与力町会

与力町会は旧与力町1番丁、現在の宝町14番丁に居住する人達の町会である。
旧与力町は藩政時代からの町であった。
もとは石川郡田井村領であったが寛文5年(1665)に藩に召し上げられ、与力組の屋敷地となった。
藩政時代のこの与力組の屋敷の様相については延宝年間(1673〜1680)の金沢城下の地図の中に描かれている。

明治4年(1871)以降与力町は金沢町の一町となり、1番丁から4番丁に区画された。
主題の与力町会は1番丁の東北隔に位置している。

明治34年(1901)以降、この与力町の1番丁から4番丁、さらに土取場撞木町、同永町、下鶴間の一部、三所町の一部など町々の地所が金沢医学専門学校及び同校付属の病院(大正12年金沢医専は金医大となる)に充てられ、その東北の与力町1番町の方々の住居がその一隅に取り残された景観となっている。
現在、与力町会の正面は道路を挟んで金沢美術工芸大学と相対しているが、その中間の道路は古府と鈴見とを結ぶバイパス線となり、その景観は大きく変貌する状況下におかれている。