軍功あり。
同年九月佐々成政利家に対し矛盾企て、その旗下神保安芸守氏張・土肥美作政重・狩野将監ら三千余の人数を卒し能州
へ押し入り、連龍居城徳丸山を伺う。
これにより同所東馬場窪田館へ兵士を指し向け武略を設け候ところ、敵兵引き退くにつき喰い留めこれを追撃、敵兵を
生け捕り、且つ首十級を討ち取る。
佐々成政下知を以て神保ら三千余の人数を卒し、九月六日(一説に十一日)荒山に出張す。
土肥・狩野ら井田・小竹に兵を進めて、先陣既に徳善川原犀首に至る。
氏張は二ノ宮に陣し、足軽将畑弥七郎(一説に甚五右衛門。飯坂源左衛門弟なり。)足軽五十人を率い、所々の民屋を
放火す。
連龍鈴木因幡を兵将となし、東馬場窪田館へ指し向けこれを支える。
鈴木源内・三宅善丞・小林平左衛門・阿岸与市右衛門・飯坂源左衛門・田辺七郎左右衛門・外山帯刀・長壱岐・長
市右衛門ら百五六十人、窪田が館を守り、石黒弥治右衛門(足軽将)・長谷川新左衛門(足軽将)足軽を率い押し続き
馳せ来て鉄砲を放せしむ。
因幡計策を以てその辺の田に水をよせ川の如くにしなし、須賀豊四郎をして水中に入れ容易に渉り難き躰に見せしむ。
時に神保方畑弥七郎を物見に出す。
味方より飯坂源左衛門出て道にて行き逢いたり。
矛盾の事にて兄弟ながら年経ての対面なれば往事を談し合い、さて飯坂言いけるは、この館の辺川深くして渡りがたく
容易に攻め難かるべし。
もし進み責めるにおいては兼ねて必勝の設けあり。
そのうえ七尾の諸将援兵の備えあり。
すこぶる越兵の難事たるを告げて畑を欺く。
畑これを信じ帰りて氏張に達す。
これにより氏張兵を指揮し軍を回す。
時に連龍徳丸山を発し中途まで兵を進め、癩かはな口へ小林平左衛門足軽を率いすすみ出、地蔵堂口へ長壱岐小走組を
率い馳せ向かう。
三宅善丞・阿岸与市右衛門これに随う。
安阿川原に鈴木源内足軽を率い馳せ合い鉄砲を放つ。
越中勢畑の口上によりて開戦することなく速やかに引きとる。
御方追撃して徳善川原に至る。
外山帯刀敵兵と組みて生け捕りて深傷を被る。
鈴木源内濁川辺において首二これを討ち取る。
池上甚助首一討ち取る。
酒井源助らその場にこれある各首を取る。
氏張は荒山の塁に袋隼人を置き、越中へ引き退く。
狩野将監・土肥政重も同じく曳き退く。
これにより小林助左衛門(小走組)使いとなり、右討ち取るところの首級を持ちその首尾委曲利家へ達す。
且つこの趣七尾諸将へも仰せ遣わす。
さて七尾の諸将前田安勝・前田良継・高畠織部定吉・中川清六郎光重、兵を発して荒山の塁をせめて落去す。
同月二十三日佐々成政多勢を率い、利家御持ちの能州末森
末森城には奥村助右衛門永福(のち伊予守。剃髪し快心と号す。)・千秋主殿・土肥伊予(但馬弟)らこれを守る。
を攻む。
利家後援のため金澤より進発。
この節利家七尾の諸将且つ連龍、早速末森へ後詰めのため出陣これあるペしの旨檄書到来。
利家兼ねて連龍はじめ七尾の諸将前田五郎兵衛安勝・息男孫左衛門(のち播磨と号す)・高畠織部定吉・中川清六郎
光重・山口源太郎・青木善四郎ら、末森表の事これあるにおいては速やかに相救うべしの旨なり。
しかるところ諸将七尾に集まり相はかりて曰く、利家公御出馬候ても敵押さえの勢を出してこれを遮り、末森表へ御取り
詰めなられ難かるべし。
且つ成り政多勢を以て囲み攻め、城既に落去に及ぶの由浮説これあり。
かれこれ談議一決せず出陣延引におよぶ。
連龍その儀に応ぜず、一手を以て出勢到るべきの旨仰せられ、一千余人を率いられ末森表へ馳せ向かう。
時に末森表事急なりと聞きて、御手の従卒の内離散の機あるを見て、関惣左衛門薙刀を取りて後拒にあり、これを制して
備えを乱さず。
然るところ利家勝利を得、敵既に敗走。(成政越中へ退く)
連龍白子浜に押し至るのところ、利家末森より遠望これあり、脇田善左衛門・野村七兵衛をして能州勢に候哉とて物見に
出す。
連龍両士に会面、兼ねて厳命を蒙り早速出馬すべきのところ、七尾において評議一決せず遅参に及ぶ。
今般御一戦手に合い申さずの儀、武門の恥辱これに過ぎず。
遺恨千万自今弓矢を切り折り武業を棄てるペしの旨憤言、短刀を以て断髪す。
両士馳せ帰りてこの旨を申し上げる。
則ち利家思し召し、一手を以て早速出陣の段抜群の志比類なし。
けっして憤るべからずの言仰せられ、重々懇ろの趣につき、面目を施し、徳丸へ帰陣なり。
後日束髪になり候。
同十三年秀吉佐々成政退治のため越中へ進発。
この時連龍越中へ出陣、軍労これあり。
よりて秀吉感賞これあり、謁見仰せ付けられ、懇ろの旨を以て羽織・黄金等恩賜なり。
同十五年秀吉島津修理大夫義久征伐の役、利家帝都警衛につき、連龍も随い、京都に在陣。
同十七年四月城州伏見において秀吉利家の邸宅へ御成の節、家臣数多く御目見仰せ付けらる。
連龍も太刀献上、御目見これあり盃を頂戴す。
且つ品々拝領物これあり。
同十八年三月九日(一説に二月十六日)相州小田原の城主北條右京大夫氏政息氏直追討のため秀吉関東表へ動座。
この節連龍利家に随い、関東へ出陣。
同四月十日(一説に十六日)利家・利長・上州松井田の城御攻めになり候ところ、連龍先手となり出丸へ押し寄せ攻め
破る。
出丸の守将工藤某本城へ逃げ入り、利家・利長本城へ取り詰め、守将大道寺駿河政繁・同新二郎政照(氏政家士)戦力
尽き降伏す。
連龍家士功名戦死の者多し。
時に上杉景勝・毛利河内守秀頼・真田阿波守昌幸ら利家とともに出勢し、その勢三万五千なり。
信州木曽路を経て関東へ出陣、まず上州松井田を攻める。
この戦に家人須賀豊四郎、横田久右衛門と先を争い競い進み、豊四郎討ち死にす。
関惣左衛門・その子又八郎・長尾惣三郎・六島弥六、及び柳弥平次(小走組)・柴野彦次郎(足軽)ら戦死す。
長谷村宗助・六島弥七・平井孫三郎ら傷を被る。
城門の正面において堀内権兵衛城兵と鑓を合わせ、首を捕る。
大道寺戦力尽き降伏して先陣に属す。
これより利家・利長武州へ出張、上田上野朝広(氏政の旗下。小田原城にあり。)居城松山御攻めになる。
連龍先陣となり押し向かう。
その臣木呂子丹波・金子紀伊・難波田因幡・山田伊賀・若林和泉守、これを防戦すること能わず降伏す。
同国鉢形の城は北條安芸守氏邦、並びに上州沼田の城主猪俣能登・佐倉大学らこれを守るにつき、同十九日利家
この城へ押し詰める。
城兵戦力尽き降伏す。
そのほか上州厩橋・箕輪・武州河越の三城、防戦の術を失い城を明けて降人に出る。
同五月二十二日(一説に六月)利家・利長軍兵を進め、北條陸奥守氏照の居城武州八王子へ取り詰める。
連龍先陣として出丸を攻め破り、なお本城へ押し詰め候ところ、城兵戦力尽き近藤出羽・狩野一庵・中山勘解由ら戦死、
落城す。
家士功名手負いの者多し。
氏照は氏政の弟なり。
この時小田原に籠城して家臣らをしてこれを守らせしむ。
山下郭近藤出羽、中丸中山勘解由・狩野一庵、本丸横山監物これを守る。
連龍出丸を攻め破り本丸へ押し詰める。
家人ら武勇を励まし山本与五郎(御持弓足軽頭)・誉田弾正・猪俣牛之助・八木清左衛門・三井惣五郎、木島源蔵・
園平助・大森弥蔵、(各小走組)並びに金子彦左衛門(足軽)ら討ち死に。
是清土佐・荒木次郎兵衛使いとなり家人先手の輩へ遣わされ候ところ、山本与五郎討ち死によりて支配の足軽乱れるを
見て、土佐下知を加えその足軽を指揮す。
土佐手傷を被る。
城兵稲毛弾正・伊藤内膳・三木作蔵ら数十輩城外へ働き出戦力を尽くす。
家人ら武勇を争い進み討ちてこれを敗る。
村井監物・小林平左衛門・富田新三郎・八木弥五郎ら傷を被る。
平左衛門は深傷たるによりて三宅善丞これをたすけ退く。
堀内帯刀、稲毛弾正を討ち取り、傷を蒙る。
横田久右衛門、三木作蔵を討ち取る。
長兵有(長十郎右衛門弟。のち南志見杢養子となる。)・山本園丞・池上甚助・河野藤兵衛・河合半右衛門・岡部式部
・鈴木因幡ら首を取る。(伊藤内膳討ち手不詳)
近藤出羽・狩野一庵・中山勘解由戦死、横地監物逃げ去り、陥城におよぶ。
同七月秀吉ついに小田原を囲みて氏政・氏照自害し、関東ことごとく平定す。
これにより同月秀吉の命により利家国検となり奥州へ発向。
連龍従い、その事に預かる。
文禄元年秀吉朝鮮征伐の節、利家出陣。
連龍従い、肥前名護屋に在陣。
同二年五月五日利家の家人、家康の家来と口論の品これあり、両家の士卒その場へ馳せ集まり甚だ騒動に及ぶ。
連龍その場を指し置き兵士百人を率い備えを立て、もし大事に及わば家康の旗本へ押し懸かり勝負を決するべく躰、
利家甚だ勇略を感じになり候。
同八月秀吉大阪へ帰座につき供奉し、同十一月帰国す。
同三年秀吉城州伏見において、新造の城地取り立て営造の儀群国へ命ずるの節、連龍利家の下知によりて伏見へ御越し、
右御用御勤めなり。
この普請川堀の事、利家へ御頼みにて惣奉行連龍なり。
宇治川をせき留め川除を突き出させるに、わく鳥足を入れ土俵にてせき留めらるれども、底深くして水早く流れ行きて
落ち付く事なれば、連龍も難儀に思し召し、家老功の者ども呼び集め詮議す。
毛利半左衛門という大工来たり思慮し、わくを立て申すべく、作事小屋を五十間に二通り作らせ、その中にて■鳥足を
組み立て川へ入れければ、程なく水底へ落ち付きて、その上数万の土俵を投げ込みければ、とどまりて成就したりける。
鈴木因幡をして諸事を司しむ。
慶長元年四月八日秀吉利家の第へ枉駕。
翌九日老臣の数輩太刀を献上、御目見盃はじめ数品を賜る。
連龍も同然たり。
同年閏七月大地震によりて伏見城破壊に及び、重ねて修造これあり。
且つ伏見川の辺秀吉茶店結構、宇治川の川除堤を築き地形平均の普請。
利家・利長その御用御沙汰になられた節、連龍惣奉行仰せ付けられ、普請成就滞りなく勤める。
同五年石田治部少輔三成(江州佐和山城主領十八万石)逆謀を企て節、利長上方筋へ発向になる。
石田の与党山口玄蕃守宗永・同右京亮修弘、大聖寺に籠城。
同八月三日利長大聖寺の城へ取り詰め御攻めになり候。
これにより連龍能軍の先陣となり押し詰め、城後面を最初に攻め破り、連龍一手の軍勢一番に鐘ヶ丸へ乗り込み、城兵
金しょうの馬印を押し立て一同に攻め入る。
甚だ防戦に及ぶ。
家士この所において戦力を励まし功名手負い戦死多し。
城兵防ぐ術を失い落城す。
ここにおいて主将山口父子陣亡す。
この節家士富田帯刀ら甚だ働く。
利長石堂山(愛宕山と号す)より御覧になり、軍使堀口与三兵衛を以てその姓名を尋ね遊ばし、感称あり。
家康会津上杉景勝の我意を討たんため、六月諸侯を率い大坂を発し奥州へ下向の跡に、石田三成大坂において兵を
起こし、諸国へ檄文を伝えて家康を討たんと欲す。
西国・中国の諸侯多くこれに応ず。
利長は関東に志しあるによりて、三成征伐とし上方へ出軍。
これにより連龍能軍の先鋒として出陣。
加州小松の城主丹羽五郎左衛門長重・同国大聖寺の城主山口玄蕃頭宗永を責める。
七月二十六日松任に着陣。
同晦日三堂山に登り、ここにてまず大聖寺を責めるべく評議一決し、小松勢の押さえとして、三堂山砦岡島備中・
不破彦三・陣代不破大学、千代砦寺西若狭・前田播磨・陣代浅井清十郎・不破丹波・藤田八郎兵衛・矢島五郎兵衛・
足軽頭原田又右衛門これを守る。
八月朔日三堂山を発し、荒木田川を越え東山際を経て松山に着陣。
(この途中小松より兵を出して浅井口木場潟へ舟を入れ、鉄砲を放ちて押し懸かる。連龍・大田但馬ら多勢を以て
難なく追い払う。)
同二日利長九里九郎兵衛(或いは村井久左衛門という。また村井・九里両使という。)大聖寺へ遣わせ、味方に属す
べくの旨を述べしむ。
山口父子同心せず。
これにより攻城評議一決す。
同三日利長の先陣山崎長門、利政の先陣連龍、各進みて大聖寺の城を囲み攻めること甚だし。
連龍・好連は後面に押し向かい兵士を励ます。
家人各勇力を尽くし、城兵防ぐ術を失い後面最前に破れたり。
この間家士富田帯刀藺莚の指物を指し、先に登り進み越え壁をこえて傷を被る。
その体勢利長遠覧になり、堀口与三兵衛使いとなし姓名を尋ねる。
河合半右衛門富田に指し続きて壁下へ着き、馬印持ち塀へ乗り越え候節、馬験の鳥毛抜け候て城内へ落とし申し候
ところ、城兵これを取り立て退き申し候ところ、林六兵衛・堀内一秀この節同時に塀を乗り越え候て、右鳥毛を取り
申し候城兵を一秀討ち取り、鳥毛取り返し塀の上より馬印を引き上げ申し候て、城内へ建て申し候。
この節家人一同に乗り込む。
村井監物(足軽将)・岡部式部(足軽将)・富田新三郎・河野藤兵衛・板倉伝右衛門・木村左門・田向清右衛門・
中西間兵衛・六嶋庄三郎、はじめ広瀬(一作に広谷)否助(小走組)討ち死にす。
国分五郎兵衛首一討ち取り、討ち死にす。
長谷川源十郎・曾原助三・柳瀬孫三(各足軽組)傷を被り、後日死す。
上野隼人・阿岸掃部・加藤紋兵衛・南志見兵助・長与六左衛門・阿岸主水・神保八郎左衛門・三宅善丞・高田与助・
河野次郎兵衛・小原十郎左衛門・石黒瀬兵衛・河合半右衛門・駒沢金左衛門・奥村宗以・木島太郎左衛門・渡辺忠左衛門
ら傷を被る。
脇坂五郎(のち剃髪し等庵と号す)御手において一番首を得る。
堀内兵左衛門・阿岸内蔵・誉田内匠・中田喜兵衛・長谷村宗助・横田久右衛門・池上甚助・沖覚右衛門・堀内一秀・
四柳宗右衛門・直海園右衛門・藤田六左衛門ら首を取る。
既にして城陥り、山口宗永自害、従士数百人自害。
子息右京亮の首を山崎長門家人山崎長左衛門討ち取る。
これにより利長大聖寺城に入る。
これより直ちに上方表へ出勢あるべきとて、大聖寺には篠原出羽守一孝・加藤石見朝重指し置く。
同五日先陣既に細呂木に進み到るのところ、中川武蔵守光重入道宗半かつて伏見にあり、この時乱を避けて加州に
志し、越前敦賀に至り海上を経て加州に赴かんとす。
時に大谷刑部少輔(敦賀城主六万石。石田三成の党与。)ここに留め、謀言を以て宗半を欺く。
宗半これにより羽書を利長に呈して、上方発向不利なることを告ぐ。
利長御覧これあり、中川手跡紛れなし、早々引き取り時宣伺うべきため大聖寺へ回軍。
同八日利長大聖寺を発し、東山際を経て三堂山に陣を移す。
小松勢の押さえとして連龍・好連・高山右近入道南坊・富田下総・山崎長門長鏡(のち剃髪し閑斎と号す)・大田但馬、
高塚村後を経て御幸塚に至り、南原に備えを立て篝を焚き警固す。
連龍はじめ諸将明旦回軍の次第示談これあり。
時に山崎長鏡明旦の殿後を望む。
連龍仰せけるは、利政公既に後拒に備え給う。
然らば明旦の後殿もまた我が手にあり、他の競望あるべからずの旨にて許容なく、富田・太田・高山三将その儀に同ず。
長鏡望みを失い、連龍に手を取らせんため浅井縄手へかかり押せと言い、何れもこの儀に同しける。
松平久兵衛これを聞き、敵の城下を通らんに構えなく通す法やある。
小松より取って出沼田へ追い入れ討ち取るべし、三谷へかかり引き給えと言いければ、山崎をはじめ太田・高山申し様、
たとえ小松より出るとも何程のことあるべし。
若輩にて推参なりと言いければ、久兵衛立腹してぞ居たりける。
利長暫く金澤へ帰陣につき、同八日三堂山へ引き取る。
連龍は太田但馬らとともに御幸塚に陣取る。
翌九日の朝連龍父子後殿となり引き候ところ、丹羽五郎左衛門尉長重家臣江口石見、兵士を率い小松の城を発し南浅井
一屋辺に馳せ向かい、長重二千余の軍を率い八幡堂の辺に出張す。
連龍江口石見と大領野において会戦あり、家士数輩この所において戦死。
敵兵手負い戦死の者数多くこれあり。
連龍・好連前後を乗り廻し軍兵を励まし、山代橋に至り人数をまとめ備える。
小松勢これより引き退く。
富田下総・太田但馬この所まで引き返す。
連龍面謁し、好連鉄砲傷を蒙れども、勇力励まし後殿を御勤めの段連龍あまねし聴かせになる。
味方勢相続き候わば小松勢を討ち破り、小松城へ附け入り乗っ取るべきところ、無念の仕合いの旨発言これあり。
この時人数七百余人、(大聖寺において家人死傷甚だ多し。傷を被る族先達ちて寺井へ指し遣わす。これにより御勢
減少に及ぶ。)今井川を越え大領南浅井を経て本江へ赴きあるべきのところ、大雨頻りにして路また切れる所なり。
丹羽長重家臣江口石見兵士数百人を率い、一ツ屋(近代は中村という)辺に隠伏し、不意に起こり御方中軍を討ちて
前後を断ち、敵兵松村孫三郎先登に進み、馬を飛ばし備えを乗り切り行伍を乱さむとす。
連龍(乗馬百段黒と号す)兵士を励まし家人ら各勇力を尽くし、小林平左衛門は松村孫三郎を馬上より突き落とす。
深手なれば引き退く。
江口兵を励まししきりに御方を討つ。
足軽将鹿島路六左衛門・沖覚右衛門(村井監物・岡部式部、大聖寺において討ち死に。その代わりとなる。)ら足軽を
指揮すといえども、火縄雨に濡れて鳥銃の術を施すこと能わず。
阿岸内蔵貯めるところの火縄を以て足軽の持ち砲を取りて二つ発つ。
好連、連龍の危難を救い奮戦。
銃丸乗馬の鞍前輪を貫き股にあたる。
宮崎三丞(小走組)馬の轡を捕る。
沖覚右衛門(四十歳)敵兵佐々太右衛門と相戦い最前に討ち死にす。
小林平左衛門秀修(四十五歳。紺糸の鎧を着し、栗毛の馬に乗る。)団七兵衛と戦い討ち死に。
長中務連朗(三十三歳。萌黄糸の鎧を着し、芦毛の馬に乗る。)古田五兵衛と戦い討ち死に。
堀内一週景広(五十四歳。啄木糸の鎧を着け、黒の馬に乗る。)最前雑賀兵部と鎗を合わせ兵部を討ち取るのところ、
その場へ深町九郎兵衛・澤二郎左衛門二人馳せ合い相戦い、澤・深町ともに傷を蒙る。
一周その場において戦死、首は澤二郎左衛門討ちとる。
鹿島路六左衛門光景(九兵衛名跡。実は堀内一周弟。名左衛門男。はじめ清蔵と号す。)酒井五右衛門と戦い討ち
死に。
鈴木権兵衛重国、森治右衛門戦い討ち死に。
八田三助吉信(五十七歳)西脇左門と組み取りて押さえ既に首を取らんとするところを、下より押し返し三助を討ち
取る。
そのほか小走組岩田新助吉忠・柳弥平次(父弥平次松枝において討ち死に)ら戦死。
敵兵不破八右衛門(一説に平野)ら首を取るの由。
敵兵寺岡勘左衛門ら数輩討ち死に。
関左近・阿岸内蔵・田屋六郎左右衛門・誉田内匠・三引和右衛門、連龍に随う。
飯坂源左衛門・河合半右衛門・四柳宗右衛門・関吉右衛門、好連に従う。
両君しきりに敵軍を討ちて勝負を決すべく思し召すといえども、味方救援これなく、御手小勢を以て本意遂げ難く、
憤りを仰せられ兵士をまとめ本江へ引き取りなり。
長重二千余人を卒し八幡堂の辺に出張す。
江口らなお進みて南浅井の辺に至り、時に太田但馬山代橋の辺に陣す。
敵兵進み至りて山代橋を隔て但馬と相対す。
利長家士松平久兵衛・水越縫殿・太田但馬従兵井上勘左衛門・岩田伝左衛門・大野甚丞橋上に進み、敵兵拝郷次太夫・
不破杢兵衛・成田助九郎(のち半右衛門と号す)・安彦清右衛門(のち左馬と号す)・宮田小兵衛と鑓を合わせ、
中田喜兵衛・林六兵衛小荷駄奉行にて跡より来たりこれを見、拝郷・不破鉄砲に当たりて死す。
成田・安彦傷を被る。
ここにおいて敵兵引き退く。
太田も兵を引きて東山際に至る。
江口石見はなおしたい進みて蓮台寺に至る。
時に長重使いを馳せ江口を制して兵を納めしむ。
討ち取るところの首、久了橋南鰭において長重これを実検。(ある説、おおよそ惣勢討ち死にの首三十六)
富田下総大領に事あるを聞きて兵を回し、連龍に面謁。
早速救援遂げるべきのところ、遅聞によりてその儀能わずの旨これを述べる。
且つ山崎長門近鎌谷にありて救わずを怒りてこれを嘲る。
これより共に本江へ赴かる。
時に利長・利政聞き召し、馬を出し軍兵を進めて荒木田渡しを越すといえども、長重兵を引き入れるの故三堂山へ
帰陣なり。
連龍・好連の軍労を利長感じ、軍扇を披き好連をあおぎ、勇々しき振りなり、天晴れ九郎左衛門にもいや増すべし。
名を十左衛門と改めるべしと直ちに仰せありしなり。
同十日金澤へ帰陣なり。
同十日金澤へ帰陣。
利長軍労を感じになり、同月十七日書を以て加恩なし加州において千石の所これを賜る。
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以上。