長家家譜 (連頼)



連頼は連龍の二男なり。
慶長九年十一月九日、越前丸岡の領、舟橋辺女形谷の谷村忠元という者方にて出生。
母は朝倉義景の臣窪田将監の娘なり。
 窪田は越前朝倉の侍大将なり。
 朝倉没落後、将監せがれ與左衛門浪々の身となり七尾へ来たり住す。
 この者妹一人あり。
 家臣田辺将監連龍へ申し上げるには、「彼の妹筋目といい良き人柄にて、何事に付けてもおとりたることなし。この者召
 し仕えられ幸い奥方の縮に仰せ付けしかるべく存じ奉り候」由申し上げければ、許容ありて召し仕える。
 慶長九年懐妊しければ、浦野孫右衛門を召して、「年も寄り娘らもありしければ、今度懐妊世上の聞こえも如何なり。
 奉公人分のことなればよきにはからい、いずれ方へなりとも遣わせたい」と示談あり。
 孫右衛門申すには、「恐れながら御意ごもっともに候得ども、好連公ご病身にていまだ若君もあらず、御出生の御子御男
 子に候はば悔いても詮なきこと。とにかく私にお預け遊ばされ候はば、傍輩にも隠し安産を見届けるべし。その後はいか
 ようにも才覚あるべしと存じ奉り候。そのうえ懐婦よき人柄にて、ご息女様方の御後見にも悪かるまじ」と理を尽くして
 諫め申し上げる。
 すなわち許容あり。
 孫右衛門懐婦の一門を尋ね、越前舟橋辺女形谷に近き一類ありけるゆえ、横目役両人指し副え預け置き、孫右衛門時
 々安否を問う。
 しかるところに男子出生の由飛脚到来。
 孫右衛門ひそかに連龍へ申し上げ、その夜ひそかに供をも連れず女形谷へ行き、それぞれ支配し良きように養育せしむ
 。
 ようやく四歳のとき加州へ母子とも呼び寄せ、加領のうち石川郡夫入道村の長百姓に預け置き、孫右衛門折々見廻り養
 育す。
 その後田鶴浜へ母子とも呼び寄せ養育ありしなり。
幼名長松丸君。
また左衛門二郎・左兵衛・安芸守と申す。
慶長十六年好連卒去。
 このとき高田與助とて佞臣あり、加州表に在勤す。
 この者思いけるは、連龍息女二人在す。
 この面々に婿を取り、左兵衛と三人に半郡を配分あらば、御家も繁栄なるべし。
 しからば前田孫四郎の息御坊君、連龍の姪孫松田太郎兵衛(太郎兵衛室は遊佐続光娘。実はいとこなり。姪分となる。)
 息小市郎をめあわさんと、すなわち松田に示談す。
 松田申しよう、宿老中及び家中諸士一統心服の上はいかようともあるべしという。
 高田思いけるは、いかに言うとも浦野は納得すまじ。
 しからば能州在住の士一統心服のところ計り難し。
 しょせん孫右衛門をたばかり仕廻んものをと言う。
 ここに横山城州の家臣土田将監というちなみの友あり。
 ひそかにこのことを語りければ、将監元来不才短慮の者なれば、それこそあれ御用と偽り孫右衛門を呼び寄せ候へ、我ら
 黒津舟に出迎え討ち取り申すべしという。
 高田能州へ飛脚をもって孫右衛門へ申し遣わしければ、頓して用意し馳せ上る。
 高松に至りぬれば、飛脚来たり屋敷よりとて状箱を指し出す。
 孫右衛門開き見れば徒党のことども始終の首尾を委敷調べ、孫右衛門は早速能州へ帰れと書きたり。
 それより人わずかにして馬をも返し、忍びて心静かによろず目を配り黒津舟を通りけれども、不審なる者見ずなり。
 (このとき土田将監煩い出し、黒津舟へ出ずという。)
 さて孫右衛門は前々本多房州へ入魂なれば、直ちに行きて委細申し述べ、このたびの儀ひとえに頼み候由、房州聞き委
 曲承届たり。
 左兵衛殿正しく好連殿の弟なり。
 子細はあらじ先ず早速罷り帰り休息あれ、物争なきようにと懇ろにこそ申す。
 それより孫右衛門は能州へ帰りける。
男子これなきにつき、家督連頼に相続させる度の旨、連龍より利長・利常御聴に達し、許容あり。
連龍後見あるべしの旨両公より御書賜る。
元和五年二月連龍卒去。
同四月二十日遣知能州鹿島半郡、及び加能加恩の地二千石都合三万三千石、相違なく相続判物頂戴。
その筋の名九郎左衛門に改める。 


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以上。

度=たい等。 夫々=それぞれ。 曁=および等。 夫=それ等。 偏=ひとえに等。 爰=ここに等。 少=わずかに等。 披=ひらく等。 先=まず等。