鶴親会

本町会は旧上鶴間町の5町会のなかの1町会である。
まず旧町名上鶴間町についての説明から記述していくことにする。
上鶴間町は藩政時代には天徳院門前(下馬)と呼んだところであるが、明治2年(1869)の町名変更で天徳院門前三っ辻寺の方の60軒で上鶴間町と命名された。
鶴間町の名称の由来は町の東方のごく近くに鶴間谷または牛坂と呼ばれる坂があり、その名称から鶴間町と名付けられたものである。

さて、上鶴間町は前述のごとくはじめ天徳院門前の町であったが昭和時代に入り、天徳院の背後にも人家が建てられるようになり、その町名も上鶴間町とした。
こうして、この町の町会名として昭和10年代に早くも鶴親会が誕生したのである。
戦時中鶴親会は広部捨三町会長をはじめ6人の町会長が苦難を耐え抜き終戦となった。
戦後の数年間は町会の衰退もあったが昭和26年(1951)の対日講和条約締結の頃から町会活動も漸く活発となり、町会名も終戦前からの鶴親会の名称を継承した。

一方、昭和34年(1959)から翌35年にかけ、旧上野射撃場跡(旧上野練兵場)と上野本町にかけての上野本町第一土地区画整事業が完了し、その地名を菫町と称した。
当時の菫町は家が各地域に点在する状況(約80軒)でその家々は現在の旭親会上町会や同会下町会、上野町の一部に属していた。
ところが昭和39年(1964)4月の住居表示の改正により小立野2丁目になると旧上鶴間町上町(現・小立野4丁目の一部)と旧菫町(現・小立野2丁目の一部)とが町会としては合併、その名称は従来の上鶴間上町の町会名である鶴親会を踏襲、同じ会則で町会の運営が行なわれている。