長家家譜 (好連)



好連は連龍の嫡男なり。
天正十年出生。
母は綱連の息女玉君なり。
幼名熊松君、また安芸守なり。
慶長三年、利家は息女福君を嫁がせるべき旨を伝えた。
すなわち入輿、婚礼整う。
 好連卒去後、中川大隅へ再嫁。
 大隅上方へ退去の後、尼になり高源院と号す。
 子なき故、今枝民部直秀の二男を養子とし、前田七郎兵衛これなり。
 高源院は元和六年七月六日卒する。
同五年加州大聖寺の城主山口玄蕃頭宗永石田三成に与す。
これにより同年八月三日利長大聖寺攻城の節、好連(十九歳)初陣、連龍とともに出馬。
先手を勤め鐘丸へ押し詰め、城兵数多く討ち取るの軍功これあり。
同月九日利長帰陣の節、連龍・好連は殿を勤める。
大領野において小松城主丹羽長重兵を出し、その臣江口岩見ら進みて戦う。
両将は苦戦数回に及び、家臣数輩戦死。
この節好連乗馬鞍の前輪を鉄砲にて撃ち貫かれ傷蒙れども、勇気屈せず、士卒を励まし連龍とともに山代橋まで引き取り
、人数をまとめ備えを立てる。
小松勢この所より引き退く。
それより三堂山へ引き取りのところ、利長軍扇をもってあおぎ、「好連勇々しきふりなり。天晴れ九郎左衛門にもいや増す
べし。名を十左衛門と改めるべし」旨懇命によりて、すなわち十左衛門と改める。
利長帰陣の後、同月二十五日御書をもってのぼり絹十疋これを下す。
同九月中旬利長重ねて上方表発向につき、連龍とともに先鋒となり出軍す。
同十年十月朔日能州において新知千石を賜う。
同十一年連龍老年に及び候につき、領郡譲り家督相続。
同十二年駿府城普請の節、利長の名代として駿府へ行き御用を勤む。
同十五年尾州名古屋城普請の節、御用を仰せ付けられ候ところ、病気につき家来数多く差し遣わせ御用を勤む。
名代堀内兵左衛門。
同十六年九月十六日三十歳にて卒去。


ホームページへ戻る

以上。

禮=礼。 夫=それ等。 而=て等。 彌=いや等。 与=と等。 朔日=一日。