長家家譜 (連龍5)
同月下旬利政異念の品出来の節、連龍別れて忠直の覚悟。
利長感悦懇ろの諚これ有り。
同九月九日誓書を賜る。
同月中旬利長重ねて上方表出張につき、連龍・好連先鋒のため出軍す。
時に利政は病気の由を称し出馬せず。
これ室家(蒲生飛騨守氏郷女)大坂において石田等これを取り押さえ人質となす。
これにより出軍難渋に及ぶ。
利長甚だ怒り段々厳意の趣これ有り、使い数度に及ぶといえどもついに承諾なし。
これにより能州の諸勢利長御手に属し然るべくの由仰せ遣わす。
ここにおいて連龍・好連先鋒の将たり。
利長衆兵を率い小松表出陣。
丹羽長重和平を請い、家臣江口石見嫡子を以て質とす。
利長許容これ有り、猿千代(八歳)質となし長重方へ遣わし、掛橋川橋上において互いに質人送迎の儀これ有り。
利長長重に会謁。
それにより越前に出張。
北庄城主青木紀伊守、同国丸岡の城主青山伊賀守等石田に党与す。
彼の輩責め討つべく、船橋川上の湍を越え北庄へ乱入す。
時に濃州関ヶ原表において石田・小西等敗亡の告げこれあり。
これにより越前表異儀なく上方へ進発。
その後逆賊与党の族一々糺しこれあり。
丹羽長重領地(十二万石)没収され、勢州浅熊に蟄居す。
同十一月(一説に十月十七日。或いは翌年という。)家康・秀忠、利長の忠勤を賞し、能州並びに小松大聖寺恩賜あり。
これより加・越・能三州全く領知となる。
同六年九月晦日天徳院金澤へ入輿。
大久保相模守忠隣・青山常陸介忠成・安藤対馬守重信ら供奉、東海道より御国へ入り候に付き、越前金津において送迎の
規式これあり。
大久保相模守輿を相渡し、前田対馬守長種請け取る。
青山常陸介貝桶相渡し、連龍請け取るなり。
同十一年家督好連に譲る。
この後剃髪如庵と改名。
しかるところ同十六年好連卒去に付き、家督の儀利長上聞に達するところ、富田下総まで御書きになり候。
右の趣利光上聞に達し候ところ、書を賜る。
これにより連頼へ相続の儀、重ねて上聞に達し候ところ、許容ありといえども、幼年たるによりて後見あるべきの旨両公
より書を賜う。
同十九年越後高田の城普請の節、如庵名代となり浦野孫右衛門、そのほか家臣数多く遣わせ御用を勤める。
同年豊臣秀頼兵事の企てこれあるに付き、家康・秀忠摂州大坂に動座。
利光出陣遊ばす。
この節先陣山崎長門、二陣如庵勤め攻城に及ぶ。
この時御手武者奉行阿岸掃部・浦野孫右衛門、槍奉行加藤紋兵衛・長十郎右衛門、旗奉行中田喜兵衛・藤江金右衛門、
足軽将長谷村宗助・河合半右衛門・横田久右衛門・飯坂源左衛門、(横田飯坂陣中において病気、山口三右衛門師孫助
代わりとなるを仰せ付けらる)持筒足軽警固村井監物・林好丞・隠岐正左衛門・是清文内(大走組、今代にいう小将)
馬印金しょう鳥毛の出し紺の絹小山田伝左衛門(足軽)これを持つ。
(翌年夏陣の節、足軽坂井与兵衛これを持つ)備印二本紺の絹四幅長さ七尺九銭の紋笠師村彦太郎・九右衛門これを
持つ。
旗二十七本紺の絹三幅九銭の紋金銀のうちわの出し、騎馬九十三人、歩兵四十六人、(指物四半地白日之丸)大走組
三十人、(羽織地白日之丸)小走組四十五人、足軽百五十人、(うち二十人持筒)忍の者島津伝兵衛(大走組)馬奉行
木島太郎左衛門、兒小将田向助九郎、賄い方中田市郎左衛門、(小走組)小荷駄裁許大嶋与二右衛門、貝持ち小山田
伝助、(足軽将)惣人数千三百二十九人。
同十月二十一日(一説に十六日。或いは十四日という。)金澤出馬、寺中に宿陣。
二十二日敷地。
二十三日越前長崎。
二十四日浅生津。
二十五日今庄。
二十六日疋田。
二十七日江州大溝。
二十八日坂本。
二十九日上桂。
晦日河内飯森。
十一月朔日中大内。
二日道明寺。
三日茶木原この所に逗留これあり。
既にして軍備を進め大阪城を囲み攻める。
同十二月朔日城内大野修理陣屋より出火。
これにより寄せ手の諸将城中反心の者所為と相心得、何れも備えを城近く進め候ところ、城中よりしきりに弓・鉄砲を
発しこれを防ぎ、寄せ手死傷数多くこれあり。
この時利光備えを進めず下知厳重なり。
これにより両御所甚だ感賞遊ばす旨、本多上野介利光陣営阿倍野へ馳せ参り、右の趣相述べる。
且つ山崎長門・如庵相招き、両人累年の軍功兼ねて上聞に達す。
これにより加賀の軍備においては安心思し召さるの由、両御所上意の旨申し述べ候。
同月四日利光をはじめ諸軍勢真田丸南北の城際に押し詰めるの節、如庵家士各武勇を励まし死傷の者多し。
右攻城の間利光数百騎を召し具し攻め口巡見の節、如庵御供になり、前後の指揮仰せ付け候。
出丸の守将真田左衛門昌尚なり。
南北より押し詰める。
南方へは利光家人神尾図書・才伊豆等、如庵家士数輩一所に相進む。
なかんずく大森武左衛門利光家人渡辺助十郎(一説に助二郎)と詞を合わせ真田丸近く詰め寄る。
北方には利光家人大音主馬・堀田平右衛門ら、如庵家人数輩ともに相進む。
不破作太夫(三十七歳)・六島虎之助・木島甚兵衛、(右筆役)並びに山崎覚助(足軽組外)・堀内大炊家僕武石加兵衛
鉄砲に当たりて命をおとす。
浦野孫右衛門(萌黄糸の鎧、白幌を掛ける)・小林六右衛門(黒糸の鎧、白幌を掛ける)・堀内大炊、(紫糸の鎧、紅白
段々の幌を掛ける)そのほか鈴木左衛門・田辺孫左衛門(のち合田と改める)・飯坂源左衛門・誉田内匠・河合半右衛門
・岡部五郎助ら、真田丸間近詰め寄る。
城中より鉄砲放つこと雨脚のごとく、浦野孫右衛門・小林六右衛門・堀内大炊・田辺孫左衛門・飯坂源左衛門・誉田内匠
・河合半右衛門・岡部五郎助傷を被る。
この節御勢引き上げるべしの旨如庵下知によりて、軍使横田久右衛門(黒白段々の指物)先手へ馳せ来たり、矢玉を
恐れず勇威を震う。
城兵甚だその武勇を感ずるの由。
その後和議整う。
翌元和元年二月六日利光金澤へ帰陣に付き、共に如庵帰陣給う。
同年四月和議破るによりて両御所大坂表再び動座に付き、利光大坂表へ出陣。
この時如庵先陣として出兵。
利光秀忠の先鋒として岡山表へ進む。
五月七日城兵大野主馬等と大戦遂げ、勝利得給い落城す。
如庵先陣において戦力を尽くし、首三十三級を得給う。
如庵御手の兵士各武勇を励まし軍功を立てる。
加藤紋兵衛・長十郎右衛門・浦野孫右衛門・阿岸内蔵・小林六右衛門・長右衛門・堀内大炊・鈴木左衛門・徳田主水
(のち頼母と改める)・岡部式部(首二)・阿岸吉太夫・菅縫殿・山本与五郎・宇留地吉右衛門・由土平兵衛・池上甚助
(首二)・中田喜兵衛・栂織部(のち七兵衛と改める)・長谷村宗助・鹿島路釆女(のち四郎左衛門と改める)・
三引和右衛門・石黒主殿(のち三左衛門と改める)・隠岐正左衛門・石黒又太夫(のち甚左衛門と改める)・萱津孫七郎
(のち与三左衛門と改める)・毛利半左衛門・後藤文内・田向助九郎(のち孫市と号す)・音地勘兵衛、並びに長与六左衛門
家僕吉村豊内等首を取る。
城兵大いに敗軍城内に逃げ入る。
加州勢直ちに進みて壁下に附き、城中より矢玉雨のごとく発つといえども、ついに城門を打ち破り悉く乱入、城内に火を
放つ。
加州惣手へ討ち取る首三千二百級。
秀頼生害。
海内平均に属す。
両御所利光の軍功を感賞ありて、宰相に任ず。
これにより天下一統す。
既にして利光加州へ帰陣に付き、共に如庵帰陣し給う。
家人等の軍功を賞められ恩賜あり。
元和三年五月十三日秀忠江戸屋敷へ成り候節、如庵太刀献上、御目見仰せ付けられ、時服並びに白銀拝領なり。
如庵一世の間攻城野戦凡そ四十一度。
同五年二月三日領分能州田鶴浜において卒去。
歳七十四。
配偶神保安芸守氏張妹なり。
のち氏張信長に反きて上杉に降る。
これにより離別し給い、後年故有りて綱連の息女と再嫁し給う。
天正五年七尾没落の後、綱連の後室孝恩寺へ内意の趣、御七人の御怨念といい、御互いに無念というも余りあり。
この上は娘玉と夫婦になって本領安堵これあらば、悦叟も悦び給わんずれば、御同心あるべき哉と宣えば、孝恩寺
立腹にて、人倫の法にあらずとてその旨にしたがわず。
後室不興なり。
その後安土へ出信長へ愁訴には、我等夫綱連御味方を致しその身討ち死に、親子兄弟の骸を暴され候は随一の忠義に
候。
それにつき両人娘これあり候。
我等女の身ながら御歎を申し上げるべきため罷り上り候。
この娘に夫仰せ付けられ能登国に下し置かれ候わば、綱連の亡魂有り難く存じ奉るべく候と愁訴ありければ、信長聞き
召し、不便に思し召しその意得給うとの上意なり。
その後菅屋九右衛門能国仕置きの命を蒙り罷り下る。
ある時新蔵坊という茶道坊主を使いとして、連龍福水城を明け、麓に居所あるべしとの上意なるの由申し述べる。
是非なく鈴木因幡小屋に居給う。
重ねて新蔵坊を以て、故綱連娘これありの段信長聞き召し、堀久太郎と縁組み仰せ付け、長氏の系統を嗣がせるべきの
旨上意候。
その意得べしとの内意なり。
因幡御諚せを返すは恐れ入り候得ども、連龍儀出家仕りこれあり候得ども、長家断絶のところ無念に存じ父兄の仇報じ、
その上能登・越中兵乱につき所々相働き、大半御手に属すが様の御奉公も仕り候儀、上様も御存知これある事に候。
然るところ今更相続他人に仰せ付けられる事、譜代の者をはじめ恩請い申し上げまじく候。
この上は兎角新蔵坊を頼み申すと返答し、この旨委細連龍へ言上し、今更他家より相続にては御存念も無に罷りなり候。
然れば玉君と御嫁娶の儀御同心候ば、御先祖にこれ御忠孝に候。
御承引なきにては御不忠御不孝の至りとたって諫言申しければ、黙止し難く同意ありて、頓きて信長へ聴に達すところ、
尤も然かるべしとの上意に付き、婚儀ありて徳丸城を築き移りあり。
のち築城競い給うといえども、この城は利家思し召しに応ぜずの旨ありて、移住し給わず。
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以上。