沖町の祖先は、倶利伽羅の源平合戦に破れて南下した、平家の軍勢の一部が河北潟周辺の葦の原に隠れながら荒地を耕し、農民となったと伝えられている。

その当時、乱れ髪に鬼面や天狗面をつけ、大太鼓を打ち鳴らし、魔除けを行っていたことから、源平魔除け太鼓として沖町に代々伝わった。

現在は、加賀豊年太鼓沖町保存会の人達によって守り受け継がれている。


磯部町に伝わる獅子舞は、米の収穫を祝い戦前から秋祭り(9月15日)に奉納されてきた。(そのため、米の不作の年には行われなかったという。)

現在は、秋祭りの日を9月23日(秋分の日)に変更し、壮青年部が中心になり受け継いでいる。昭和50年代から平成7年までは1年おきに行われていたが、平成9年からは大切に受け継がなければいけない行事として、毎年行うようになった。

獅子頭は、桐の木で彫られたものに黒い鹿の革が張られており、現在使われているものは昭和61年に作り直された2代目である。


昭和12年頃まで木船神社境内において 「盤持ち」が行われていたと言う。これは重さ約80〜120sの神石を担ぎ上げ、力自慢を競う神事である。
神石にはそれぞれ名称がついており、例えば天神石、がめ石、大盤石、かもん石などがある。

娯楽の少なかった時代に村の青壮年が集い、力自慢を競う。これは当時の村人の楽しい親睦の場であった。

現在、神石は人々から忘れられたかのように今も境内の片隅に置かれている。


明治9年9月13日、松寺、寺町の2ヶ村を通学区として創立した。
明治18年2月には磯部村を加えて初等小学校となり、次いで明治25年4月に沖町も加わり松寺尋常小学校となった。

昭和27年4月学区変更で、諸江町小学校と併合となった。




昭和2年竣工。長さ156尺(51.5m)有効幅7尺(2.3m)の当時として、大変すばらしい橋であった。

浅野川線の電車の駅名が「三ツ屋」から「吊り橋」に変更されたほどで、以後24年間「寺町の吊り橋」として多くの人に親しまれた。洪水の時、他の橋が流されても大丈夫であった吊り橋も、荷車の時代から自動車社会へと世の中が変わり、昭和26年その姿を消した。