『総序』に学ぶ会〜案内文〜

毎回、前回の講義の一部を案内状にのせ、会のご案内をしています。
このたび、平野喜之先生に原稿の校正をしていただきました。
第2講ご案内(平成13年2月17日)
 題名は「顕浄土真実教行証文類序」ですが、総序の直後の標挙には「顕真実教」「顕真実行」「顕真実信」「顕真実証」とあります。「真実」は『涅槃経』をくぐれば「仏性」。この「性」という概念は、仏教では存在の根元性をあきらかにする概念です。「性」に対して「顕」。聖典のp.322、真仏土巻の御自釈を見てください。「惑染の衆生、ここにして性を見ることあたわず、煩悩に覆わるるがゆえに。『経』(涅槃経)には「我、十住の菩薩、少分仏性を見ると説く」と言えり。かるがゆえに知りぬ。安楽仏国に到れば、すなわち必ず仏性を顕す、本願力の回向に由るがゆえに。」「ここにして性を見ることあたわず」ということが大事ですね。こちらから「はからい」をもって知ることのできないものが「性」。にもかかわらず、「はからい」によって「性」を解釈し、その解釈に苦しんでいるのが人間存在。「性」自身からの呼びかけによって「はからっていたな」と気づく。それが「本願力の回向に由る」「顕仏性(真実)」でしょう。「性」という言葉は、現代の言葉でいえば「尊厳性」「平等性」「唯一性」という内容をもつのではないでしょうか。
第3講ご案内(平成13年4月21日)
 仏教は、お釈迦様が説かれた教えであるけれども、お釈迦様が説かれたから仏教というのではないと思いますね。お釈迦様が法を覚られ、その法を説かれたから仏教というのでしょう。法を国土という形で表現したものを浄土という。『摂大乗論』では、浄土の特徴を円浄という概念で表現しますが、円浄とは絶対満足という意味でしょう。『大経』では浄土が絶対満足の世界であるということを「もし食せんと欲う時は、七宝の鉢器、自然に前あり。(中略)百味の飲食、自然に盈満す。(中略)自然に飽食す。身心柔軟にして、味着するところなし。事已れば化して去る。時至ればまた現ず。かの仏国土は清浄安穏にして微妙快楽なり。」と表現しています。私たちの知恵では「ああ、老いるのは嫌だ。若いほうがいい。」と、老いを憎み若さに執着しますが、仏陀の智慧は老いれば老いることをそのまま満足して受け入れることができるのですね。その仏陀の智慧は私たちの心の深い底にあって命を支え、命に注文を付けている心を破ろうといつも呼びかけている。西田幾多郎に「わが心深き底あり喜も憂の波もとどかじと思ふ」という詩があります。この「深き底」からの呼びかけを南無阿弥陀仏というのですね。
第4講ご案内(平成13年6月16日)
 「真実」という言葉は、日常生活でも「あの事件の真実は・・・」というように、よく使いますね。しかし、仏教のテクニカルタームとしての「真実」は仏陀の無上正覚の内容を指すことに注意しなければなりません。これは安田先生がどこかでおっしゃられていましたが、「真実」には「円成実性」という意味があります。「真」は「仮」に対し「偽」に対す。「仮」は「依地起性」、「偽」は「遍計所執性」。『論註』には「真実」は「不顛倒」(顛倒=偽=遍計所執性)かつ「不変異」(変質=仮=依地起性)とありますから、「真実」は「円成実性」。さらに「円成実」とは「円満成就」を意味するといわれます。
 私が宗教を求めた理由は、「こういう生き方は本当の生き方ではない。」という虚偽感覚でした。「空しさ」の感覚といってもいいかもしれない。児玉先生はそういう感覚を「ネガの仏性」とおっしゃいました。ここで述べられている「真実」は「正しい」という意味ではなくて「満ち足りている」という絶対満足。この「真実」が私の空しさを照らし、呼びかけ続けて下さっている。それが求道生活を導いている。
第5講ご案内(平成13年8月25日)
 安田先生は、「浄土」と「生活」について、次のようにおっしゃっておられます。「国土とか身体とかは生活を表わす。外には国土を持ち、内には身を持つということは、そこに生きているということを表わす。身体は国土を食物として生きている。(中略)「生活」の「生」は生まれる、「活」は生きる。「生活」とは「生」まれて「活」きる。浄土は生活を離れては意味をなさない概念である。生活をもつということと、浄土に生まれるということとは同じことである。国土は考えるものではない。有る・無いということではない。いかなる国土を持つかであって、有るとか無いとかではない。「土」とは生活環境である。「身」ということは生活ということで尽くされる。」『大経』には法蔵はもと国王だったと記されています。国王とは生活環境に対して王(自分以外は自分の家来か奴隷)という関わり方をしている我々の姿ですね。その法蔵が仏陀との出遇いによって凡夫のまま、菩薩という生き方に転換されます。それが、浄土に生まれ活きるということでしょう。そういう生活こそが「空しさ」や「不安」を乗り越える生活であるというのが、法蔵菩薩の物語の現代的意味でしょうね。
第6講ご案内(平成13年10月13日)
 浄土とは「バラバラでいっしょ」の世界といわれます。では「バラバラでいっしょ」をどういただくかが問題ですね。念仏は「バラバラ=宿業の異なったもの」が「いっしょ=共」に生きるという課題を呼びかけてくる。「バラバラはバラバラでいいさ」と開き直ったり、「バラバラをいっしょにしよう」と努力したりするのが我々凡夫の知恵。それに対して「バラバラがバラバラのままでしかもどこでいっしょになれるか」を課題として呼びかける。法界はそれがすでに実現していますね。「見るはたらき(眼根)」「聞くはたらき(耳根)「嗅ぐはたらき(鼻根)」「味わうはたらき(舌根)」等は、お互いにさまたげあわず、独立しながら統一するものなくしてしかも統一している。法界はいわば「独立者の共同体」です。その法界から、色や形や性格、民族や習慣などの違いによって差別し排除しあっている我々に呼びかける言葉が「バラバラいっしょ」でしょう。
第7講ご案内(平成13年12月1日)
 『文類聚鈔』に「濁世の目足」という言葉が置かれています。「総序」でいえば、「弘誓」が難度海を度する「大船=足」となり、「光明」が無明の闇を破る「恵日=目」となる、ということですね。安田先生は「仏教の純粋内容は縁起である」とおっしゃいます。「縁起」とは、「ある」とは「縁って起こる」、ということです。そのことをよく知らせる言葉が名号でしょう。「難度海」の「海」とは私自身ですね。私の上には優越感や劣等感、名利や愛欲の心が一瞬のすき間もなく起こってきて、私の生活をうっとうしくさせています。しかし、「無明の闇」とはその煩悩のことではありません。自分の上に起こってきて自分を苦しめている煩悩を何とかしよう、努力すれば何とかできる、何とかして生活を明るくしよう。これが「無明の闇」です。そのとき名号は呼びかけてきます。「煩悩には実体はない。実体があれば、断つこともできるだろう。しかし、煩悩は無始曠劫以来積み重ねてきた悪業に縁って起こっているものである。無限の悪業に縁って起こっているものをどうして今断つことができるだろうか。無限の智慧であり無限の慈悲であり無限の能力である私の名をよべ。」この呼びかけを聞いて、それに加えて名を呼ぶこと(称名)が救いではありません。聞こえてきた(目になった)ということ(聞其名号)が即救い(光明)です。聞こえてきたのは長い間の聞法生活の結果ですが、それは自分が歩んだのではなく自分をして歩ませ続けてきた「足」のおかげ。私の「足」となって苦労してくださった。そこに感じるのが「弘誓」でしょう。
第8講ご案内(平成14年2月23日)
 私は大学で数学を専門に学んでおりました。私が数学を学びたいと思った理由は、問題を解くのが面白いとか数式の美しさに魅せられたということですが、ヨーロッパの数学史を学んでみると、彼らの数学を研究する大きな動機の一つに、神に対する崇拝の気持ちがあるようですね。自然の規則正しさ(たとえば葉っぱのつきかたがフィボナッチ数列であるとか)が神によるものであり、自然は神がつくったのだから、その規則を発見し研究することは神の素晴らしさを知っていくことだと。その知識が「自然を自分の思いどうりにしたい人間の欲望」と結びついて、近代の科学技術が発達してきたということです。しかし、科学技術の発達にはいろいろな問題(原子爆弾や環境破壊、汚染など)があることは皆さんご承知のことでしょう。その科学技術の問題を科学技術で解決しようとしてますます問題を増やしてしまうことをある哲学者は「科学技術のニヒリズム」と呼びました。こういう問題に対して仏教はどう答えるか。この問題における「無明の闇」とは、「世界を自分の思いどうりにしたい人間の欲望」ではなく、「自然は神がつくった」という「解釈=はからい」でしょう。「意味を問い、意味として世界を把握する態度に潜む根源的な我執性」=「はからい」、これを照らし破るのが名号ですね。
第9講ご案内(平成14年4月27日)
 「経済とは、承認欲望を贈与ないし交換のシステムによって処理する体制である。政治とは、国家の形式において、承認欲望を実現する体制である。現世内存在とは、経済的人間であり、政治的人間である。経済や政治は、暴力を制度的に抑制しつつ、同時に新しい別種の暴力を生産するメカニズムである。現世あるいは俗世間が「五濁悪世」である理由は、根源に承認欲望をかかえることにある。」(今村仁司氏)今村仁司氏は近代の問題を「承認欲望」で押さえられますね。「承認欲望」とは「自分の価値を他人に承認させようという欲望」。親鸞聖人の言葉でいえば「愛欲と名利」でしょう。「無明の闇」とは、「承認欲望は努力して沢山の人に認められれば必ず満足するものだ」という「思い込み」ですね。しかし、実際は「承認欲望」は無限である。こういう問題に対して仏教はどう答えるか。それは、如来から認められている(自分は如来内存在である)ことが腹の底から分かることによって自然に解決する。如来から認められていることが本当に明らかになれば(南無阿弥陀仏をとなうれば)、「まもられている」という生活感覚が自然に生まれてきます。そうすると、自分の地位や権力で自分をまもらなくてもよい。これは不思議なことでしょう。『現世利益和讃』(聖典p.487、489)は「まもる」で一貫されています。
第10講ご案内(平成14年6月22日)
 曽我先生は「無明の闇」を「仏智疑惑の罪」で押さえられます。その発想はたぶん「難信金剛の信楽は、疑いを除き・・・」からきているのでしょう。「難信」や「疑い」は「仏智」に対してですが、再往「自分に与えられたご縁」に対してといってもいいのではないでしょうか。すると「仏智疑惑の罪」とは「自分に与えられたご縁に不足を感ずる」ことになります。清沢先生にこういう文章があります。「請うなかれ、求むるなかれ、汝、何の不足かある。もし不足ありと思わば、これ汝の不信にあらずや。如来は、汝がために必要なるものを、汝に付与したるにあらずや。もしその付与において不充分なるも、汝は決して、これ以外に満足を得ることあたわざるにあらずや。」この道理をよくよく知って、不足の原因を「与えられたご縁」に見ずに、「もっともっと」の心に見ようとすること。そこから仏道は始まります。しかし「もっともっと」の心はどれだけ修行してもなくならないですね。かといって、もうこの道を引き返すわけにはいかない。が、進むこともできない。その行き詰まりが求道上の最大の難関でしょう。この行き詰まりを乗り越えることが出来たというのが、親鸞聖人にとっての法然上人との出遇いの意味(雑行を棄てて本願に帰す)でしょう。
第11講ご案内(平成14年8月17日)
 誰の本だったか忘れましたが、面白い譬えが書いてありました。「雪道を歩いていると足跡がつく。足跡は煩悩の譬えである。修行するとはその足跡を消すこと、つまり煩悩を断つこと。我々の目からみれば、一歩歩くたびに目の前の足跡は消えていく(消しているのだから)。しかし、実は一歩歩くたびに後ろに一つ足跡が増える。これは我々の目には見えないが、たしかに増えているのだ。」皆さんはこの「一歩歩くたびに後ろに一つ足跡が増える」と言ったときの「足跡」はどんな「足跡」だと思われますか。「煩悩一つ消したぞ」という分別からくる思い上がりがその「足跡」ではないですかね。親鸞聖人は自らを非僧非俗といわれましたが、僧侶にはどうしても、「煩悩を一つ消したぞ」という「思い込み」によって、「俺は俗ではないんだ、聖なるものだ」という「思い上がり」がひっついてくるでしょう。こうなると結局、「修行」が「自分の名利のための修行」になりますね。これを「退転」というのでしょう。「退転」は「地獄」に墜ちるよりも恐ろしいといわれます。名利を断つためにしているつもりの修行が結局名利を満足させるための修行になっていて、本人はそれに気づかない。泥沼から抜け出ようとすることがますます泥沼に入ることになる。この矛盾こそ自力の限界ですね。そういう無明性、無明の深さを「闇」といわれたのでしょう。