加賀における金花糖の歩みとは?

 畠山氏の七尾城  利家とまつの像  キリシタンの本行寺  前田利家像
 高山右近像
 金花糖の型      中小企業長官賞  金花糖を飾る風習が続いています  再建された石川門
 高岡の大仏さん  成巽閣  江戸上屋敷の赤門  瑞泉寺の彫刻  前田利長像

加賀の百万石文化の基礎は、 能登の守護、七代目畠山義総(よしふさ)が乱世で、京都か
ら頼って来た文化人を、招き入れ、古典・連歌・和歌・茶の湯が盛んになり京都の文化が能
登に華開いたのが始まりだと思われます。前田利家が七尾に入り、小丸山に城を築 き信長
より能登一国を与えられました。 そこで畠山文化が前田利家に継承されて行きます。
この時代は南蛮文化の鉄砲が伝り、これまでの戦の仕方が大きく変った変革の時代です。
それで、前田利家は七尾の本行寺にて、キリスト宣教師から西洋文化を 高山右近や板屋
兵四朗など、加賀藩の家臣達に最新の西洋技術、特に水に関する知識を学ばせました。
此処に、加賀百万石の城造り、国造りの原点があります。 南蛮菓子との接点も此処にあった
様 に思れます。
一方、井波の瑞泉寺が宝暦13年(1763)再建され、京都の高度な寺院建築の彫刻の技術が
加賀に伝わり、 明和年間(1760)以降より、細かな文様の落雁の木型が造られ始め、金花糖
の木型の原型があるように考えらます。
その時代に豊臣五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・長束正家)、の1人増田長盛の子孫が
江戸で菓子商を起こす前に一時、金沢に滞在し名を金沢丹後と名乗り「加賀の菓子職人」を連れ
て江戸で幕府や水戸藩、加賀藩、薩摩藩の御用菓子商になりました。中でも有平糖の技術の素
晴らしさは江戸の菓子商の中でも一番でした。
金沢丹後の上野店の開業は元文年間(1736〜1740)です。
    川柳に 「蝶の来て舞ふ金沢が見世」 安永年間(1772〜80)
その後、金沢丹後の番頭や手代の人が金沢屋松林、大仏屋金沢と名乗り大正末まで、子供向きの
金花糖を作って大そう人気があったそうです。
        (江戸菓子文様  金沢復一著 有限会社 青蛙房(せいあぼう) 1966年発行 参照) 
文化、文政の頃には金花糖が殿への献上菓子として 武士の間に用いられる様になりました。
砂糖の輸入が多かったのは元禄から享保(1688〜1735)頃で、砂糖が輸入禁止になるのは
文化 文政(1804〜1829)頃です。
金花糖が庶民の間に広まるのは大正から昭和の始めに なってからだと云れています。
キャラメルが大正10年頃に発売されましたが、太平洋戦争になると 砂糖の配給停止になり
戦後甘い菓子が切望され、 駄菓子の中でも金花糖は子供の人気の 菓子でした。            

年代を追って菓子(金花糖)との関わりを探ってみました。
七尾城跡 「能登の守護・畠山が築いた七尾城」
文人畠山義総(よしふさ)の文芸交流関係で京都の歌人・連歌人たちが
七尾に来て和歌や蓮歌の会を開きここに京都の文化が華開きました。
茶人の円山梅雪(まるやまばいせつ)も活躍していました 。
七尾小丸山公園 「写真は七尾小丸山公園案内板より」
畠山氏→上杉謙信→織田信長=前田利家が小丸山に新しく城を築きましが、 豊臣秀吉より石川郡、河北郡が与えられたので、金沢城 に移ります。 この所に円山梅雪の西の館があったので、今も丸山の地名が残って います。
小島町の本行寺 「右近ゆかりの本行寺」 円山梅雪の妻は室町時代の全国一の酒造業の柳家の娘柳姫で柳家は法華宗京都妙蓮寺を建立し末寺が本行寺です。
茶室「きく亭」を中心に 茶の文化と西洋文化の交流で加賀藩の基礎がここで築かれてます。 高山右近、板屋兵四朗等が西洋文化を吸収する重要な場所でした。
前田利家像 「白鳥堀跡に建つ前田利家像」   天正11年(1583年)4月27日(今の6月14日)金沢城に前田利家が入城。 石川、河北、越中三郡、越中新川郡を治め加賀百万石の礎を築きます。 四十六歳金沢城主になり大阪で六十二歳で生涯を終えます。
大手門の石垣 「高山右近の指導で築かれた尾坂門の遺構」
南坊は慶長4年(1599年)金沢城の修築、慶長14年(1609年)高岡城の縄張りをする。 前田利家亡き後前田利長に仕える。今も金沢に残る内惣堀を指揮して作り上げる。 慶長18年主君利長に迷惑をおそれ加賀の国を離れマニラへ渡ります。
静かに眠る甫庵 1625年寛永2年小瀬甫庵(おぜほあん)が、金沢で書き上げた太閤記には伴天連の布教態度を述べているのに「上戸にはチンタ(酒)、葡萄酒・・
下戸には、カステイラ・ボウル・カルメヒラ・アルヘイ糖・コンヘイ糖などを
もてなし、我宗門に引入る事、尤(ゆう)もふかかりしなり」と記されます。
今、甫庵は金沢の東山の普明院に静かに眠っています。
甫庵は尾張の国に生まれ医学、儒学に優れ松江城の縄張りも行いました。三代藩主利常に招かれ、息子と共に犀川の二筋の流れを一筋にして現在の河原町や片町が生まれました。又浅野川の寺院を集め今の卯辰山山麓寺院郡が出来ました。今の金沢の町造りの原型の基作りに活躍しました。
太閤記の完成は寛永2年(1625)頃です。
橋爪門・続櫓・五十間長屋・菱櫓 「復元された橋爪門・続櫓・五十間長屋・菱櫓」
三代藩主利常(としつね)は徳川幕府の取り潰しを防ぎ、城内でたびたび火災が起きるので、板屋兵四朗に辰巳用水を完成させました。     
五代藩主綱紀(つなのり)は学問を好み、民衆を大事にする政治に心がけ
「天下の名主」と 云われました。
菓子の木型 「落雁の型」井波別院瑞泉寺は本願寺第五世綽如上人よって建てられる。後小松天皇の勅願所 です。 明徳元年(1390年)に建立。落雁は綽如上人が後小松天皇に献上した時に 白色に胡麻が散らしてあるのを雁の渡る様に似ているので落雁と名付けられたと云われます。
江戸中期に菓子の木型が造られる様になります。
加賀藩江戸上屋敷跡 「加賀藩江戸上屋敷跡」 東大赤門は十三代藩主前田斉泰に嫁いだ将軍家斉の娘の溶姫のために造営されました。この頃、藩主は江戸と加賀を
各年毎に滞在する暮らしをしていました。 加賀と江戸の菓子文化の交流が
有ったので菓子の技術が向上していきました。
成巽閣 「生母真竜院の隠居所として造営された成巽閣」
13代藩主の前田斉泰が文久3年(1863年)生母のために建てました。 この時代に金花糖が金沢で造られました。この頃は飢饉で2000人が卯辰山で城に向かって叫んで七人が死罪となる事件がありました。
金花糖を造る銅鍋 「金花糖を造る銅鍋」
金花糖を造る上で重要な銅鍋です。加賀藩主前田利長が鋳物師を高岡に招いたのが始まりで銑鉄の鋳物から、宝歴年間(1751〜1763))頃銅の鋳物が始まります。
この銅器の技術で出来た鍋が無ければ、良い金花糖が出来ません。
金花糖の木型  「金花糖の木型です」  宝暦13年(1763)、瑞泉寺本堂再建の時、京都より御用彫刻師・前川三四朗が来て彫刻の技術を広めました。この井波の彫刻の技術が加賀の落雁の型にも伝わったと考えられます。 この頃には
砂糖も国産され価格も下がり、落雁や金花糖の木型も作り始めました。
くまもと菓子博2002 「くまもと菓子博2002」
第24回全国菓子大博覧会九州in熊本で中小企業庁長官賞を受賞。

金花糖は分類的には有平糖に入りますが、私的に考えるに、金花糖はカルメラが基礎ではないかと
思います。 金花糖の製造方法はカルメラの造り方と同じです。砂糖を強く煮詰めて卵白を入れると
カルメラの完成です。金花糖は砂糖を煮詰め卵白を入れずに 最初は落雁の小さな型に流し込み、
何かの拍子にひっくり返し中が空洞になるのが解り、それから有平糖の野菜や果物などの吹き物に
似せて種類も多くなった様に思います。
江戸の後期には雛段の前に貝類や果物の形をしたお菓子が飾られる様になり金花糖が日持ちする
ので、段々と盛んになって来たのではないかと思います。

「カルメラ」の作業風景
強く煮詰める
卵白を少量入れ回す
膨らんでくる
下がってくる
今度は上がってくる
切り割りを付ける
カルメラ完成
「金花糖」の作業風景
120℃位煮詰める
火床から下ろし回す
泡があがってくる
型に流す
すぐにひっくり返す
冷まして型から外す
色を付けて完成

参考文献
     江戸菓子文様  金沢復一著 有限会社 青蛙房(せいあぼう) 1966
     落雁        徳力彦之助         三彩社          1975
     アクタス      驚き、卯辰山寺院群   その1
*このページは未完成です。金花糖に関する事項、その他、間違っている点、ご指摘下さい。
                                          よろしくお願い申し上げます。