『テーマ館』 第16回テーマ「視線」



 視線

  ふと誰かに見られていると思って、本から視線を上げた。
 すると左斜め前にすわっている女性と目があった。僕は電車の入口の横にすわっ
ていた。
 すぐに目をそらして、本を見る。しかし本の内容は、もう頭に入ってこなかった。

 彼女は、僕と目があって、確かに、笑った……

 一瞬しか見なかったが、彼女の姿は僕の目に焼き付いた。
 ショートカットの目も口も大きな美人で、ピッチリとした紫のスーツを身につけ
ている。スカートは、目のやり場に困るような短さだった。

 初めて会ったはずだけれど、確かに、笑った……。

 僕は記憶をたどったが、彼女のような美人の知り合いは、思い当たらなかった。

 僕は勇気を出して、ふたたび彼女の方に視線を向けた。
 彼女はやはり僕を見ていた。まわりを見回しても、彼女の視線は僕以外のどこに
も向いていなかった。

 そして、また素敵な笑顔で笑った……。

 僕は視線をそらした。耳が熱い。本どころではない。
 彼女は誰なんだろう。以前どこかで会っただろうか。
 彼女のような女性と前に会っていたら、絶対覚えているはずなのに……。
 しかし、今朝はバイクが故障して、電車で通勤したのだが、ラッキーだった。こ
んな美女と知り合えたなんて。

 電車が駅に入った。ここで降りなければならない。しかし彼女がいるのに。
 彼女を見る。
 と、彼女は立ち上がって、うなづいた。
 僕も立ち上がる。電車が止まり、僕の隣の扉が開いた。
       
 先にホームに降りて、入口を振り返ると、彼女が降りてきた。
 彼女は笑顔を浮かべて僕に近づくと、
 「雄一、今夜、れいの場所でね……」
と耳元でささやいた。
 ハスキーな声。甘い香水の匂い。僕はぽーっとして、彼女のモンローウォークを
見送るだけだった。
 彼女の姿が見えなくなっても、僕はただ彼女の後ろ姿を見つめていた。
 どれだけそうしていただろうか。
 僕は、ふと我にかえった。
 そして思った。
 え、「れいの場所」って?

 僕の名前は確かに雄一だ。彼女は僕のことを知っていて、今夜「れいの場所」で、
待っているのだ。

 で、「れいの場所」って??
       
 僕は眩暈がした。

 あれから僕は、毎日電車で通勤するようになった。
 しかしあれ以来、彼女を見かけることは、ない。

(02月25日(水)23時31分06秒)