2019年8月 2日 東屋にて思う
戦前の文部省唱歌 冬の日
ともしびちかくきぬぬうははは、はるのあそびの、たのしさかたる。
いならぶこどもは、ゆびをおりつつ、ひかずかぞえてよろこびいさむ。
いろりびはとろとろ、そとはふぶき
いろりのはたに、なわなうちちは、すぎしいくさのてがらをかたる。
いならぶこどもは、ねむたさわれて、みみをかたむけこぶしをにぎる。
いろりびはとろとろ、そとはふぶき
真夏のさなかに、東屋で休んでいたら、ふとこの歌詞が口から出てきた。
亡き母が極楽から私の傍に来ていたのかも知れない。 父もまた、来たのかも知れない。兄が来てくれる頃には、私も逝くことになるのだろう。
母は、縫い物をいつもしていた。父が縄綯う姿は見たことがないが、祖父母は、わらじやわら靴を編んでくれていた。
器械で縄を編むことは、おじいに教わり、いつしか、小学校から帰ると、一巻き藁縄を作るのが私のノルマになっていた。
そんな昔々の日々のことが、瞼に浮かぶのである。 もう、みんなで迎えに来てくれているのかも知れない。
でも、まだまだ、しなければならないことが、一杯残っている。 そんな姿をみんなが見てくれている限りは、迎えの車は来ないと思うが、
それでも、あと何年間かの猶予しかないと思う。 一日一日を大事に、その日まで出来ることをしなければならないことをやっていこう。
例え、やり遂げられないにしても、前向きに倒れたいものである。 白峰修悟