尾 張 町  天正11年(1583)、前田利家入城の時分、彼の出身地である尾張荒子
(現名古屋市中川区荒子町)で用命を承っていた町人を召寄せて住まわせ
たのが、一般的な町名の由来です。
 この地の歴史を遡ると、白山「三宮古記」に記載されている“山崎村凹市”
という商業集落に辿りつきます。凹市は、浅野川沿いの久保市神社周辺(=尾張町界隈)がそれであると言われています。
 やがて時代が下り、加賀一向衆の自治の中心が、すでに栄えていた山
崎村凹市の地に、本願寺の支坊として“おやま御坊”が建てられます。百
年に及ぶ自治の後、おやま御坊は佐久間盛政によって陥落させられます。
その後、天正11年(1583)前田利家の入城により、この地は金沢城となり三百年の藩政時代を過ごします。さらに、明治維新以降は、陸軍第七連隊・第九師団本部として、戦後は金沢大学として、等々金沢の歴史に深くかかわりを持ちつつ、飽きずに商いし続けて老舗の名を現在に残しています。尚、昔は大手門を境に近隣の町は上と下に分かれていました。
武蔵ヶ辻  武蔵庄兵衛の屋敷があった事で名が付いたと伝えられています。代々の
庄兵衛は家柄町人として町年寄に任じ、藩候謁見の特典を持っていたと伝
えられます。
近江町市場  久保市という古くからの市に対して、この地に今市という市場が出来て人
が集まるようになったのが由来です。
 藩候の御用を勤めていたので、プライドも高く、威勢の良さをもって、城下
町の台所を賄っています。
博 労 町  江戸時代は馬労町と下記、[ばくろまち]と呼びます。ここに伝馬役所があ
り、馬借博労が集まり住んでいたのが由来とか。

町民文化館
 明治40年の金沢貯蓄銀行として建てられ、その後北陸銀行となりました。昭和51年に石川県に寄贈され文化財となり、昭和61年より尾張町商店
街復興組合に運営移管されました。
 外観は黒漆喰の土蔵作りで、内部はアメ色にギリシャ風エンタシスの柱
と共に、不思議な歴史的調和を持っています。
今  町  新町も家屋が増えたため、今、もっと新しく出来た町というので名付けられたと聞きます。
 明治維新後、陸軍第七連隊・第九師団本部が金沢城内部に設置される
と、兵役に就いている息子を訪れる家族の人の宿や街として発展しました。
中  町  皇国地誌には“大手先小坂下の竪町にて、実に城中より出づる本通なり。故に中町と称したるか”とあります。又、中町通りが緩やかな斜面であっ
たために、旧小坂があったとも聞きます。
大 手 町  金沢城の大手口にあたる地名で、古くは大手先・大手口・小坂下・尾坂
口・小坂下とも言われていました。最初は町地でしたが、寛永12年(163
5)の大火を機に町家を退去させ、大身の藩士の屋敷地となりました。
殿  町  大手町の後町になります。当町は十間町の内、武家地を殿町、町地を十
間町と呼んでいた頃の名残ではないかと言われています。
里程元標  明治6年の太政官達により、初めて全国主要街道の県庁所在地の交通
要所に木柱を建て、この場所を管内諸道の起点、すなわち元標と定めると
のことで、『石川県里程元標……加賀国金沢』の木柱もまさに当時金沢の
最も繁華な実績を持つ尾張町に建てられたのです。
 明治政府は又、西洋列強諸国に追い付かんとして富国強兵策を推進して
いる時でもあったので、石川里程元標の木柱に並び『名古屋鎮台……六十
六里十六町・豊橋営所』という木柱も建てられていました。

泉鏡花記念館
 泉鏡花、本名は泉鏡太郎。金沢の彫金象嵌[ぞうがん]細工師泉清次(工
名政光)の長男として明治6年(1873)、金沢市下新町(現尾張町2丁目)に
生まれました。出生地は今の森八本店の後側になります。母は江戸の鼓
師の娘で鈴と言われました。
 その独自の天才的な文章の中には、尾張町界隈の事が多く書かれてい
ます。
枯 木 橋  元亀から天正にかけて、織田信長が一向一揆討伐の名のもとに加賀に
攻め入ってきました。あまりの戦乱の凄まじさで付近一帯がことごとく枯木
となり、年月を経てもそのまま赤く枯れたままだったので、橋の名にまでな
ったのです。
橋場町(懸作り)  江戸時代から掛け作りの仮屋を設けて、当時の常識を破り、店頭に衣装
などを並べる商売が繁盛した事からこの付近を「懸作り[かけづくり]」と呼
ぶようになりました。武士・町人の別を問わず、誰もが気軽に表通りより店
内を覗けるので、次第に人が集まり賑わっていました。

梅 ノ 橋
 この橋は、明治43年付近の人たちがお金を出し合って架けたものです。
 並木町の料亭と東の茶屋街に架かるだけに、随分艶っぽい雰囲気で、巷
にはある有力な旦那さんが東の茶屋街へ通うために影で相当お金を出し
たとか………。

浅野川大橋
 昔は“とどろき橋”とも言われ、文禄3年(1594)に初めて架けられたとい
う記録があります。架け替え費用は尾張町を含む本町町人が負担していま
した。
 現在のアーチ式の橋は、大正12年のもので、平成2年に外観が改修さ
れたものです。
主 計 町  [かずえまち]と呼びます。昔、富田主計の屋敷があったと言われています。金沢の花柳界では一番こじんまりしており、別名「流れ」ともいわれ、芸には磨きがかかっていることで有名です。
 泉鏡花の『照葉狂言』にも書かれるほど、浅野川に面した情緒深さを現し
ています。平成11年10月に旧名復活しました。

中 の 橋
 浅野川大橋と小橋の中間に架かるため“中の橋”と呼ばれるこの橋は、
昔通行人から渡り銭を取ったため、一文橋とも言われたのです。