ANTIQUE花小筐 花がたみ
上 陽子

連載その6 着物とおんな心

 すべてが急げ急げといっているような年である。
 桜がいつもの年より早いようで、この春は着物を着て花見に出かけたいと思っていた私を慌てさせている。というのもいくつか理由があり、着物をまだうまく着こせないこと、ふたつめは着物を着ている自分に気恥ずかしさを覚えること、みっつめはこの人と一緒に歩きたいという人がまだできていないこと・・・・。
 これまで着物を着る機会といったら結婚式くらい。私が子供の頃、父は仕事から帰ってくると必ず着物に着替えていたのに、なぜ身近に感じなかったのか不思議である。たぶん金沢が友禅の産地であったことが、着物=はれ着と刷り込まれ、着物をふだんに着るものと感じなかったように思う。ところが骨董のおかげで、各地、各時代のすてきな古布や着物と出会い、がぜん着物を着たくなった。
 なかでも「銘仙」という絹絣の着物が面白かった。骨董の世界では縮緬や大島などは高く売買されなかなか手が伸びないが(といっても今呉服屋さんで買うよりがずっとお得)、銘仙は広く大衆に愛されたぶん数が多いので、未だ安価で手にすることができるし、その文様や色彩感覚が斬新で目を瞠らせた。
 日本の着物の文様は、古来は美しいだけの文様が施されることは少なく、着せる側や着手の願い、思いがこめられたり、文学的な意味合いを持っていることが多かった。たとえば麻の葉紋などは、麻は荒れた大地でもよく育つことから、我が子が強く元気に育つようにと子供の着物に施された。また杜若は流水や板橋とともに表現され、それは伊勢物語の第九段の一節を表した。思うに着物というものは着る人の心をなんと豊かに表現していたものだろう。
 その心、表現は近世以降、残念ながら少しずつ失われたが、変わってデザインとしての古来からの文様に時代の空気が加味されたのが銘仙の着物と言える。銘仙はもともと養蚕農家が屑繭などを使って家内用に織り上げた太織から始まったといわれ、産地は養蚕のさかんだった桐生、足利、八王子、飯能、越後など全国各地。江戸時代中頃に、その緻密に織り上げられ光沢のある絹織物が江戸や京阪で好まれ、産業として発展していった。その当時は無地や細い縞柄を織った物が多かったので目千とも呼ばれていた。明治の後半には産業革命により技術も進歩し急激に普及、広く大衆の中に広まっていた。
 大正7、8年頃は好景気の世相を反映し、矢羽根、菊花などの紋様が大柄に入り、色彩も派手なものが流行。昭和に入ると琳派を思わすような流水に大輪の朝顔など華やかなものから、キューピーや音符などアメリカ文化の影響を受けたものが流行ったりもし、まさに百花繚乱、着物の花が咲き乱れた。着手も女学生、山の手婦人、女優、カフェの女給さんなどさまざま、それぞれの好みに合ったものが沢山作られたのだ。
 その中でも時代を超え多くの女性に愛された文様が矢絣であった。もとは江戸時代の奥向き御女中の仕着せに使われていたもので、町娘たちの憧れの的だったそうだ(今でいうならさしずめフライトアテンダントの制服に憧れるようなもの)。そして昭和の初めには矢絣といえば女学生を象徴するものでもあった。干刈あがた著の「物は物にして物にあらず物語 借りたハンカチ」に収録されている「むらさき銘仙」には、この紫地に白抜きで矢絣の浮かんだ艶やかな銘仙が登場する。若かりし頃妻子ある男性と恋仲になった老婦人と、男性の妻、その娘の微妙な心うちが描かれたものである。まだ小さかった娘の眼には、紫色の矢絣を着た婦人に母が負けたと思い、反対に妻のつつましい姿に生活の重みを視て負けを感じた婦人。ゆるやかに過ぎていった時間が春の陽ざしのようにみなの心を癒していく・・・。おりしも桜の頃。
 銘仙の着物を視ていると、かつてそれらをまとったいろいろな女性たちがふいと立ち現れてくる。そうして彼女たちが生きていた時代の息吹をかいま見せてくれるのだ。そうしてついと自分も片袖を通して鏡の前に立っているのである。
 金沢も桜の季節。花にもの思う春にまた、巡り逢えたことの幸せを。


上 陽子(かみ ようこ)さんは、アンティークのお店「花小筐」(はなこばこ)のあるじ。古いものたちの持つおもむきの微妙をさとる確かな目を持った女性です。 連載その5へ