| ■会の願い |
| 2011年に宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を迎えますが、当寺御遠忌テーマ「私にとって宗祖親鸞聖人とは〜あなたは何に依って生きていきますか?〜」が私にとって大きな課題となりました。そして「私はなぜ親鸞聖人を宗祖とよばなければならないのか」が、私のなかでとても曖昧であることに気づきました。ここであらためて親鸞聖人の歩まれたご生涯から、現代を生きる私たちが何を学ぶことができるのかをたずねていきたいと思っています。宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌をお迎えするにあたって、当寺の取り組みの一つとしてこの会をはじめたいと存じます。どなたでもご参加ください。ともに学んでいきましょう。 (担当:順教寺 細川公英) |
| ■日時(毎月1回、午後2時より) ※これまでの記録はこちらからどうぞ。 |
| ■場所 |
| 順教寺 (金沢市北寺町) |
| ■テキスト |
| 『宗祖親鸞聖人』(東本願寺) |
| ■参考書 『宗祖聖人親鸞ー生涯とその教え』(宮城著、東本願寺)より |
| なぜ、ご生涯に学ぶのか(P2〜4) テキストのはじめに、『宗祖親鸞聖人』発刊についてという一文があります。まずはじめには、このテキストが「真宗の人間像」をあきらかにすること、そのために「得道(とくどう)の人」として親鸞聖人(1173〜1262)のご生涯に学ぶことを第一の願いとするものであることを記しています。 もともと私たちは、親鸞聖人によって明らかにされた本願念仏の法に生きることを願いとするものであります。そして、親鸞聖人は、その本願念仏の大道を『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)として明確に開顕してくださっており、さらにその意(こころ)を和讃、多くの仮名聖教(しょうぎょう)として、くりかえし事こまかに伝えてくださっています。そして今日、そのすべては『真宗聖典』(東本願寺出版部刊)として編纂され、公にされています。ですから、私たちは、その『真宗聖典』(聖典と略称する)をこそくりかえし学び、その意を理解することを専一にすればよいのであって、その上にまたあらためて、なぜ親鸞聖人のご生涯を学ばなければならないのか、そのことが疑問になるかと思います。 その疑問に答えて、ここには、宗祖ご自身がその『教行信証』にご引用になっている『涅槃経(ねはんぎょう)』の信不具足の文の一部があげられています。「ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜ」(聖典二三〇頁)ないということは、教法の真理性を信ずるばかりで、その真実性を信じないということを意味しています。真理が現実に人間の生活の事実として生きてはたらいていることを信じないのです。教法が、知的理解の対象になっているばかりで、自分の生活全体を支え、導く力として生きてはたらいていないのです。テキストの第二章に、善導大師の解学(げがく)と行学(ぎょうがく)ということばづかいがでてきますが、「得道の人あることを信ぜ」ないのは、まさに解学の徒にとどまっているということであります。本来、信仰ということは、何かを理解し、わかったということではなく、自分の生活を見いだしたということです。身の事実、生活の状況がいかにもあれ、そのなかで、賜ったことの生涯を歓び、賜ったこの命を燃やして生ききる勇気と情熱を賜ることです。そのような生活への態度、選びとして信仰が生きられていくこととして、行学ということがいわれるのでしょう。 そしてそのような、人生に対する真宗人としての態度を学ぶこととして、「宗祖親鸞聖人」のご生涯を学ぶことが願われるのであります。本願念仏の法に聞思(もんし)していかれたその宗祖のご生涯は、そのまま、教えを聞くということはどういうことかを示してくださっているのであります。すなわち、、宗祖のご生涯は、真宗そのものを物語っておられるご生涯であります。もし、宗祖のご生涯に学ぶということがなければ、私たちの聞法も、その姿勢を問い直す手がかりを失い、独善的なものになることが思われるのです。 |
| なぜ、「宗祖」なのか(1)(P6〜8) しかしそれならば、このテキストの『宗祖親鸞聖人』という表題は不適当ではないか、という疑問がでてまいります。また事実そういう問いかけや批判もうけました。つまり、宗祖、さらには聖人ということばすらいらない、ただ『親鸞』とする方が、大きくひろがりをもつのではないか、ということであります。 しかし、どうもそのように質問され、批判されますときの宗祖は、ただ単に、この真宗大谷派という宗派の開祖という意味でしかないようです。もし宗祖ということが、ただそれだけの意味ならば、そのときの宗祖親鸞聖人は、八〇〇年前に生まれた歴史上の過去の人でしかありません。 もとより、宗祖ということばには、一宗の祖という意味がありますが、その一宗という意味が、いわゆる天台宗、真言宗、日蓮宗など八家九宗、あるいは十宗、十二宗などと数えられる各宗派のなかの一つ、という意味でのみ考えられるなら、やはり、そのときの親鸞聖人は、鎌倉時代に浄土真宗を開かれた、過去の宗教的偉人という意味をでません。 しかし、本来、「宗」というのは、その文字そのものが示すように、命がそれによって生まれ出(い)て、命がそれに帰(き)してゆく、命の帰依処(きえしょ)であります。まさしく、命の宗(むね)、人間の魂そのものであります。その意味で、「大谷派なる宗門は、大谷派なる宗教的精神の存する所に在り」(「教界時言」・清沢満之全集四・二九二頁)という有名な清沢満之師(1863〜1903)のことばは、まさしくその宗の意義をいいきられたものといえます。 ただ、その「大谷派なる宗教的精神」というものは、どこか空中に漂っているというものではありません。精神は常に現実の人間のありようとしてのみ、具体的なのであります。つまり、大谷派なる宗教的精神に生きる一人の人間の上に、具体的なのです。そしてそのことは、さらにいえば、この私においてうなずかれ、生きられるときにのみ、具体的だということです。 曽我量深師が「一宗とは真実(ほんとう)は我が一宗ということである」(「一宗の繁昌」曽我量深説教隨聞記1・一〇頁)といいきられ、、「たいがいの人は、我が一宗を忘れている。どこかに、さまよう一宗があると思っている。誰の宗かわからぬ傍観者には、一宗はわからぬ」と注意をうながしておられるのも、そのことだと思います。そして師は、「一宗の繁昌と申すは、一人なりとも、人の、信を取るが、一宗の繁昌に候う」(聖典八七七頁)という蓮如上人のことばの、その一人を、「この一人は自分のこと」と押えられ、「最も大切な、肝要なところを宗という。これ以外に浄土真宗はない。自分が繁昌することが浄土真宗の繁昌、これ以外に浄土真宗の繁昌はどこにもないと、蓮如上人が話されたのであろう。浄土真宗とは我がほんとうに生きて、生かされている、ほんとうに現に生きていること以外に浄土真宗の繁昌はどこにもない」と、一宗の繁昌の根本義を述べておられるのです。 |
| なぜ、「宗祖なのか」(2)(P.8〜10) その意味で、古来、「宗」を宗門と呼びならわしていることは、大変的確な表現だと思います。宗門は、宗即ち門であります。門は、入るべきところを公に示すとともに、そこから出て外にはたらきかけてゆく願心をあらわしもしています。そして、門においてその歩みは方向をもつのであって、門を見いだすまでは、その歩みは単なる右往左往にすぎません。 しかも、その門は、実際にそこをくぐって出入りする人において、はじめて、具体的に門という意味をもつのです。実際にその門をくぐって出入りしようとしないものにとっては、門も塀も、つづまるところは同じです。身をあげてその門をくぐるとき、そのときはじめて、宗門・宗派・宗は、私に現在するのです。親鸞聖人において開かれてきた、この真宗大谷派なる宗派において、「わが一宗」を見いだすとき、そのときはじめて、親鸞聖人は、私にとって「宗祖」という意味をもつのであります。 ですから、私たち一人ひとりが、それぞれの人生を歩むなかで、親鸞聖人をわが「宗祖」として出遇ってゆくのです。その意味で、「宗祖親鸞聖人」は過去の人ではなく、一人ひとりがこれから出遇ってゆく、未来の人なのであります。 つまり、「宗祖親鸞聖人」というその「宗祖」ということばは、けっして親鸞聖人を権威づけ、限定するものではなく、逆に、親鸞聖人に向かい、開いてゆく私たち一人ひとりの姿勢をこそ定めることばなのです。 親鸞聖人は、その生涯をかけて宗を求め、宗を見いだし、その宗を表現してくださいました。その親鸞聖人を宗祖と呼べるかどうかは、これからの私たち一人ひとりの課題なのであります。このテキストを学ぶことにおいて、親鸞聖人のご生涯から問われてくることは、そのこと一つなのであります。 しかもまた実は、そのようにして、親鸞聖人をわが宗祖と呼ぶことのできた人々の、その感動のなかから生まれてきたものが、この真宗大谷派なる宗門であります。したがって、親鸞聖人を宗祖として仰ぎ、そのあきらかにされた教法にみずからもまた帰命(きみょう)ゆくとき、そのときには必ず、同じ念仏の人々との出遇いを、その宗、道においてもつのであります。 教法に照らしだされた「我」は、そのとき、「我」の内容として、その教法から、その教法の世界を賜るのであります。それは具体的には、心光常護の世界であり、諸仏に護念され、冥衆(みょうしゅう)に護持されているものとしての自己発見であります。呼ばれ、うながされているものとしての「我」であります。 「宗祖親鸞聖人」と向かい合い、その生涯に、みずからが、念仏者として生きる姿勢を学ぶということは、宗祖において、そのような念仏者の歴史を見いだすことであります。念仏者の歴史をつらぬいて流れる教法が、今現に、この私をも包み、流れており、したがって、この私のかかわるすべての人々をも包んではたらいていることを、信ずることなのであります。 |
