金沢市の公民館の概要

金沢の町の起こりは、蓮如の北陸地方の布教によって一向宗徒の勢力が強まり、農民を中心とした門徒が加賀の守護・富樫政親を高尾城に滅ぼした後、真宗本願寺の末寺を「金沢御坊」として建立し、加賀一向宗の中心とした。
以来、寺のまわりに後町、南町などの町がつくられていたのが始まりとされている。

天正8(1580)年、佐久間盛政はここに「金沢城」を築いた。

天正11年、盛政が賎ヶ岳に戦死した後、七尾の小丸山にいた前田利家が金沢城に入城し、以来、加賀、能登、越中を合わせた“加賀百万石の城下町”として繁栄を続けることとなった。



明治4(1871)年の廃藩で金沢町となり、同22年4月1日市制施行、県庁所在地として、文化、経済の中心として発展を続けた。

大正13年以降、十数次にわたる隣接市町村との合併によって市街地規模の拡張を図り、今日に至っている。

さて、太平洋戦争の期間中、他の日本の多くの都市がアメリカ軍による空襲でかつての町並みを失ったのとは対照的に、金沢市は空襲による被害に遭わず古いたたずまいを残す町として、戦後の期間を過ごしてきた。

また、戦前からの町並みが残ったことで、戦後も戦前のコミュニティが残り、金沢独自の小学校区を単位とした「校下」意識というものが醸成され、現在に至っている。

その結果、金沢市の公民館は各小学校区にひとつずつ作られ、現在は市内に60の公民館が設置されている。

この金沢の特殊な環境は、市内の公民館の数だけでなく、運営の方式についても金沢独自の方式を生みだしている。
一般に「金沢方式」と呼ばれるものである。

この「金沢方式」とは、公民館の運営を行政が直接行うのではなく、地元主導で行うと共に、地元が公民館の運営費の一部を負担するというものである。

現在は、金沢市が75パーセントを、地元が25パーセントというように、地元の負担は公民館運営費の4分の1となっている。
そして、公民館の館長を始めとする職員は、他の市町村で見られるような行政の職員ではなく、地元が館長を選び、その館長が公民館主事を始め各職員を選ぶという独特の方法を行っている。

これは、行政指導による公民館運営とは根本的に異なっており、地元のことは地元で決定し運営していくという地元主導のやり方を公民館が誕生して以来行なってきたということで特筆すべきことと思われる。

昨今、社会環境は大きく変化、かつて市民生活を支えていたコミュニティは一部では弱体化したり機能を喪失しつつあるように見受けられる。

このため、金沢コミュニティを支える基盤である地域の連帯感や地域への愛着心といったものを再び呼び喚こし、かつての機能を取り戻すための拠点として、各地区公民館の役割は今まで以上に大きくなっている。

平成14(2002)年には、学校週5日制により、これまでは、こどもたちの生活の大部分が学校でのものだったが、週5日制により、こどもたちが学校で過ごす時間は1年間の4分の1となり、学校外で過ごす時間が大幅に増えた。

学校外で過ごすこどもたちは家庭・地域で過ごすことになるが、家庭での教育力が低下している現在、地域の持つ教育力の大切さが改めて注目されている。

戦後有余年を経て、諸々の制度疲労ともいうべき課題が山積みする中でも、特に教育は国の将来を左右する最重要課題。“地域力”の強化、学校と地域との密なる連携がこれまで以上に強く求められることになる。
ここに公民館、児童館活動の重要な理由がある。

そういう意味で、コミュニティを基盤にして活動している公民館の役割は、終戦後に公民館が新しく生まれた時代と同様に多くの人々の熱い視線を浴びている。

これまでは、学校教育は学校で、地域の生涯学習は公民館でといった垣根が存在したが、これからはそういう垣根を取り払い、互いに協力しあいながら、自分たちが住んでいる地域を魅力あるものにしていかねばならない。
そして、その中心的な役割が公民館に求められているのである。


(『金沢市公民舘 五十周年記念誌』に則し、一部改稿)




公民館の役割

文部省(現在の文部科学省)が敗戦から人心を立ち上がらせる意図で、 昭和21年文部次官通達「公民館設置、運営について」が出されてから、公民館を拠点とした新しい社会づくり運動が全国的にすすめられた。

古くから学都、文化都市としての伝統をもつ金沢市は、数少ない非戦災都市のため公民館設置には恵まれた条件のもとにおかれていた。

加えて市民の社会教育に対する関心の深さと公民館設立の機運が高まり、自分たちの手でつくろうとする積極的な行動に行政面での積極政策が相乗的に働き、昭和22年、自主的に公民館3館が設置された。

石引公民館もそのうちの1つであった。

金沢市の公民館は、地域住民のコミュニティの窓口として地域の方々から親しまれ、住民ニーズをとらえ自由な発想のもとに運営できる、いわゆる「金沢方式」の公民館として設立されたのである。

昭和38年、旧石引小学校の取壊しにより跡地一角に移転。

料理教室、ステージ付きホールなどを有した独立公民館となったが、昭和54年3月31日、現在地に3度目の移転新築。

より本格的建物をもつ小立野公民館が誕生した。同一建物内に児童館及び老人センターの3公共施設を集合させた複合館として再スタートした。


(『小立野公民館創立50周年記念誌』 より)




ホーム