
※順教寺までお参りください。
| お盆とは「盂蘭盆会(うらぼんえ)といって、『盂蘭盆経』による釈尊のお弟子・目連尊者(もくれんそんじゃ)の物語に由来するものです。盂蘭盆とは、もともと梵語(ぼんご)のウランバナーを音訳したもので、「木にさかさに吊(つ)るされたような苦しみ」という意味です。つまり、「真実に背いて、さかさまごとをやりながら生きている人間の生きざま」をいうのです。目連尊者は釈尊の教えにより、餓鬼道(がきどう)におちて苦しむ母を百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき)をもって修行僧に供養し、その功徳により救ったという経説が行事となったものがお盆なのです。 (『ほとけの子 夏のしおり お盆 』 東本願寺より) |
|---|
| お 盆 盆会(ぼんえ)は、限りなくひろく、長いいのちの関わりを、直接に私に伝えてくださった方として、親やご先祖の御恩を念ずる法会であることを意味しています。 私たち一人ひとりのいのちは、それぞれの身に賜(たまわ)っているものです。しかし、そのいのちは、決して、それぞれ個人のいのちとして、単独で、バラバラにあるものではないのです。たとえば、四十四歳の時、旧里・伊賀上野にかえった芭蕉(ばしょう)は、 慈愛のむかしも悲しく、おもうことのみあまたありて 旧里や 臍(ほぞ)の緒(お)に泣く としの暮 とうたっています。「臍の緒」、それは自分のいのちがしっかりと親のいのちにつながっていることの証でしょう。そしてその「臍の緒」は、限りなく長い歴史を次々とつないでいるのです。その始まりも、行きつく先も見通せないほどに長いいのちの歴史と、広い世界を内容として、私は今、このいのちを身に賜っているのです。そのことを思い知らされる時、私たちは、このいのちを賜っていることに、ただごとではないということを感ずるのです。そして実は、今この身に賜っているいのちを、ただごとではないいのちとして尊ぶということなしには、先祖供養ということはありえないのです。 私たちが盆会を縁として相集う時、なんとなく心落ちつき、安らぐのを感ずるのも、お互いこの身にいただいているいのちのつながりやひろがりの、限りないことを感じとり、共に同じ心を賜って生きているということを、体が感じとっているからなのだと思えるのです。 (宮城 /九州大谷短期大学名誉教授) 『お盆 2006』(東本願寺より) |