地域の歴史
新神田校下は金沢の西南部に位置し、校下には犀川・伏見川の2本の川に沿って縄文時代より集落が形成されていった。この川は幾度なく氾濫を繰り返し、多量の土石を押し流し、土着民はそのたびに土を掘り起こし、平地を築き田畑を形成し、その中洲に当たる平野を自分達の領地として農耕を営んできた。
犀川に沿って形成されていった集落が中村、増泉、御供田、入江、玉鉾、高畠であり、さらに伏見川に沿いに東力、保古などがあるとされている。
新神田は、何時の頃から中村校下の神田地区とともに、古くは「御供田」と呼ばれ、白山宮社の御供田(おそなえ田)があったことから神米造りの地域となり、地名も神田と命名された。
加賀藩政時代には肥沃な沢の中の里として、桑畑や田畑に多くの人が働き、葦毛や栗毛の駿馬も入江馬場にもみられた。
新神田校下は、明治、大正、昭和初期には、石川郡米丸村に属しており、昭和10年(1935年)、米丸村が金沢市に編入されたことに伴い、他の中村、
増泉、東カ、糸田、保古、黒田、間明、高畠、玉鉾、入江の各地区とともに金沢市に入った。
その後、新住居表示制度の実施に伴い、新神田と地名が改められた。
これは、現在の中村校下の神田地区に対して、JR北陸本線より西側の新しい神田として名づけられたものである。編入後以来ずっと米丸小学校の校下にあったが、米丸小学校が児童数2、000人を超える大規模校となったことに伴い、昭和56年(1981年)新神田小学校が開設されるに伴い、新神田、糸田、玉鉾、入江、本江地区などが新神田小学校の通学区域に編入され、ここに「新神田校下」が発足した。
当時の新神田校下の人口は、おおよそではあるが6,200人、世帯数は約2、000世帯であり、新神田小学校の児童数は、664名であった。爾来20数年、その名のとおり、もとはその大部分が田んぼが多く見られた当地区も、市中心部に近いこと、北陸自動車道、国道8号線に直結する「西インター通り(都市計画道路専光寺・野田線)」や金沢駅につながる「まめだ大通り」の開通、また犀川にかかる「大豆田大橋」や「若宮大橋」の架橋などが、相次いで完成をしたことなどにより、近年では住宅が軒を連ねるようになっている。ちなみに平成23年8月1日現在における当地区の人口は7,318人、世帯数は3,219世帯となっており、町会の数は、15町会を数えている。
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