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林 茂雄





矢川澄子とプラトニック

 今年2002年の5月末、ひとりの少女がこの世を去った。その少女の名は矢川澄子。71歳であった。矢川は1931年、東京に生まれた。東京女子大英文科、学習院大独文科を卒業後、東京大学文学部美術史科を中退。1959年澁澤龍彦と結婚したが1968年に離婚、約10年の結婚生活に終止符が打たれた。その原因には、ある詩人が関係しているようであるが、ここでは触れない(龜鳴屋K氏を通じて赤坂のW氏から戴いた示唆もここでは触れないでおこう)。筑摩書房刊『おにいちゃん−回想の澁澤龍彦−』(1995)に澁澤との想い出は綴られている。
 多数の児童書の翻訳のほか、詩、小説、エッセイ、評伝など、彼女の仕事ぶりは多彩な輝きを放っていた。1998年には書肆山田より『矢川澄子作品集成』が上梓され、『架空の庭』『ことばの国のアリス』『兎とよばれた女』『失われた庭』など主な作品が1巻にまとめられた。また、今年5月には『アナイス・ニンの少女時代』 が刊行されたばかりで、まだまだ彼女の仕事を受け取れるものと思っていた、そんな矢先の突然の訃報だった。
 矢川は『わたしのメルヘン散歩』(1977)の中で宮沢賢治についてこう語っている。「一九二二年十一月二十七日、妹トシ死亡。享年二十五歳。この日付は、考えようによっては日本近代文学史上、その十一年後の賢治自身の他界のそれよりも、はるかに大きな意味をもつものといってよいかもしれない」と。そして、「けふのうちにとほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」で始まる『永訣の朝』を賢治の最も美しい詩だとする矢川は、晩年の賢治の数々の傑作が妹の喪失と不在によってこその結実であるとし、「大きくいってやはりとし子への挽歌、いな、むしろ賢治=とし子の二人で形成していた兄妹宇宙への挽歌であったともいえるだろう」と書いている。
 矢川にとってこの相思相愛の兄妹というテーマは、「各種の男女の愛の形成のなかでも最も純粋で、かつまた宿命的に悲劇性をおびたものとして、かねてわたしの心をとらえてやまないもののひとつ」なのだが、もうひとつ父と娘という肉親関係にも惹かれていたようだ。『「父の娘」たち−森茉莉とアナイス・ニン−』(1997)で森茉莉の『甘い蜜の部屋』を扱い、父鴎外との父娘関係に焦点をあて、「ここにくりひろげられる父と娘との深い恋愛」が日本文学史上で誰も手をつけなかった主題だとしている。
 彼女にとって、既成の男流文学、つまり「家父長的=男性的原理」に基づいた「父」の文学に拮抗しうるのは、「母」の文学ではなく、「娘」の文学、「少女」の文学である。プラトンの説によれば、男と女が求め合うのは、かつて全にして一なる球体であったところの記憶によって、それぞれがもうひとつの片割れを探すからだというのだが、その説を援用しつつ、「地上では合体をさまたげられた父と娘は、こうして時空を超えて観念の世界で永遠の婚姻をとげた」と矢川はいう。
 父と妹、あるいは兄と妹という「甘い蜜」の関係においてのみ開放される、少女の無垢にして純粋な怪物性。父もしくは兄との観念的な結婚による超時間的な世界。これを「プラトニック」といわずして何と呼べばいいだろう。矢川が澁澤を「おにいちゃん」と呼んだのも、その関係が現実世界では成就しがたい、妹(不滅の少女)と兄(永遠の少年)とのそれであったことを伝えていないだろうか。
 イノセンスはこの世では傷つきやすい。矢川澄子自死の報に接した時、彼女はやはり森茉莉よりも尾崎翠に近かったのではないかと私には思われたのであるが、この少女の死に永訣の詩を送りたいと思うものはきっと少なくはあるまい。



矢川澄子/生年1931年、没年2002年。享年71歳。死因自殺。



はやし しげお  金沢生まれ。本人によればヘンリー・ミラーとアナイス・ニンの子だという。雅号はあめゆじゅとてちてけんじゃ。
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