CHO TSURATATSU
長家家譜 (綱連1)
綱連は続連の嫡男。
母は英連の息女なり。
幼名大九郎、また左兵衛、のち九郎左衛門と申す。
永禄八年家督の譲りを受け、義輝将軍に仕え畠山家に属す。
しかるところ国主義綱無道にして諸臣その命に随わざる故、同年四月十六日義綱能州を出奔せり。
義綱乱行日々に熾んにして、農・商の妻・娘あるいは女の嫁がんとする乗物を奪い、城中へ引き入れる。
また新参の士八代安芸(温井の先領のうち三千貫を領す)寵を過ごし、それのみならず嫡子義慶(母は江州観音寺城主
宇多源姓佐々木左京大夫義賢入道承禎女)を廃し、二男内蔵助(のち二本松伊賀守と号す。実は義慶の兄。妾腹により
二男となる)を立てるべくの志あり。
かれこれをもって諸臣憤り義綱を逐い、嫡子義慶を立てんことをはかる。
同四月四日遊佐続光畠山家の諸臣同意の輩を次第に招き、そのことを内談し衆議既に定まるといえども、国家の大事た
るによりて続連・綱連に達す。
屋形不肖にして国家滅ぶべくの機あるをもって、両人は同意した。
ここにおいて諸臣はかりごとを定む。
同月十六日義綱女輩のみを携え城外の馬場へ出遊あり。
このとき相図の地を定め置き、城の方に号火を放つ。
義綱そのことを察し内乱を怖れ、弟畠山義春ならびに畠山将監・奥村五兵衛・須田宗七郎・隠岐藤八郎・七尾町人後藤
彦左衛門(本姓多田氏)、そのほかわずか二十四五人を相具し、舟に乗り越中氷見へ出奔せり。
義春は越後へ赴き、再び義綱能州還住の儀を上杉謙信に頼むの由。
これにより義綱の嫡男義慶立つ。
しかれども少年たるによりて、畠山の諸臣綱連を七尾へ相招き、後見を頼む。
国政万事綱連の下知に相随う。
後見のこと辞退これありといえども、諸臣強いて乞う。
止めることを得られずそのことにあずかる。
同年五月松永久秀・三好義継義輝将軍を弑す。
これにより畠山家とともに織田信長に随順す。
同十二年十一月畠山家臣八代安芸・同外記、義慶に相そむき陰謀を企て先主義綱を越中より迎え、能州鶏塚にたむろし
敵対す。
前年温井景隆・三宅長盛、綱連を頼り帰参の赦宥を請う。
これによりその旨屋形へ達し、即ち許容これあり両人とも帰参す。
先知なればとて八代安芸の三千貫の領邑を温井に与え、八代へは易田を与うるに、安芸その命に応ぜず屋形に背き、
先君義綱を迎え鶏塚に兵士を催し集めて乱を起こす。
これにより続連及び杉山則直・飯川義実七尾城を守衛これあり。
このとき安芸嫡子外記へ綱連の息女玉幼少たりといえども婚嫁の約これあり、彼方に在住のところ、この取り合いに
つき鈴木因幡(そのころ浪人、常々御家に参向。)ならびに家人谷大学、八代と好みこれありの故、両人に仰せ付け
計略を以て女君を奪い取るべくの由なり。
これにより相計るといえども事急迫に至り叶い難しのところ、虎若という者あり、それがし参り奪い取り帰らむとい
う。
この者忍びの法を得たればゆるし遣わしけり。
虎若ただ一人八代方の忍び入り縁の下に隠れ居りこれを窺うに、俊儀妻(越中住士高楯氏女。)ならびに女房ども玉を
抱え守保して、左右なく取りつくべき様もなし。
虎若時宣をはかり不意に飛び懸かり奪いとらむとせしところを、俊儀妻短刀をもって玉の喉左の方二刀突くといえども
、小傷ゆえつつがなし。
すなわち抱え女房ども虎若に取り付き、我々をも連れていき給えとさけびけるほどに、しばらく時を移しけるが、振り
切りて門の小口を出んとするところを、安芸内女房ども追い懸け虎若が高股二刀突きけれども、事ともせず飛ぶが如く
に立ち帰る。
俊儀妻女性といえどもその勇力荘夫に敵す。
これにより家人大山宗三郎馳せ合いこれを殺す。
綱連虎若が働きを感じ、この功によりて十貫文の所地を恩賜。
名氏尋ねれば、山城国木島氏と申す。
とどめて木島小助と改名下し、家臣となる。
これにより同晦日綱連四千余の人数を率い、
孝恩寺並びに温井備中景隆・三宅備後長盛・松波常陸義智・同丹波・同壱岐ら随兵たり。
鶏塚へ押し詰め攻め破る。
八代父子戦力尽き、自殺す。
一説、安芸病中ゆえ自殺し、外記は戦死す。
安芸弟肥後・同主水、義綱とともに越中へ逃げ去る。
このとき山本譽次郎富雲において先登してよく戦い、傷つく。
後日続連より感書を賜う。
天正二年義慶卒去。嫡男春丸
二歳なり。
母三條殿。
一説に、母能登郡豊田村左近女とあり。
幼少につき、後見並びに国政万事綱連へ遺命をもって御頼りなり。
これにより義慶弟二本松伊賀守と心を合わせ、春丸を守り立てる。
畠山義慶は勝れたるよき大将なり。
また弟伊賀守は器量才智劣れる人なり。
遊佐続光大悪無道の不忠者にて、義慶ましましてはおのがまま成る事も成り難く、ゆくゆく身の上も如何と思い、義慶
を廃し伊賀守を守り立て、国柄を司りほしいままに橋威を振るわんと密計を挟み、伊賀守と親を結び時宣を伺うといえ
ども、綱連後見として政務を行い、国民ことごとくその化に服し、諸臣各手を束ねて門下に立たざる者なし。
かつまた綱連の勇威近国に響く。
これにより続光謀慮にくるしみ、温井景隆と密談して謀逆の一計をたくらみ、天正二年七月遊佐亭に屋形を招じ毒をす
すむ、屋形これ故に発病(享年十九才)卒去。
飯川義実その節屋形の相伴たり、おなじく毒に当たりて死去す。
屋形臨終に綱連を招き、没後息男春丸を取り立て畠山家相続あるべきの趣、万事綱連へ任せ置くの旨遺命これあり。
かつまた伊州を招き、綱連と心を合わせ当家相続の義相計り述べるの由なり。
さて続光は仕すましたりと悦び、伊州を守り立て相続せしめんとしけれども、遺命といい諸士一同に承引せず。
いわんや続連・綱連同心なく、ついに春丸にぞきわまりける。
さて綱連伊州と相議り、伊州は本丸に入りて春丸を後見し、綱連は専ら国政を執り行う。
時に伊州私心なく春丸を守り立てるべく誠信を励まし、綱連と梱実はなはだ深く、万事心をともにして違戻これなし。
ここにおいて遊佐本謀を失う。
しかるところ同年義慶卒去の弊を窺い、越中一揆の将一向宗願海寺(本姓寺崎氏。一作に願会寺。あるいは願念寺。)並
びに直海万兵衛・蟹江下野・権田(一作に桂田)六郎・宮崎大学以下数千の人数を率し、能州へ乱入。
これにより綱連諸勢を率し二宮において一戦を遂げ越中勢を追い散らし勝利を得る。
討ち取る首百級なり。
願海寺輩その企てを議す。
時に同国井波の城主武部近江秀信、書翰を綱連並びに平・神保に送ってかの企てを内通す。
これは秀信内縁の好これありによりてなり。
ここにおいて綱連能国の諸勢を率い出陣、二宮において先鋒三宅長盛、権田六郎と一戦、越中勢利を失い敗走す。
時に願海寺はなはだ怒り、采幣を取りて兵士を励まし、南無阿弥陀仏の大文字の旗をなびかし進戦、権田また回戦す。
三宅の手戦敗、御方ほとんど危うし。
時に綱連二の手に指し続き、三宅の手を援戦を励ます。
家臣ら戦力を尽くす。
(馬口執り四郎右衛門矢に中たって死す。小者頭久米十郎かたわらにこれあり、相代わって轡を執る。)
畠山の臣長十郎右衛門、越中勢武部刑部と戦い討ち死にす。
そのほか松百千歳丸・杉原六郎・斎藤八郎・温井春朝ら数輩戦死す。
越中勢願海寺一族寺崎民部左衛門以下数多く討ち死にす。
ついに越中勢打ち負け引き退く。
直海・蟹江・願海寺三人は龍虎三法師とて隠れなき武功の者なり。
神保周防相戦い手傷を蒙る。
周防も武勇の誉れある者なれども、三人の強敵を相手にし、そのうえ手傷深ければ叶わずして相退く。
直海らも強いて追い襲わざりけり。
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以上。