「夏祭り」


父親が勤める美術館が襲われて数ヶ月たった。
今では父親は完治し、また警備員として勤めている。
結局盗まれた絵も、放火した犯人も分からずじまいで終わってしまった。
だからと言って僕がどうすることもできず、もやもやしたものが
胸に溜まってしまった。
「兄さん」とアカネが言った。探偵長ではなく、兄さんときた。
アカネもあの事件以来暗い様子が続いていたので、気にはなっていたが、
「兄さん」と言うなんて重症のようだ。
ちゃかそうとしてアカネを見ると、その目はとても思い詰めているようだったので、
軽口を叩くのはやめた。ただ次の言葉を待っていると、妹は一瞬ためらってから話し出した。
「お父さんのあの事件の後、ずっと心に引っかかっていることがあるの」
アカネは、話し出しながらもまだ躊躇しているようだった。
「言ってみろよ」と僕は出来るだけ明るい口調で言った。
「料金3割引で話を聞いてやるから」

祭囃子が聞こえるの。(とアカネは話し始めた)
私は母の腕の中にいる。
暖かい母の腕の中で、いい匂いに包まれて、私は幸福な気分だった。
世界中の幸福がここにあるかのようなの。
祭囃子、人々のざわめき、香ばしい香り、物売りの声。
「あなた」と母が誰かを呼んでいる。
「アカネよ」
母が愛情をこめて話しかけている。
振り返った男は−−−、
今のお父さんとはまったく違う男だったの。

どうして思い出したのかわからないんだけど、
お父さんが死ぬかも知れないというあの状況が
私の記憶の中に封じ込めていた夏祭りの情景を
浮かび上がらせたのかも知れない。
あの振り返った男は誰だったんだろう。
お母さんは確かに「あなた」とその男を呼んだ。
親しげに「あなた」と呼ぶ相手は、夫でしかないはずなのに。
しかしそれは今のお父さんではなかった。
絶対記憶に間違いないわ。
ひげ面に険しい目つき、いかにも悪党という顔つきは、
お父さんとはまるで違うもの。

思うんだけど、
兄さんはお母さんのことおぼえているんでしょ。
私は、ほとんどお母さんのことをおぼえていない。
私が小さい時に、お母さんが失踪したから仕方がないのかも知れないけれど
記憶の中でお母さんの思い出となることは何も残っていない。
ただ祭りの記憶がふと甦っただけなの。
そしてこの記憶は、確かな物だと思うの。

もしかして、私たちって。
ねえ、いつも
「これが兄です」って言っても誰も信じないわよね。
おとなしくて賢い兄。
明るくクールな妹。
顔もまったく違うし、
好みも違う。
「本当にきょうだいなの?」って誰もがきくわよね。

もしかしたら。
私たちは本当のきょうだいではないのかもしれない。
私のお父さんは、今のお父さんではないのかも。

お母さんに聞けたらいいんだけど。

私、悩み事は、ずっと自分で解決してきた。
他の子たちが母親と友達のように話すのを見て
いつもうらやましかったわ。
悩み事は母親に相談するという友達も多かったし。
私も悩みを相談できる母親がすぐそはばにいてほしかった。

ねえ、
お母さんって、今どこにいるんだろう?

アカネは話し終えると、深くためいきをついてうつむいた。
アカネがここまで深刻に悩んでいるとは、僕は気づかなかった。
いつも明るい彼女が、こんなに重い物を胸の中にしまい込んでいたなんて。
彼氏の高沢が外国に行って音信不通なのも、彼女の心をめいらせる原因の一つ
になっていたのだろうが。
僕は立ち上がってアカネの肩に手を置いた。
「今まで母さんの話題は避けてきたけど、
これからは話をきちんとしようと思うよ。」
と僕はゆっくりと話し出した。
そう、それも探偵になった理由の一つだったのだから。
「でも、祭りのことは、お前の思い違いだと思うよ」
「え」とアカネは顔を上げた。意外そうな顔つきだ。「思い違い、って?」
「お父さんは探偵だった。お前が小さくて母親に抱かれて祭に行った頃は
バリバリの現役だった。ひげ面に険しい目つき、いかにも悪党という顔つきと
いう時もあっただろう。そういう変装をしていたのかもしれない。
ただそれだけのことさ」
「でも」とアカネはまだ納得できない様子だった。
「じゃあ」と僕は書類棚に近づき、引き出しを開けた。
様々な不要物の下にいろいろな写真がほったらかしの状態で放り込まれている。
現場の写真、証拠物の写真、浮気調査の写真…。
「お前はこの引き出しの中を見たことなかったな。ほら、こんな写真があるんだ」
僕は1枚の写真をアカネに渡した。
写真を見たアカネの顔が、驚きで変わる。
と、次の瞬間ボロボロと涙を流し出した。

僕がアカネに渡したのは、夏祭りの屋台をバックに撮った親子4人の写真だった。
僕と、髭面の悪党のような父親と、
そして小さいアカネを抱っこしている母親の写真。