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林 茂雄





島尾敏雄と奄美の墓

 作家島尾敏雄は「奄美の墓のかたち」と題する一文を書いている。
 「奄美の島々をまわっていて、こころひかれるもののひとつは、この地方の墓だ。そのそばを通るとどうしてもそこに立ちよってみないではおられない」という島尾は、その島々の墓が、日本の墓のイメージと「ちょっと様子のちがう」点に心を奪われるという。
 島尾にとり、日本の墓のイメージは、「陰気な近よりたくない場所」であり、「うす気味の悪いところ」として印象づけられているが、奄美の墓には「じめじめした暗さがあまり感じられない」のである。それは、昔から島々に伝わる習俗が、近代の影響を大きく受けずに保たれてきているからだという。
 そしてまた、その習俗を成り立たせているのは、奄美の島々が持つ独特の地理的環境であるとして、島尾は、「このあたりの島々が隆起珊瑚礁の地帯に属していることは、墓のあり方そのかたちすべてをおおって或る類型をかたちづくっていると見てもさしつかえないと思う」と述べる。
 奄美の島々では、珊瑚石灰の洞窟そのものを墓として利用したり、それらの石灰石を使って墓の形を整えてきたようで、「現在でも随所にトゥールバカなどと呼ぶ洞窟がまだいくらか残って」おり、「頭蓋骨や四肢の人骨の破片を見つけることがある」という。
 島尾はこの後、沖縄から奄美の島々にかけて見られる洗骨(いったん遺体を埋葬した後で、ある年数を経た後に遺骨を取り出して洗う風習)と、与論島と沖永良部島で見た二つの印象的な墓について書き、この文を終えている。
 1917年生まれの島尾敏雄は、特攻隊長として奄美に赴任し、そこで敗戦を迎えた。魚雷艇で自ら死を遂げることを覚悟し、発進命令を待つままに死を逃れることになったその特異な戦争体験は、『出孤島記』『出発は遂に訪れず』『魚雷艇学生』などの数多くの作品に描かれている。
 島尾にとって奄美は、妻ミホと出会った土地であり、また二十年あまりにわたって住んだ土地でもある。しかし、そこはまず何よりも、島尾が敗戦を迎えた土地であり、彼が死と親しもうとし、また死に臨む極度の緊張状態を味わった場所である。奄美を抜きにして作家島尾敏雄を語ることは難しい。
 先の文中で、島尾はこんな思いを綴っている。「白くさらされた珊瑚虫骨片の堆積を白昼の砂浜で目にするたびに、私はどうしても人間の骨を連想しないではおられないのに、その中に融和したいふしぎななつかしい感情の起きてくるのが防げないのはなぜだろう」と。
 死というものにのっぴきならず向かいあったことのある、島尾らしい言葉である。無意識のうちに沸き上がってくるこの「ふしぎななつかしい感情」を我々が共有することは難しい。だが、死のイメージが決して暗い色ではなく、白昼の砂浜の白、珊瑚石灰の白として結びつくことに、違和感は感じられない。



島尾敏雄/生年1917年、没年1986年。享年69歳。死因出血性脳梗塞。



はやし しげお  金沢生まれ。昭和40年代生まれにもかかわらず、特攻隊員として魚雷艇に乗ったことがあると噂されている。


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