平成30年12月26日 加賀の国、国分寺跡? を尋ねる

中学生の頃、地域の歴史に興味を持っていた時期がある。 そんな頃、故郷の軽海町の台地で発掘調査が行われていた。

この歳になって、当時発掘現場を尋ねて行ったことを思い出した。直ぐに石川県遺跡分布図のページを開くが、載っていない。

私の記憶違いかとも思い、小松市埋蔵文化財センターを尋ねた。

センターは私の母校原小学校跡地に建っているのである。 休館日であったが、学芸員と館長さんが話を聞いてくれた。

いろんな資料を見せて頂いたが、私の記憶とは合わない。

中学2年の頃と記憶していたが、公式な発掘記録では昭和46年以後であると。  ここで年長の館長さんと交代。

少しづつ思い出して下さり、当時は上野与一先生に指導を受けた小松高校の地歴クラブが発掘していたのではないかと

そんな中で昭和40年4月2日の北國新聞の記事コピーが見つかった国分寺跡の有力資料 礎石とかわらを発掘と。 

小松工業と小松商業高校地歴クラブの生徒17名の合同調査が、軽海町勝興寺山の上で行われた。

その結果、50p角の礎石が、3箇所2m間隔で見つかったと。 私の記憶通りであった。

私の50数年前の記憶は、正しかったのである。 この時に現地で説明をお聞きした方が、上野与一先生だったのであろう。

上野先生とは、面識はなかったし、その後にお会いする機会もなかった。

先生は考古学が専門で、長く小松高校の教師をしていた時には、小松高校地歴クラブを、

その後に赴任された小松工業高校でも生徒達を指導して地歴クラブを作られ、さらに、この昭和40年頃には、

小松高校と小松実業高校、小松商業高校に分離されたために、先生が指導していた地歴クラブ員は

工業高校と商業高校に別れたのだろうと思う。

そんな生徒を率いて、40年の3月の春休みに、加賀の国、国分寺跡と考えられるショウコウジ山の調査していたのである。

 この年の夏休みには本格的な発掘を試みられたはずなので、追加記事がないか調査中である。

先生は、その後に北陸大谷高校が開校すると、そちらに移籍され、また、生徒を集めて地歴クラブを作り、活躍された。

私が進学した昭和42年には小松高校には指導する先生が居なくなり、伝統有った地歴クラブは自然消滅していた。

私は地歴に対する関心はあったわけであるが、地球の歴史という地質学の方に興味が移り、目指したが挫折してしまった。

第二の人生と言うことで、今、故郷の地域の歴史にもう一度チャレンジしてみようと思った。

上野先生にもう少し詳しく聞いて居れば、違った人生だったのかなとも思ってしまった。

この時発掘された寺院跡は、現在は軽海廃寺跡として記録されているが、

残念なことに私の中学生時の母校中海中学校が移転した時に、学校用地として整地されたために、

遺跡自体は、現在消滅してしまったために、遺跡分布図には記載されていないことのようである。

加賀国分寺は、現在候補地はこの地も含めて3箇所考えられているらしいが、余り遺物が見つからなかった当地は、

国分尼寺の跡ではと言う説も有るらしい。 

いずれにしても私が見た礎石群が整地により無くなったと言うことはとても残念なことである。

                   平成30年12月25日 管理人