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林 茂雄





三島由紀夫とドラマティック

 平岡公威は1925年に現在の新宿区に生まれた。16歳の時に短篇「花ざかりの森」で三島由紀夫というペンネームを使い、学習院高等科を首席で卒業後(天皇より銀時計を拝受)、東京帝大法学部に入学。終戦を迎えたのは20歳の時だった。大学卒業後は大蔵省事務官となるが、創作に専念するため一年足らずで退職。その後は『仮面の告白』や『金閣寺』などの話題作を次々と発表した。1970年の割腹自殺による「劇的」自決は、日本全国のみならず、世界的に波紋を呼び、未だに整理できぬ事件としてその残響をとどめているといえよう。
 この早熟な天才について、浅学非才な愚輩が語れることは少ないが、作家の死をテーマにしたこの連載で、三島抜きで済ますのは亀鳴屋主人が許さないだろう。『豊饒の海』四部作を読了してからとも思ったが、いつとも知れぬ計画を待つのは諦め、勝手気ままに筆をすべらせてみることにした次第(また、三島によって第05回深沢と第07回澁澤をつなぐためでもある)。
 世界で最も有名な日本の作家は、川端康成でも大江健三郎でもなく、また漱石でも鴎外でもなく、三島由紀夫ではないかと思われる。彼の「劇的」自決と作品群は、天皇、切腹、神風、武士道といったテーマと容易に結び付けられるからであろうと思われるが、三島からどれほど日本的な要素を汲み取れるとしても、日本文学を象徴しているとも、日本文化を体現しているともいえないだろう。あくまで三島は特異な作家であり、異質な存在であった。
 三島の政治思想にはほとんど興味はない。しかし、彼の審美眼にはやはり天性の優れた感覚を感じる。中央公論新人賞の選考会で最初に深沢七郎に注目した選考委員は三島だった。国枝史郎を高く評価したのも三島だ。フランス小説についても卓抜した批評眼を持っていた。私が感化されたのは、三島の小説でも戯曲でも政治論でもなく、『小説家の休暇』や『小説とは何か』などの文芸評論であった。それはともかく、彼が傾倒していたラディゲ同様、彼が天才であったこと、それも非常に早熟な天才であったことは確かだ。そして、視線が美学的な色彩を帯びた時、その天性の才能は一際輝きを見せた。
 澁澤龍彦は「三島由紀夫氏を悼む」という追悼文の中で、「三島氏は自分を一歩一歩、死の淵へと追いつめていった。といっても、もとより世をはかなんだわけではなく、デカダン生活を精算するわけでもなく、むしろ道徳的マゾヒズムを思わせる克己と陶酔のさなかで、自己の死の理論を固めていった」と書いている。澁澤に三島は次のように漏らしていたという。「『僕はこれからの人生で何か愚行を演ずるかもしれない。そして日本中のひとが馬鹿にして、物笑いの種にするかもしれない。全く蓋然性だけの問題で、それが政治上のことか、私的なことか、そんなことは分からないけれども、僕は自分の中にそういう要素があると思っている』」と。
 三島が自らの思想に殉じたのか、それとも美学に則って自決したのか、あるいはその他の理由によってか、そんなことは本当はどうだっていい。重要なのは彼の書いた作品であり、彼の取った行動ではない。思想であれ美学であれ、たとえそこに命をも賭したとしても、その人の作品自体の価値を高めも貶めもしないと思うからだ。
 しかしながら、その前提の上で、ここで逆説を言わねばならない。我々はもう彼の死を抜きにしては三島の作品を読めないのであり、その死は既に作品の一部となっている現実がある。つまり、彼の死を作品の一部として、というよりもむしろ、彼の死をひとつの作品そのものとして、我々は読んでしまわざるを得ないのだ。
 三島は数多くの戯曲も書いているが、その最後の戯曲作品を、自らを主人公として現実を舞台に描いたといえる。虚構を現実にすると同時に、現実をも虚構の中に溶け込ませたのだ。三島の自決が文字通り「劇的」であった所以であろう。



三島由紀夫/生年1925年、没年1970年。享年45歳。死因割腹自殺。



はやし しげお  金沢生まれ。本人によればアルチュール・ランボーの子孫だという話だ。David BowieのZiggy Stardustをテーマソングとしている。
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