金花糖のちょこっと歴史です。

 【金花糖・金華糖】についての       
    古い記述については下記を参考にして下さい!

【名】アルヘイ糖の一種。白砂糖を練って、型に入れて焼き、刷毛(はけ)などで彩色を施し、鯉、鮒 (ふな)、竹の子などの種々の形につくったもの。
* 随筆・守貞謾稿(1837〜53)二八「有平は専ら種々の形を手造りにするもの多し。然るに、近年京坂にて鎔製にするものあり。 白砂糖を練り、鎔形を以て焼き、而後に筆刷毛等にて彩を施し鯉、鮒、うど、竹の子、蓮根、其他種々を製す。 真物の如し。 号けて金花糖と云。嘉永に至り江戸にも伝へ製す」             
* 改正増補和英語林集成(1886)  「K i n k w a tB キ ン ク ヮ ト ウ」
* 銀の匙(1913〜15)<中勘助>一三「あっちこっち菓子箱の蓋をあけてみせる。きんか糖、きんぎょく糖、てんもん糖、微塵棒(みぢんぼう)」  [発音] キンカトー <標ア>
                    参考文献 (小学館 日本国語大辞典 第二版) より

花糖と有平糖の違いは金花糖は砂糖水を煮詰めて、鍋を火床から 降ろして棒で攪拌して、白くなるまで回し、桜材の割り型の
穴から流して、中を空洞にする為に、すぐに鍋に戻して作るのに対して、有平糖は砂糖水に水飴を少し加えて金花糖の時より
強く煮詰めてから、別の冷やし容 器に流し込み水に浮かべた容器を回しながら、なるべく最小限の手加減で透明な飴の状態まで冷ま
します。それを小さく切り、暖めながら、ひとつずつ手作りで「さくら」「つくし」「わらび」などに仕上げます。
金花糖は、板状のものと中が空洞の2種類があります。中が空洞の金花糖は、当時としては南蛮人が持ち込んだ貴重な砂糖を用いて
造ったと考えられます。 現代とは違って砂糖で作られた金花糖は、高価な、もてなしのお菓子であったと考えられます。
長崎から伝わった砂糖文化は九州から上方を経て江戸へと伝えられ、その文化は諸国の大名によって各地方に伝わり、その土地の
風土、風習の中で育まれ、生姜糖、ハッカ糖、棒に付けた金花糖、又子供が喜ぶ可愛い動物達や、お正月の縁起物等、色々な金花糖
が各地にあります。 
賀藩では十三代藩主斉泰(1811〜1884)の時代から作り始めたといわれています。利家が天正3年に越前府中で大名になり、
天正16年に高山右近を迎えるなど諸国の武士を加えたので、各地の文化風習が加賀の国に入り砂糖文化も最初は武家の
間に広まり庶民に広まるのは明治になってからです。金沢を中心とした地域では、武家文化が色濃く残ったのか、割と大きく鮮やかな
形をしたのが好まれ、大ぶりなのが特徴です。金花糖は、おめでたいお祝いの席に使われて来ましたが今日でも桃の節句の時には
お雛様のお供え物として盛んに使われ、女の子が生まれると、「お雛さま」と一緒にお嫁さんの実家から華やかな金花糖が贈られ、
女児の成長を願う家族の気持ちを「お雛さま」に託して、春を彩る初物を象った海の幸、山の幸を表現した金花糖を「お雛さま」の前に
飾る風習が今でも続いています。 寒い季節の中で「お雛さん」を飾ってある部屋は心暖まる空間です。 
その他に金沢ではお正月用の縁起の良い達磨さん、招き猫、恵比寿さん等の金花糖もあります。                                                                              
度は金花糖を造る上で大変重要です。大きい金花糖は煮つめる温度を強く、小さい金花糖は少し弱めにして作業を行ないます。
薄くて固い金花糖を作るには砂糖の純度が高く無ければならないので当店では白双糖を使用しています。金花糖は砂糖の固ま
る性質を上手く利用した御菓子です。金花糖の原料はお砂糖と溶かすための水だけです。 仕上げには色付けをします。
又木型を使って作るお菓子は職人の手が直接お菓子に触れない事から昔から祭祀用として利用されて来ました。

*このページは未完成です。金花糖に関する事項、その他、間違っている点、ご指摘下さい。 よろしくお願い申し上げます。