中石引町会

中石引町は金沢城の南東、小立野台に位置する西側町で、上、中、下の3町のうちの一町である。
古くは石挽町とも書かれた。
町名の由来は金沢城普請用の戸室石の搬出に使用した道路であったことによる。(金沢古蹟志)
藩政時代における石引町と云う町名の初見は慶安4年(1651)で小立野石引町波着寺と語が見え[「本藩年譜」(加賀藩資料)]また、元禄9年(1696)の書上に石引町のほか、石引町横町、石引町末貝焼場の町名が地子町としてみえている。(「片岡孫作筆録」加越能文庫)

文化8年(1811)の金沢町絵図名帳及び文政6年(1822)の金沢町奉行より出侯町名に石引町が上、中、下の3町に分かれていることが明白となる。
明治4年(1871)の町名改正の折、正式に上、中、下の石引町と命名された。
この際、中石引町は棟岳寺門前を編入し、戸数は40戸であった。

こうした中石引町には文化8年の金沢絵図名帳にみえるように組合頭、肝煎などの役職の町人によってまた治政が行なわれ、町会も早くから成立していたことが推察できる。