『テーマ館』 第26回テーマ「さよなら/微笑み」


「さよなら」と彼女が言った 投稿者:しのす  投稿日:04月30日(金)23時33分44秒

      「さよなら」と彼女が言った。
      僕は、何も言えなかった…

      僕たちは、ある本屋で出会った。
      彼女が本を落とし、僕が拾った、
      彼女は感謝し、僕はただ黙って頷いた。
      それだけの出逢いだった。

      僕は、その本屋によく行った。
      彼女もよく出入りしているようだった。
      次に会った時、彼女はにっこりと微笑んだ。
      僕も、軽く会釈した。

      そんなことが何度か続いたある日、
      彼女が話しかけてきた。
      「この前のお礼に夕食でもご一緒しませんか?」
      僕は、ためらったが、うなづいた。

      そして僕たちは恋人になり、同棲を始めた。
      とても幸せだった。
      愛されていると思った。
      確かに愛されていた。

      どこに行くにも一緒だった。
      どこへでも行った。

      あの本屋での出逢いは、ただの偶然ではなかった。
      すべては彼女の作為だった。
      「私はあなたに恋をして、
      出逢いを劇的に演出したの」と彼女は言った。

      やがて仕事中にしょっちゅう携帯が鳴るようになった。
      「今どこ、誰といるの、何してるの?」
      彼女は僕を束縛したがった。
      彼女だけを見ていてほしかったのだ。

      職場の窓から外をのぞくと彼女の姿があった。
      営業の先でも彼女らしき人影があった。
      携帯は鳴り通しだった。
      「ねえ、今どこにいるの?何してるの?」

      「今日、受付の女の子と昼食一緒に食べてたわね」
      「スナックのママといちゃついてさ」
      「接待といって、自分が一番楽しんでたわね」
      「だめよ、営業の大川さんって、彼氏いるんだから」

      彼女のストーカーまがいの言動に僕は恐怖さえおぼえた。
      二人のアパートへの足が遠のいた。
      携帯の電源はOFFにした。
      隠れるように行動した。

      やがて遂に決心した。こんな生活は耐えきれない。
      「大切な話があるんだ」と切り出した。
      「久しぶりに夕食、一緒に食べましょうよ」
      別れを切り出すためだ。「いいよ」と僕は言った。

      彼女の料理は、相変わらずおいしかった。
      食後の苦いコーヒーを飲み干すと、別れを切り出した。
      「僕は今でも君が好きなんだ。その気持ちは変わらない」
      「でも何かが行き違ってしまったようだ。だから…」

      「さよなら」と僕は言った。
      彼女は、何も言わなかった。
      と、いきなり僕の目の前が暗くなった。
      身体がしびれて動けない。

      「さよなら」と彼女が言った。
      「これであなたは永遠に私のものよ」
      「毒か…」と言いたかったが、
      もう僕は、何も言えなかった…