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幕末期に行われた塩硝の増産体制

 塩硝増産のため、土清水塩蔵のほかに設置された各地の製薬所にスポットを当てます。

金沢市崎浦公民館
「塩硝の道」検証委員会


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 平成9年度からの塩硝の道検証委員会の活動状況の報告は、毎年続けてきて今回は第5報になりました。平成13年2月に一応のまとめである「加賀藩塩硝をたどる歴史の道」を発刊し、多くの方々のご支援を得て、発行数1,500部が、国内の各方面へ渡って行ったほか、国外の有名大学の図書館から注文を受けるなど、予想以上の反響がありました。とはいえ研究者の一部の方からご指摘もあり、当然歴史研究家のようなわけにいかない私たちですが、将来に向けて真摯な取り組みを続けていきたいと考えています。
 さて、平成13年度は、いままでの研究の中で、もっと研究を深める必要のあるものや、いままでの研究に関連して調べる必要があるものについて、調査研究をすすめました。以下その概要を記述します。

土清水から塩硝蔵への坂

 現在の塩硝坂は明治以降のものといわれ、古い絵図にもこの道の記載はなく、塩硝蔵のあった頃の土清水と塩硝蔵を結ぶ坂道は、現在の塩硝坂より数十メートル上手と下手の二ヵ所にあったのです。 平成13年7月から8月にかけて私たちは何度もこの二ヵ所の坂道を探しに藪の中へ入りました。そのとき見つけた道の一部が下の写真です。もう道として見分けがつかない状態でした。

塩硝製薬所、塩硝蔵の増設

 幕末の黒船騒動から塩硝の需要がたかまり、加賀藩では塩硝の生産は五箇山だけでは追い付かず、藩内に幾箇所も新たに塩硝の生産をさせました。
 また、塩硝製薬所や塩硝蔵を増設しました。平成13年度に調査したのは、上野弾薬所、田上塩硝蔵、野田塩硝蔵、小柳製薬所です。これらについて記述します。
(1)上野弾薬所
 現在の小立野1丁目にあった弾薬所と試験場のことです。7月8日と8月28日の二回にわたって現地調査をしました。
 「慶応二年六月弾薬所御地取絵図」(玉川図書館近世資料館蔵)には、東西に101間、南北に116間の大きさで土居に囲まれた塩硝蔵があり、さらに小立野台地と浅野川との間に、塩硝試験場が設置されていました。私たちは現地を巻尺で計測して、前述の絵図に記載の面積と、野坂と云われる下田上橋から上野弾薬所入り口までの距離を確認することができました。
 この上野弾薬所は、明治10年陸軍省所轄地になり、明治11年10月金沢歩兵第七連隊が明治天皇の御親閲を受けました。(小立野1丁目児童公園に石碑があります)
 前記の野坂は、一部に現在も古い姿を残しており、とりわけこの道は戸室山から金沢城へ石を運んだ道でもあり、私たちは、石川郷土史学会・北島敏朗先生の戸室石引道の文献などを勉強しました。また、歴史家杉本晴介先生の二俣の道についても勉強しました。野坂は「オオサカ」と呼ばれ、古くから大通りであったということです。
(2)田上塩硝蔵
 安政元年(1854)、現在の金沢市田上町、田上運動広場に接する地に設置され、北側は山地に、他の三方向は畑が隣接していたことが玉川図書館近世資料館所蔵の絵図に示されています。写真は、平成13年10月現地調査したときのものです。
(3)野田塩硝蔵
 幕末に、現在の法島町の崖地に沿う形で83間、東西方向に50間の広さであったことが玉川図書館近世資料館所蔵の絵図に示されています。現在この地は、南北方向に約100メートル東西方向に約50メートルの墓地で、松林や竹林に囲まれ鬱蒼としています。その東北側の崖には、「法島町急傾斜地崖崩壊危険地域/石川県」と掲示されています。
(4)小柳製薬所
 現在の石川郡鶴来町の小柳町から日御子町にわたって設置され、幕末に数年間使用されました。高橋川(富樫用水)沿いに製薬所、そこから約300メートル西方に塩硝蔵があったことが、玉川図書館近世資料館所蔵の絵図に示されています。北陸鉄道の日御子駅付近や倉ケ岳へ行く道筋がこの塩硝製薬所や塩硝蔵にゆかりの深い地域です。

塩 硝 箱

 塩硝は、塩硝箱に入れて人の背や、牛や馬の背に乗せて運び、藩へ塩硝箱に入れた状態で納めたのです。
 御召塩硝としての加賀藩の塩硝買上げは、寛永十四年(1637)以降といわれ、九十四個が定式となり、天明五年(1785)の改法によって、百十四個(四〇斤入り)になりました。この間に不安定な買上げになった時期もあったといわれていますが、ほぼこの数量が続けられ、幕末嘉永の頃から異国船騒ぎによって急拠御召塩硝量が増加。寛永五年(1858)に「新土坪増仕法」によって増産体制がとられました。
 このように加賀藩は、定式に上塩硝を塩硝箱の個数で買上げたのですが、その場合塩硝箱の大きさは一定の寸法であった筈です。現在、五箇山や石川県立歴史博物館等に所蔵の塩硝箱は、定式買上げに適合したものか、検討が必要であります。平成11年3月31日発行の「館報崎浦」に記載の土清水町湯原家に伝わる塩硝箱がこのほど同家のご好意により崎浦公民館へ寄贈されました。その寸法は左記図のとおりです。おそらくこの塩硝箱が定式寸法でないかと思いますが、近々現存の塩硝箱のできるだけ多くについて詳しい調査を行いたいと思います。
 なお、この湯原家から寄贈された塩硝箱は、現在当公民館に保管のこのほかの塩硝関係の資料や、今後保管になるものと一緒に当公民館で常設展示して皆様からご意見をいただけるようにする準備を進めております。

一向一揆と加賀藩の塩硝

 加賀藩の形成を考えるとき一向一揆の流れを把握しないで、知ることはできません。加賀藩は一向一揆を抑圧しながら、他方では一向一揆の原動力を藩の体制造りに役立たせる政策に成功したといえるでしょう。また、加賀藩の五箇山支配は、天正十三年(1585)からといわれ、五箇山ではそれ以前から塩硝の生産が行われ、一向一揆側へ供給していました。とりわけ宗教的に五箇山は、住民間の結び付きの強い地域で、これらがどういう過程を経て加賀藩へ組み込まれていったのか、興味の深いところであります。
 私たちは例会の一回をこの研究に当てました。塩硝を考えるとき、重要なことと思ったからです。

むすび

 この一年間の活動状況を記述してきましたが、一応のまとめとしての本を出したら、活動はいっぷくとも考えましたが、歴史はひもとけばとくほど、新しいことが現われ、先祖の苦労がしのばれます。小立野台地は古くは土壌が痩せ、作物の育ちにくい地域が多かったが、寛永九年(1632)辰巳用水が通ってから急激に変わり、先祖の開拓精神から地域全体が活動的になり、現在のこの地域の実態に結びつく要素が明確に出てきます。
 近く崎浦公民館50周年記念誌として発行の『さきうら 過去・現在、そして未来へ』も遠い昔からそして広い範囲から、崎浦がどのように歩いてきたか、それを受けてどうあるべきかを、探ろうとするものであります。
 塩硝の道の探求も深く広くしていく必要があることを、この一年間の活動を通じて痛感しました。今後も地道に歴史探求をしていきますので、皆様のご意見等をお寄せください。

         館報崎浦23号(平成14年3月31日発行)より抜粋

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