長家家譜 (続連)



続連は実は平加賀守盛信の二男なり。
 盛信は実は教連の二男なり。
 盛国の養子となる。
幼名は新九郎。
母は平盛国の息女なり。
英連は嗣子これなきにより息女へ婿養子になる。
家系譲りを受け、九郎左衛門勝連と改める。
のち対馬守と申し、能州穴水に居城。
義輝将軍に仕え畠山義続に属す。
義続の諱の一字を賜り、すなわち続連と改め候。
 畠山義続は初め義次と号す。
 能州の守護なり。
 その先清和帝の後胤畠山遠江守義純六代の嫡孫尾張守義深。
 その子右衛門佐基国大和・紀伊・河内・越中・能登を領して管領職たり。
 基国の二男修理大夫満則(のち剃髪し元安と号す)へ能登・越中を分与して能国へ下り、これより累代七尾城に居す。
 国人屋形と称す。
畠山の家臣遊佐美作続光
 初め加賀次光と号す。
 領四千貫。
 畠山家世臣なり。
逆謀を企て、越中住士鞍川肥前清房(初め平兵衛と号す)その子筑前清経(初め與三郎と号す)ら同心いたし、天文十二
年十一月二十四日鞍川親子軍勢を催し能州へ乱入、同国天神川原まで押し詰める。
 時に続光執事となり国勢をつかさどり、ほしいままに驕威をふるい国勢万事横悪なるによりて、国民疎み憎むこと
 はなはだし。
 同家老老臣ら皆続光と不和になる。
 畢竟国人に心を離され罪責至るべきを悟り、おのれ一勢をもって本意を達し難きによりて、鞍川に相謀るが故なり。
 さて続光は屋形を守護し七尾城を守り防ぐ体をなし、屋形を弑し、畠山家の諸臣おのれに背く輩をことごとく併せ殺さ
 んと時宣を伺うのところに、心事ようやく露顕す。
 ときに屋形の従弟飯川肥前義宗(飯川伊予義明養子)その夜戌の刻ひそかに屋形の前に来たり諫みて曰く、
 「続光多年政に預かり奸曲なるによりて、諸臣各疎み国人皆これをにくむ。しかりといえども国柄を彼に任せられ、驕
 威を逞しくす。畢竟国家擾乱生ずべくを存知、かねて諫言をすといえども御許容能わず、今すでに続光莫大の御恩を忘
 れ、かつ国民仇を結ぶを怖れ、自立の陰謀を企て鞍川らと謀を合わせ当家をはからむとす。ことすでに危急に迫り逆謀
 露顕せり。頃年遊佐がために当家の諸臣憤り悲しみ怨みを含む者大半に及べり。今においては御家人といえども恃み思
 し召し難きところなり。長対馬守続連は曩祖長谷部信連以来当国の大名当家先方の一将、ことさら続連智謀兼備の勇将
 なり。幸い当府邸第にあり。ひそかに彼の第に御入りありて逆徒誅伏の計略御恃みこれあるべし、もし異議に及び御方
 合力の志これなきにおいては、今さら御家人中へ前非を悔やまれ、御恃みこれあれあるべきは末代に至り人口の嘲りに
 残るところなれば、畠山の家運窮達の時節と思し召し定められ彼の第において御生害これあるべし。義宗相殉ずべし」
 の旨勧め申す。
 屋形許容これあり、その夜亥の刻ひそかに本城を逃れ続連の第に至り、「今度の危急を払い当家の安穏の儀、ひとえに
 貴客の合力にこれあり」の由委曲情意を述べる。
 続連速やかに同心し、畠山家の諸臣を招き、義兵を進め遊佐・鞍川らを討ち亡ぼさんことをはかる。
 これにより温井備中・三宅備後・平加賀・神保周防・譽田出雲以下諸臣ことごとく馳せ参り下知に随う。
 時に続光は屋形が本城を去りて続連の第にぞ入るを聞き、中心大いに驚くといえども、外面偽りて屋形を守衛す。
 これ故に畠山家の輩続光を疎みながら屋形のために暫く彼の下知に相随う。
 時に続光逆計によりて屋形城を去ることを聞きて、各離散し続連の第に参向す。
遊佐は手勢百五十人ばかりを率し、その夜明け方七尾城を去りて鞍川の陣に加わる。
平五郎重冬(平続重別腹の兄なり。)も続光と同意しともに七尾城を去り敵陣に加わる。
この由続連聞き飯川肥前義宗をもって城を守らしめ、さて諸将を集め軍事を儀す。
諸臣皆先を争う。
続連先陣となるべくの由相定まる。
しかりといえども温井景長の乞いによりて先鋒を譲る。
 このとき温井備中景長(行年十九歳。)その先紀州根来寺に登り僧となり承俊と号す。
 兄備中景家早世により遺言に任せ能州に帰り還俗し家督相続せしめ、還俗の後年月を経ずいまだ禿躰のごとし。
 家臣山荘藤兵衛直秋らを招き、「我若年といい殊更近く釈門を出、弓矢の道において諸人もっとも侮るべく思うところ
 なり。今度の先陣対州勤められるべくのところ必然なり。我ら所存これありの間先陣を望み申し、相叶わずはその場を
 去らず自殺すべし。もし大望事ととのいなば、明日我が手において一戦の始終、各助言及ぶべからずの旨誓言すべし」
 の由なり。
 直秋以下その儀に応ず。
 その後備中続連の第に参上して曰く、「今度屋形の命といい、義兵の棟梁といい、先陣の儀さらにもって他の競望これ
 あるべからずといえども、我が所存の趣これあるによりて先陣の儀強いてのぞむところなり。この旨御許容これあるに
 おいては、永く長家の下風に立ち疎意存じべからず。もしこの儀相叶わずにおいては速やかに自殺を遂げるべし」の旨
 これを述べる。
 続連その志を感じ、すなわち屋形へこれを達し候のところ、屋形今度の始終、続連のはからい次第の由なり。
 これにより景長に先陣を譲るなり。
 景長大いに悦び礼謝限りなし。
既にして翌二十五日義続出馬。
続連二陣となり出兵し、天神河原まで押し寄せる。
遊佐・鞍川一戦あたわず引き退く。
七尾勢跡をしたう。
飯川に至りて鞍川兵を返し一戦を始む、その軍鋒はなはだ鋭し。
 このとき七尾衆仁岸石見入道宗心(続連の姪婿。)・国府五郎兵衛(所領那田内三百余貫。居藤瀬千葉氏末流。)戦死
 。
温井景長勇力を震い士卒を励まし合戦す。
越中勢はなはだ強くして破潰せず。
続連勢千余騎右方より押し出進みて、鞍川の陣を横さまに討ち温井の手を救い、鞍川・遊佐の両勢を討ち敗り勝利を得る

越中勢ことごとく敗走し鞍川父子戦死。
遊佐続光越中へ逃げ退く。
続連御手へ討ち取る首九十余級。
家士高名・手負い・戦死の者多し。
 阿岸掃部飯川において車田玄蕃と相戦い討ち死にす。
 時に上野隼人(阿岸掃部の外甥)車田を討ち取る。
 その後上野も戦死す。
 山田小六郎首一討ち取り、手傷を被る。
 上野弾正及び大島七郎ら各首一級これを得る。
 中村平次郎首二討ち取る。
 宇留地主水・関七郎・太田五郎左衛門・中村二郎兵衛ら傷を被る。
 およそ両方争戦進退七度に及ぶ。
 二之宮においてついに越兵戦敗、鞍川父子戦死す。
 温井家士山荘監物肥前を討ち取る。
 三宅備後家士星名虎之助(一説に岡部)筑前を討ち取る。
 温井手へ討ち取る首数百二十余。
 遊佐は越中氷見庄へ逃げ去る。
このとき続連義続の命をもって大将に代わり、石塚において(屋形本陣この所に立てる)凱歌を取り行う。
 屋形軍配団(今に相伝の赤禰采幣は、この時畠山より授かると云い伝う。ここに軍配団とあるは采幣の誤りなるべし。)
 を授けらる。
 これにより床机にかかって凱歌を行う。
 俗称で石塚合戦というなり。
この軍労によりて、能州において大町・金丸の両郷を恩賜に預かる。
 温井も同じく加恩ありという。
しかるところ遊佐続光越中において逆謀の計議重ねて相叶い難し、
 鞍川棄殺をもって、その造意をにくみ党与する者なしという。
加州へ相越し同意の合力を相求む。
加州一揆の将州崎兵庫ら相語らい、五千余の兵を催し、同十九年五月能州へ乱入。
 州崎兵庫は小原の奥相根山の城主なり。
 続光乞いによりて、青天小五郎を兵将として八文字の大旗をささせ遊佐に援兵す。
 弥勒縄手にて軍勢を揃え、五月三日津幡を立ち、同日申刻高松に着陣す。
 末森の城主土肥但馬(畠山家の幕下)川尻に出兵、遊佐が前途を遮る。
 遊佐使いをして全く屋形へ対し逆意存ぜず、続光累年国政を執るをもって同僚の臣ら偏執を挟み、鞍川が変によりて逆名
 を蒙る。これにより今度加州勢の合力を得、畠山家の諸臣に対し遺恨を散ずべきため罷り向かうの由、誓言をもって進達
 す。
 これにより但馬相支えず兵を引き入れ、事を七尾へ達す。
 屋形畠山将監を兵将として八百余人を羽咋表へ指し向けそのほか段々出勢すべしの旨なり。
 同四日将監遊佐と一戦す。
 将監従弟瑞點長老(瑞源寺の住職。俗姓和田氏。)徒膚にて白手拭いをもって頭をつつみ、一番に槍を合わす。
 戦争終日におよぶ。
 同五日辰刻将監ついに敗走す。
 遊佐手へ討ち取る首九十余、羽咋浜に梟す。
 続光進みて一宮に陣す。
 翌六日未明一宮を発し、瀧谷加茂庄を経て大槻の端へ出、その夜良川辺の山手三所より兵を押し下し、末廣野に出張す。
これにより義続六千余の軍兵を率し末廣野へ出張、続連先鋒となり出兵し、温井景長二陣に備う。
 加藤将監(時に十六歳。白糸の鎧を着け、黒ぶちの馬に乗る。)物見に出、鳥畠清水の辺において遊佐足軽の将小野但馬
 に逢い、将監たちまち但馬と馬上より組んで落ち、すなわち但馬を討ち取る。
続光兵卒五千余を一手に合わせ戦を初む。
続連勢千余人進みて大戦す。
二陣温井らともに進みて、相戦わず少しく陣を退く。
遊佐これに気を得て兵士を励まししきりに討ち、御手の士卒九十余人たちまち戦死。
続連兵士を励まし奮戦時を移すといえども、敵多勢たるによって退くこと三四町、ここにおいて温井・三宅以下兵を進めて
大戦す。
手の軍士勢気を得て戦力を尽くし討ち取る。
 太田主計ら首を得たり。
 合田民部・岩田帯刀・山本源十郎・小林図書・小川氏ら能戦傷を被る。
遊佐ついに敗走。
これを追撃して手へ討ち取る首、太田大膳らを初め三百七十余級なり。
 温井景長手に討ち取る首数百二十七、三宅・隅屋両手に首数六十余討ち取り、惣首数五百七十余。
 続光士卒に離れ一騎馬を飛ばせ逃げ去り、瀧谷辺において馬(芦毛)倒れる。
 徒立ちとなりて末森へ走り、土肥但馬を頼み暫く逗留す。
 一説、土肥但馬続光と内応の約ありという。
 川尻にて使節によりて兵を引き入れ、今度また寄宿するなどのことを見れば、さもありしや。
俗にこれを大槻合戦という。
弘治年中越後主長尾景虎能州をうかがい、兵船を押し浮かべ度々奥郡へ乱入し、居城穴水を攻む。
 時に続連は七尾城に在して、家臣これを守る。
数度防戦して敵を追い払いよく守保す。
 景虎父為景以来能州を望むといえども、いまだその行い及ばずのところ、弘治元年兵事を締う。
 これにより屋形城砦を道下村そのほか所々にかまえ、越後勢を押さえ国内を静治す。
 時に越後勢同三年に至るまで乱入数回に及ぶといえども、能州勢守り厳重にして、越後勢速やかに成功得難きこと事を
 知りて退散す。
 この間国中兵乱によりて農事を全くせず上下困窮す。
 かつまた所々籠城の士卒粮米乏しく難儀尋常ならず。
 家人山本源右衛門・その子與次郎(のち源左衛門)・小林彦右衛門ら数輩、自力をもって穴水籠城の勤労を尽くす。
 これにより続連各感書を賜う。
弘治二年畠山義続息男修理大夫義綱社稷を嗣ぐ。
ここにおいて遊佐続光続連を頼り、畠山家に復帰す。
 続光の男蔵人義房(時に十六歳。のち四郎右衛門と号す。)父続光を諫めて帰参をすすむ。
 ここにおいて続光家士片山六郎左衛門光重をもって続連に申して云う、
 「我畠山家において累代の臣なり。一旦不意の変によりて逆名を被る。誠にその罪逃れ難しといえども、旧悪を棄てら
 れ帰参の高免を蒙るにおいては、以後忠勤を励むべく、かつ永く子孫に至り長家に対し更に疎意存せず御下風に立つべ
 くなり。ひとえに高免の段賢慮あれ」の由頼む。
 続連すなわち屋形に達し旧悪赦免これあり。
その後義綱家臣温井備中景長(入道紹春)逆意を企てる。
これにより義綱すなわち紹春誅戮の時、続連へ密談のところ、続連思慮を廻し謀を議す。
すなわち義綱飯川肥前義宗に命じて義宗亭へ紹春を相招き、席上において誅戮す。
 時に当屋形不君の主にして政道正さず、酒色にふけり淫佚をほしいままにす。
 国民甚だ疎む。
 温井紹春勇力あるをもってその威諸臣に冠たり。
 屋形闇主たるをもって州民これと和さず。
 時をはかり屋形を失い、能州を奪うべく自立の密謀をたくらみ、屋形を欺き七尾城を松百の上野に遷さむことをすすむ。
 畠山家の諸臣紹春が権威に怖れ、敢えてもって争う者なし。
 屋形昏愚にしてその情察せずといえども、国の大事たるによりて続連を招き、城地を移す善非を談ず。
 続連言うには、これ屋形を蟄居を令し、おのれ当城に入りて逆謀を逞しゅうせん事をはかる者なり。速やかに賢慮を廻
 され然るべしの旨なり。
 これにより屋形内議を凝らし、飯川肥前義宗に命じて、義宗の亭において連歌の会を催し、紹春を招いて席上に殺戮す。
これにより紹春の嫡子温井備中景隆・二男三宅備後長盛(初め三郎と号す。三宅備後長吉の養子。)加州へ出奔し、
 紹春弟温井山城景貞憤を発し、一揆を集め仇を報ずべきことをはかるといえども、続連屋形を守衛これある故そのこと
 ならず。
 景隆・長盛とともに加州へ走る。
加州一揆の将坪坂新五郎(尾山の城主なり。伯耆の子。一説に下間壽法。)・州崎兵庫・鏑木右衛門(松任城主)・吉田
左近(里谷山城主。法名覚道。初め黒瀬に居す。これにより黒瀬左近という。)を語らい同三年能州へ乱入、その勢三千
福水へ着陣す。
七尾勢これを迎えて合戦数度に及ぶ。
 義綱弟織部並びに神保周防両将、千余人を率し大手金丸へ指し向かう。
 織部は澤に陣し、神保は先鋒として住吉黒藪に陣す。
 三宅小三郎宗隆・畠山将監八百余人搦め手小金森へ押し向かう。
 時に宗隆計策を設け、賄を入れて温井に与力を令する一揆らを変心せしむ。
 これにより却って宗隆の手に属し、温井兵卒大半離散す。
 しかりといえども彼の兄弟勇気撓まず、七尾勢に向かいて亡父のため快く戦死を遂げ、軍門に骸を曝さんとて勇みて景
 隆(時に十六歳)金丸に向かい、山荘藤兵衛以下相随う。
 長盛(時に十四歳)犀来に進みて搦め手に向かい、温井景貞これに副う。
 既にして長盛七尾勢と大戦す。
 時に七尾方一番槍は星名彌六左衛門、温井方一番槍は彌六左衛門いとこ長盛の家臣岡部名兵衛忠重なり。(のち家人と
 なる。式部と改める。剃髪し好甫と号す。この時十七歳)
 すなわち星名(三十六歳)を討ち取る。
 これよりさき三宅宗隆計略をもって、敵勢ことごとく散を信じ、大手七尾勢兵を引きて七尾へ帰る。
 これにより景隆金丸に向かうといえども、半途より犀来に馳せ加わり、兵を合しひとしく進みて合戦す。
 温井景貞殊なる勇士にして武略あり、兵士を下知してしきりに奮戦す。
 ついに七尾勢を討ち取り久江の辺まで追撃す。
 討ち取る首百六級、藤井壇の上において実検す。
 俗に犀来合戦という。
 温井この勢いに乗じ麻嵩・石動山・槻木三城を構え、その勢千八百余これを守り、七尾と相対す。
 これにより度々兵を遣わし彼の三城を攻めしむ。
 温井景貞兵を率い捨与の辺に迎え討ちて、七尾勢利を失う。
 ここにおいて屋形群臣を招き軍事を議すといえども、温井の勇略に辟易し談議決まらず。
 よりて続連を招き、兵略をとい且つ総大将たらしむ。
しかりといえども勝利なきによりて、続連畠山諸将を引率して出軍、計略をもって敵将温井景貞を討ち取る。
 そのころ能州にこれある八幡の供僧宗春(後年この時の功によりて還俗して家人となる。菅縫殿の父なり。)という者
 朝暮出入りす。
 温井方へも出入りしなければ、続連彼の者に、両山城が陣に行きて物具または馬の毛色を見て参れとぞ仰せらる。
 畏れてぬかずきて彼の陣に行きて細かに見済まし帰り、つまびらかく申し上げる。
 すなわち伏兵を武部小路藪中に置き、兵を進めて槻木城に働く。
 時に温井景貞兵を率し城を出迫め合いを始む、御方偽り負けて引き退く。
 長盛の足軽将狩野筑前勇み進みて喰い留める。
 景貞采幣を取りて兵士を制し曳きいれんとすといえども、深く進みて止まらず。
 ここにおいて伏兵の内家人中村彦四郎・畠山の臣隅屋主殿、景貞を狙い火砲を発す。
 二砲ともに当たりて景貞たちまち命を落とす。
 これにより槻木勢ことごとく敗走、狩野筑前ら三十余人戦死す。
それにより石動山・麻嵩・槻木の三砦を攻め落とし勝利を得る。
温井兄弟押水へ退去す。
 同年九月上旬景隆家士山荘藤兵衛直秋、兵将となり五百余人苅田に出で敷浪に至る。
 時に平加賀続重・甲斐庄駿河家繁・松百越後ら数百人押水を窺い、志雄まで押し出で進んで山荘に相逢い、既に迫合い
 を始む。
 山荘使節を馳せて急を温井に告ぐ。
 この間両方迫合い進退六度に及び甲斐庄駿河山荘の後を取り切り進み討ち、山荘利を失い敗走。
 七尾勢競い進みこれを討ち追い、槍取明神社頭山傍らの橋に至りて、三宅備後長盛軍士岡部名兵衛踏み留まり、後殿の
 槍を合わせ勇力を震う。
 これにより山荘もり返しいどみ戦う。
 時に温井・三宅兵を率し馳せ来たりて山荘をすくい一戦を始め、七尾勢を討ち取り追い討ちにす。
 七尾勢本道を退き得ず、羽咋方に敗走す。
 温井・三宅はなはだ武威を震い、この勢いをもって志雄まで掠領して、能州端郡大半彼の手に入る。
永禄二年三月二日温井・三宅そのほか同意の一揆ら、羽咋郡に相働く。
これにより続連出勢、平加賀綱知先陣たり。
同郡仏木において大戦を遂げ、大いに勝利を得る。
温井・三宅敗軍に及び押水へ逃れ退く。
 時に旗さし関寺弥二郎矢に中たり命を落とし、畠山臣長舎人ら戦死す。
 家人加藤将監・合田民部、そのほか数輩同郡大邑において戦死。
 敵兵温井常陸・同六郎左衛門・州崎掃部・斎藤左衛門・富樫三郎兵衛らを初め、二百余人戦死す。
同三年温井・三宅、荒山・石動山の辺に出張につき、続連出勢、一戦を遂げ勝利を得る。
温井・三宅敗軍、また押水に引き退く。
 家人加藤紀三郎(のち将監と改める)ら傷を被り、敵兵三宅浄心入道・稲岡民部ら数輩戦死す。
同八年家督を綱連に譲る。
同年五月松永久秀・三好義継義輝将軍を弑す。
これにより畠山家とともに織田信長に随う。
天正四年越後主上杉入道謙信能州へ発向、七尾城へ取り詰める。
この節畠山春王丸少年につき、続連・綱連及び畠山の諸臣と七尾を守保す。
その後謙信能州を退散これあり。
同五年閏七月謙信再び能州へ出張、七尾城を囲む。
同九月に至るまで防衛を尽くし堅固に守るといえども、遊佐続光ら逆計によりて、同月十五日彼の第において(郭内)続
連並びに連常・連盛生害す。                     

 


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以上。

于=に等。 主=つかさどる等。 恣=ほしいまま。 并=あわせる等。 竊=ひそかに等。 悪=にくむ等。 雖然=しかりといえども。 擾=じょう等。 已=すでに等。 頃年=ちかごろの年。 者=…は等。 雖=いえども等。 恃=たのむ等。 曩祖=先祖等。 遺=のこる等。 偏=ひとえに等。 悉=ことごとく等。 偖=さて等。 禮=礼。 凡=およそ等。 變=変。 賄=まいない等。 撓=たわむ等。 曝=さらす等。 累=しきり等。 頓=ぬかずく等。 細=こまか等。 委=つまびらかに等。 夫=それ等。 迯=逃。