01 24

林 茂雄





ベケットと終わり

 ノーベル文学賞作家のなかで私が偏愛している作家二人のうち、一人は以前に取り上げたことのあるクロード・シモン、そしてもう一人はアイルランド出身のサミュエル・ベケット(Samuel Beckett)である。昨年2006年はベケット生誕100年にあたり、それを記念して世界各地でさまざまなイベントが組まれ、日本でも「国際サミュエル・ベケットシンポジウム東京2006」が開かれた。
 ベケットほど《終わり》について書き続けた作家はいないだろう。スーザン・ソンタグがサラエボで上演したことでも話題になった、ベケットの代名詞ともなっている戯曲『ゴドーを待ちながら』は、木が1本立っているだけの田舎道で、浮浪者のような二人組がひたすらゴドーを待つだけというストーリーなきストーリーの作品だが、そこでは終末的雰囲気が濃厚に漂っている。――ヴラジーミル「じゃあ、行くか?(Well? Shall we go?)」/エストラゴン「ああ、行こう(Yes, let's go.)」/彼らは動かない(They do not move.)――。この第一幕の最後の場面は、第二幕ラストでもそのまま繰り返されて、この劇は終わる。この劇は最初から最後まで何のストーリーの進展もない。
 ほとんどのベケット作品には進展と呼べるものがないともいえる。それは始まりにおいてすでに終わりがあるからである。1957年の戯曲『勝負の終わり(Endgame / Fin de partie)』の冒頭の言葉はこうだ。――「終わり、終わりだ、終わろうとしている。たぶん終わるだろう」――。廃墟と化したような荒涼たる世界の中で、盲目のハムは《終わり》に向かって物語を紡ぐのだが、冒頭の言葉からして終わろうとしているのである。1958年の戯曲『クラップの最後のテープ(Krapp's Last Tape)』では、69歳のクラップが、テープレコーダーから30年前の自分の声を聞くのだが、そのテープにはさらに10年ほど前の自分の声が録音されているという入れ子構造になっており、喪失感と徒労感が漂う作品だ。そのほかに『カタストロフィ(Catastrophe)』という戯曲もあるが、このように、ベケットの作品のタイトルには《終わり》をイメージさせるものが多い。
 ベケットは、戯曲のみならず小説においてもエポックメイキングな作品を残している。1946年から1950年の間に書かれた『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけられるもの』の小説三部作を読んだ時の衝撃は忘れがたい。この三部作のタイトルを抽象化すれば、それぞれ『固有名詞』『固有名詞の死』『非固有名詞』となるが、ベケットは登場人物から名前を剥ぎ取るところまで無形化し、それによって(あるいはそれと同時に)、小説という構造自体をも脱臼させ、さらに言えば、語ることの可能性と不可能性のあわいで、それでもまだ語ることを過剰に意識しながら、言葉そのものを沈黙へと溶け込ませるように語り続けていくという、前人未到の地へと赴いたのだ。この三部作を『小説』『小説の死』『非小説』と呼ぶこともできるだろう。
 ――常に事物は朝の記憶も夕べの希望もない日の光の下で、傾いたまま 終わりのない地すべりに流されていくのだ。(略) それは外見とは違い終わった世界だ。それの終わりが出現させた世界だ。 それは終わりながらはじまったのだ。そして、わたしもそこにいるときは終わってしまっている――(『モロイ』)
 「終わりながらはじまる」という逆説的な表現は、ベケットのほとんどの作品に通底するものであり、子宮=墓穴というイメージで象徴されてもいるのだが、何よりもまずそれは、物語ることの不可能性を暗示している。『短編と反古草紙』所収の、その名も「終わり(La fin / The End)」という1946年に書かれた短篇の最後のセンテンスはこうである。――「わたしは物語のことを、わたしの人生に似せて作ろうとしてもう少しのところで果たさなかった物語のことを、無気力にそして冷淡に、つまり、思いきって完結させる勇気もなく、かといって書き続ける意欲もなく、思い出していた」――。
 「反古草紙(Textes pour rien)」という1950年に書かれた短篇は「無のための作品」と直訳もできるが、ここにはベケットの世界が凝縮されている。「突然、いや、とうとう、ついに、わたしはだめになった、これ以上進むことはできなくなった」という冒頭の言葉に続き、「停止することもできず進むこともできなくなった」と語られるのだが、それは《語り》の声そのものがみずからの歩みっぷりを語っているのである。
 ――「ああ、まちがいなく、これには終わりというものはないのだ。これとは何か、沈黙と言葉のごたまぜ、沈黙ではない沈黙とつぶやきにすぎぬ言葉とのごたまぜだ。」(「反古草紙」)――
 沈黙と言葉の間で声は語り続ける。《終わり》を語りながら、語ることには終りがない、あるいは、何度でも終わる――。『また終わるために(Pour finir encore et autres foirades)』 と題された1976年の作品は、もはや小説と呼ぶことはできない、極限まで削り落とされた、詩のような散文である。終わり=始まり。沈黙=言葉。
 ――「また終わるため 頭蓋骨だけ 出口のない暗い場所で ひたいを板きれにおき 始めるため。」(『また終わるために』)――
 『モロイ』では、モロイは母の部屋に横たわりながら、かつて母を探して彷徨した旅の物語を書くのだが、母に向かう旅は死へと向かう旅でもあった。終わり=始まり。墓穴=子宮。
 ――「そう、わたしにはどうやら母親がある、わたしにはどうやら墓がある、わたしはここから出なかったらしい、ここから出るものはいないのだ、ここにわたしの母親、ここにわたしの墓、今晩はみんなここにある、わたしは死んでそして生まれようとしている、完了もせず開始もできずに、これがわたしの人生なのだ。」(「反古草紙」)――
 ――「おれは生まれるまえからおりていた、そうにきまっている」(『また終わるために』)――
 「存在し終える前に存在することをやめる」という逆説的な存在、「声は話すことができず、沈黙することができない」と語る逆説的な声、ベケットの作品はこうした逆説に満ち溢れている(「死せる想像力よ想像せよ」 という短篇の逆説的なタイトルも参照)。しかし、なんという声、なんという小説だろうか。それをまだ小説と呼べるとしての話であるが‥‥。しかし、そのことについても《声》はちゃんと語っているのである。
 ――「いや、これは一種の小説なのだ、小説以上の何かだ、登場人物は声だけ、囁きながら痕跡を残していく声だけなのだ。」(「反古草紙」)――
 終わりから始まった声に終わりはない。最初から沈黙と区別がつかないような声が沈黙してしまうことはない。




サミュエル・ベケット(Samuel Beckett)/生年1906年、没年1989年。享年83歳。
代表作『ゴドーを待ちながら』『モロイ』『短編と反古草紙』ほか。

はやし しげお  金沢生まれ。東京在住。
-

東西作家死亡年譜へ       



23へ